平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

トップページ»  絵のある待合室 第4室

絵のある待合室 第4室

 

絵のある待合室31

 

堀進二「老婆の肖像」大正4年作 
第9回文展出品作

年譜にはこうある・・・第9回文展に「若き女の胸像」「老婆の肖像」「母と子」を出品し褒状を受ける(審査員は山崎朝雲、米原雲海、新海竹太郎、白井雨山、高村光雲)特に「老婆の肖像」は中原悌二郎によって「近代日本人によって作られた彫刻の中では傑作の中にかぞえられるべきものだ」と評されたとある。この作品の原型は友人の中村彜の所蔵となり後に平櫛田中コレクションに加えられた(現在は東京芸大蔵)。
展覧会の解説には・・・うつむいた表情で物思いに耽る老婆。顔面に反射する神秘的な雰囲気を醸し出している。堀の徹底した写実とそれに伴う適格な性格描写が示されており、この老婆の人生や心情を細やかに伝えてくれる。首を支える細い身体が不安定な姿勢を強調し、あたかも老いと向き合う人生のドラマを演出しているようだ・・・願わくばまた、青年期の堀進二の作品に出会いたいものだ。

 

絵のある待合室32


大野明山(1896~1981) 「古代ノ武士」 昭和18年作

島根の隠れた名匠である。島根には米原雲海と荒川嶺雲という二大巨匠がいた。明山は嶺雲の内弟子を経て、高村光雲の外弟子、吉田芳明の内弟子、藤井浩祐から彫塑を学び、吉田白嶺の勧めで院展に出品し快進撃が始まったが、昭和20年戦争の激化で帰郷した後は中央に戻ることなく地元出雲で孤高と引き換えに数々の名品を残した。平成5年に大野明山展を出雲文化伝承館で開催されたが、今度は島根県立美術館で回顧展をやってほしいものだ。一地方作家として扱うには、あまりにも惜しい。

 

絵のある待合室33


吉田白嶺「髭」1915 第二回再興院展出品作 高さ59㎝ 近代日本彫刻集成第2巻(大正期編)掲載

この作品は2010年に開催された「岡倉天心と日本彫刻会展」に出品され、一躍白嶺の代表作の仲間入りをしたラッキーボーイである。参勤交代で男が溢れていた大江戸で女の子にモテルには髭抜きでツルツルの卵肌にしなければならなかったのだ。当時の青年武士の婚活が微笑ましい。大正期の風俗人物彫刻の名品であるばかりでなく、誰からも好かれ愛されるモダンさも兼ね備えているのが興味深い。

 

絵のある待合室34

 

小室 達「夏」1938 第2回主線美術展出品作 68㎝

仙台の有名な伊達政宗を作った男である。1899~1953(享年53)の早世であるため忘却の作家となってしまっている。この作品は彼の日記からある子爵家に売却されたものである事が判った。きっと趣ある洋館の居間にでも置かれていたのであろうか。1999年北海道北見で発見された小惑星に小室達生誕100年を記念して発見者が「komurotoru」と命名したという。短命であった彼の命は夜空に繋がれた。

 

絵のある待合室35


澤田政廣「舞ひ」昭和2年

政廣の初期作である。寅の刻銘があるのが初々しい。今さら言うまでもない作家の一人であるが、やはりその偉業は尊敬に値する。政廣の生きた時代とその人脈は近代彫刻の高揚した黄金時代であったことは疑いないであろう。

 

絵のある待合室36


長谷川栄作「乙姫」大正9年
第4回栴檀社展出品作

不思議な作家である。彼の作る裸婦像は同年代の作家の裸婦像と比べ独自の風がある。何とも無国籍的なラインが美しいのである。知人である気鋭の学芸員がそろそろ調査研究するべき興味深い作家の筆頭であると言っていた。その通りである。ちなみに長谷川栄作の叔父は乃木希典である。

 

絵のある待合室37


二木一郎「ゆうまぐれ」1992 30号

作家からメールが届いた・・・・

はじめまして、二木一郎です。

「ゆうまぐれ」は90年代前半の一番の代表作と位置付けておりますので、新作を中心に掲載しているホームページにも、今後もずっと掲載しておきたいほど愛着のある作品です。
 
私は1987年に初めての海外旅行でイタリアを旅し、それ以来アッシジを中心とするイタリア中部の風景に心を奪われて度々訪れたものです。
アッシジのあるウンブリア州、フィレンツェやシエナのあるトスカーナ州が大好きです。
特にアッシジの街は近郊から産するピンク色の石灰岩でできており、そのままでも美しいものですが、雨に濡れたり夕日を浴びたりすると一層神秘的な輝きを増します。
 
「ゆうまぐれ」は、日没の直前、塔の頂上だけに西日を残すアッシジのサン・フランチェスコ聖堂を描いたものです。
上下二層からなる聖堂の上部聖堂だけをクローズアップしたものです。
塔の頂上だけが明るい様子は、一本のロウソクのように見えます。
この聖堂には人類の良心とも言える聖人フランチェスコが眠っています。
フランチェスコに捧げる一本のロウソク…そんな想いで「ゆうまぐれ」を描いたと記憶しています。
今見ると荒削りな部分の多い画面ですが、その時にしか描けなかったもの、あの頃の私の心模様が明確に出ているように感じます。
因みに水野美術館にある「洩れ日」は、同じ年に院展に出品したもので、同じくサン・フランチェスコ聖堂を描いたものです。
 
ご存知の通り、サン・フランチェスコ聖堂は聖人フランチェスコを祀るために建てられたものです。
イタリアン・ゴシック様式の代表的な建造物で、堂内は初期ルネサンスの画家ジョットの大壁画「フランチェスコの生涯」を始めとする数々の壁画で彩られています。
機会がありましたら是非一度アッシジを訪れていただきたいと思います。
どこをとっても、壁の石一つに至るまで素敵な街です。
 
「ゆうまぐれ」は私がイタリアを描き始めて間もない頃の作品で、あれからもう16年になります。
私の作風は近年急速に変化してきています。
しかし、意図的に変えようとはしていません。
常に、私の持っている味が自然に出てくるように努めています。
目新しいモチーフや華麗な技法で見る人を煙に巻くようなことをせずに「私の骨の髄から滲み出てきた画面」を創る。
これが私の目標でありスタンスです。
流行に左右されたり頭だけで作ったものはすぐに行き詰ってしまうので、厳に戒めています。
私は今年52歳ですが、学生時代から今日まで絵を描いてきて、今が一番楽しく感じています。
これから描きたいものも山ほどあって、どれを先に描くか悩むほどです。
4年ほど前までは風景一辺倒でしたが、花が加わり、人物が加わり、今後は静物にも挑戦してみたいと思っています。
私の師匠からも「50代が一番充実する」と言われていますので、私自身どんな作品が描けるのか楽しみです。
 
作品は私にとって子供のようなものです。
どの作品が誰の元にあるのか、特に古い作品は不明なものが多いのですが、今回「ゆうまぐれ」の所蔵先が判明して、とても嬉しく思っております。
ご連絡いただきまして、本当にありがとうございました。
どうぞ末永く「ゆうまぐれ」をご愛蔵いただけますようにお願い申し上げます。
 
━━━━━━━━━ Ichiro Futatsugi.■

 

絵のある待合室38


直球の画家  稲垣考二

稲垣考二「窓」1979 20F 油彩キャンバス

これで稲垣作品は2点目となる。最初の作品「ブリキ缶」20号水彩であった。あれから1年が経ち、今度はこの作品を入手した次第である。彼は講師をしている名古屋造形芸術大学で自身の本音を披瀝した・・・「ずっと直球を投げ続けてきた。年をとってきてだんだん直球が身にこたえるようになって来た。年をとる前に変化球をお憶えなくてはならないものだが、私は直球しか投げられない、投げられなくなってバタッと倒れるかも知れない」とつとつと語る口調は、稲垣さんの作品そのものだった・・・とある。抜群のデッサン力を持ちながら一般受けするような売り絵はほとんど描かない。ひたすら独自の風を貫く全力投球の画業は、特異な領域へと到達しつつある。その行方を今後も見守って行きたい。
  さて、この作品は1979年日動画廊主催の第2回「現代の裸婦展」で大賞を取った若き日の代表作である。今まで物故を中心に裸婦の優品をゲットしてきたが、このようなカッコのイイ、颯爽とした裸婦は記憶がない。是非入手して間近で見てみたい、そして他の裸婦と比較鑑賞してみたい衝動にかられた。実物を間近で凝視すると、まるで糸を紡ぐように無数の筆跡が交差しているのだった。この画家の特徴でもある「表層への執着」の奥義を見た思いがした。この作品について画家に手紙を出したところ、返事が来た・・・ご丁寧なお手紙を頂きありがとうございました。「窓」図版を見て懐かしく思います。大学の研究科を出た年に制作した作品で・・・この頃からひとつの画面に複数の図柄を重ね合わせる事を始めました。造形的なもの(形、色、マチエール)と意味(モチーフ、テーマ、コンセプト)を比べると造形的な面白さを優先させ描いています。意味合いとしては曇りガラスを拭いて外を眺めながら上空を鳥の群れが通過すのを見付けたところです。鳥は男性を表すものだとは後で聞きました・・・
 
作品を通じての作家との交流も楽しみのひとつである。

 

絵のある待合室39


下村観山「寿老」紙本墨画下図 145x50cm

下村観山と言えばどのような印象があるだろうか?横山大観の女房役のイメージが強いのではないだろうか。いやいやである。彼がいなければ再興院展は存在せず、画壇は混乱していたであろう。観山は画想の点では大観ほど豊かではないが、何と言っても技巧の点では群を抜いており、感もよく呑み込みも速かった。岡倉天心がちょっと示唆すればその意を誰よりも理解し、天心の構想をそのまま絵にしてしまう。天心は観山を重要視していたため、五浦時代の大観、春草は羨んで不満を漏らしたという。またいち早く朦朧体を示し、フェノロサに激賞されたのは観山であった。その後大観や春草が急進的に朦朧体を推し進めることになった。再興院展の若手の俊英たち、例えば安田靭彦、前田青邨、速水御舟らは観山にあこがれ観山を目指していたのである。それほど観山は多くの若手の目標であった。しかし、現在は大観や春草の影に隠れてしまい埋没してしまっているようだ。このデッサンを見てほしい。観山は線の研究者としても知られている・・・(1)潤滑自在の抑揚ある線(2)鉄線描のような強い線(3)抽象化されたシャープな線(4)掘りぬりにみるギザギザの線(5)なまみてなめらかな曲線(6)リズムを感じさせる達者な毛描き(7)点描の連続線(8)片ぼかし的な線(9)短く速く揮った線・・・それらの線はいかにもしっくりと力のバランスを得て調和しきっている。「大観や春草が近代日本画の夜明けに潮染んで進んだとすれば、観山は黒潮の底深い流れに似て、日本画近代化の底流をなしたといえよう。57歳で没した巨匠にさらに次期の転機を与えるべきであった…細野正信」
この作品は小生の父の誕生日プレゼントとした。長寿を祈って。

 

絵のある待合室40


桑山賀行「街ー標」1980年 112cm

藤沢市在住、日展評議員である桑山氏の若き日の作品である。氏は澤田政廣の内弟子として13年もの間修行し、20代半ばで連続特選、30代前半で最年少の審査員となった才気あふるる作家の一人である。気さくで温かな人格は皆から愛されているという。この作品の問い合わせをした際に氏は「まるで街中で小学校の同級生に偶然あった時のような驚きと嬉しさ」と表現された。こちらこそ未知の木彫家を紹介してくれた彼女(街ー標)に感謝している。