平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第5室

 

絵のある待合室41


隆中三顧図(絹本彩色 部分)
村田香谷(1831~1912 )

明治25年(1892年8月)に制作された、三国志の名場面を細部まで緻密に描きこんだ南画の名品である。香谷は幕末から明治にかけて活躍した福岡生まれの文人画家で、四条派で一家をなした父、東圃の子でもあり貫名海屋や鉄翁祖門に師事、日本各地や中国を3度歴遊し明治13年京都府画学校に出仕し、数々の著述や褒状を受けている。晩年は関西南画檀で重きをなした。
今回、私がこの作品を入手した訳は、三国志好きという単純なものからでもあるが、この香谷という人物のある一面に惹かれたからでもある。それは香谷の一生は、その殆どを蕭尺木の大平三山図録の探求とその入手に費やしたといっても過言ではないのである。初め長崎遊歴の途に博多を訪れた時、この図録の貴重にして南画の宝典たるを聞かされ、手に入れたならば得るところ大であると話されて以来、夢寐にも忘れず諸国を巡り、明治4年に京都の山口仁六氏所有たる確かめ万端を配して山口家を訪れ、憧れの図録を見ること叶ったが手に入れることは出来ず、香谷の執拗さに山口氏は出入りを禁止するに至った。そこで香谷は本国にその図録を求むべく、中国に3度渡り大家に師事しながら、探し回り終には金10両で求むとの印刷物を散布したが得られなかった。本国にも1本すらないと分かった香谷は、明治34年に30年ぶりに京都の山口氏を訪れたが、既に故郷の丸亀に移転した後であったので、暫らくして山口家を訪れた香谷は主人の死に驚き且つその臨終に図録を香谷に譲るべく遺言された事に感激して悲喜交々に至り、未亡人の話によって、昔木村兼霞堂の所有以来、所在不明だった図録は転々として、讃岐高松藩の太夫覚氏に在り、それより山口氏の義侠に対する謝恩の意味で山口氏の秘蔵する所となったという奇しき物語りを聞かされた。香谷が23歳の頃より志した蕭尺木大平三山図録は70歳の晩年に落手し、今更ながら感慨に耽ったという。この三顧図は図録入手約10年前の作品であるが、孔明を求める劉備は当に図録を求める香谷であるに違いない。コレクターの熱き思いにも通じる逸話である。

 

絵のある待合室42


菅野圭哉「静物」10F 油彩

菅野の絵を何と観るか?!

平成17年7月23日から全国巡回の三岸節子展が平塚市美術館で始まった。長男の黄太郎氏の講演会で私はタブーとされていた質問をした・・・「菅野圭介を節子やあなたはどのように評価しているのか?」・・・黄太郎氏は次のように答えた「最初のうちは詩情のある良い絵を描いていたが、生活の破綻から絵は荒れ、彼の絵は未完成の絵、完成していない荒んだ絵になってしまった。可愛そうな男です。しかし母は菅野の影響を受けています。」・・・この意見は想像していた通りであった。三岸家からすれば菅野は乱入者であろうが、節子がその才能に惚れて別居結婚した事実は動かせない。黄太郎氏は次のような興味深い話もされた・・・「父好太郎は天才の名に恥じない仕事をしたと思います。母は努力の人です。デッサンを何枚も描いた後、キャンバスでは塗っては削り塗っては削りの繰り返しです、それはそれは時間と技術を十分使って描いた努力の人なのです、作品は努力の結晶なのです」・・・
そうなのです!菅野は三岸節子の反対なのです。菅野はデッサンをしない。一日中その景色の中に浸り頭の中でデッサンし、いきなりキャンバスに向かい独自のマチエール理論で一機に完成させる絵なのです。しかし、母節子の制作態度を真近に見ていた黄太郎氏からすればササーッと描く努力しない絵、つまり未完成の荒んだ絵であり菅野という人物そのものではないかとバッサリ切ったのです。さて、皆さん、菅野の絵はこういう絵なのです。だから面白いのです。だからスゴイのです。因みに、この絵は出品作であり別居結婚していた圭哉時代の代表作です。梅野館長も菅野を語るに必要不可欠な重要な作品と高い評価をして下さいました。皆さんの評価は?!

 

絵のある待合室43


「吉岡訓導殉職像」保田龍門 1937年
石膏彩色レリーフ

平成16年10月2日~11月28日まで平塚美術館で保田龍門・春彦展が開催された。このレリーフは龍門の代表作「吉岡訓導殉職像」ブロンズが戦時供出され現存しないため、その代役となり急きょ出品された稀少なレリーフである。吉岡訓導こと吉岡藤子先生は昭和9年9月21日の室戸台風の折、倒壊した校舎の下敷きとなりながら5人の児童を救い殉職(享年27歳)され、その行動は多くの感動を人々に与え、教師魂の権化として称賛されている。このレリーフの裏には龍門の直筆で題名と制作年が記されているため資料的価値も高いと考えられている。近年、各地を襲った数々の台風や水害、土砂崩れそして地震を身近に感じるにつけ、日頃からの危機管理の大切さを痛感している。このレリーフは過去の記念碑でなく現在・未来の危機管理の忠告碑として大切にしたいと思っている。合掌。

 

絵のある待合室44


伊藤研之「家」1930年 第5回1930年協会展出品作

中山真一氏(名古屋画廊)が熱く語る!!「明治生まれの郷土画家を推す」の内容は当に“我が意を得たり”である。一部抜粋させて頂くことにする・・・明治時代後半に生まれ、大正から昭和にかけて活躍する画家とはいったい何者と言えるであろうか。明治人の気質を幼少より教え込まれ、大正から昭和初期の青年期には文芸誌「白樺」などに象徴される教養主義的で自由な気風のなかで育った。そして戦中は家族をかかえて苦難の生活を強いられ、戦後の混乱期にはたえず自分とは何かを問いながら制作した人たちである。日本の美術史のなかでもルネサンス的な意義をもつ世代であろう。要するに、おおむねの世代の画家たちには「人生いかに生くべきか」という哲学がる。キャンバスという画面の中だけが問題ではない。そうした逆説がまたキャンバスに還る。私たちにとって学べども尽きぬ魅力があろう。少なくとも具象系洋画では、後の世代と制作を同一に論ずることができにくい所以である。したがって、そうした明治生まれの、特に知られざる偉大な画家たちは、一部の美術ファンばかりでなく、今後より広くその画業が知られるべきであろう・・・そもそも、郷土の物故画家は地元から推さねば推すひとはまずいない。郷土の偉大な先達を顕彰するのに理屈はいらいのだ・・・
  明治生まれの画家が描いた大正から昭和初期の作品群には独特の魅力を持つ優れたものが多い。日本にはまだまだ多くの力ある郷土画家が埋もれているはずである。その発掘顕彰こそ趣味的自己満足だけでなく、尊い知的な文化的行為でもあると信ずる。
さて、今回は福岡の郷土画家の代表格である伊藤研之(1907~1978)である。中山氏の言う明治後半生まれの洋画家であり、福岡という地方画壇と共に歩み、土着文化と共に歩んだ画家(第1回福岡市文化賞)であることはもちろん、一画家の範疇を超えた九州の文化人(第29回西日本文化賞)として認知されているが、その画業は全国的にはほとんど知られていない。この作品(図1)は伊藤研之の最初期入選作品(新発見)である可能性が高く、現在福岡県立美術館の協力を得て調査中である。当に郷土画家の埋もれていた初期作品を発掘調査しているわけである。この初期作についてご存じの方がおられれば是非、ご教示頂きたくお願い申し上げます。
作品の内容であるが、いかにも1930年協会時代の作品、すなわちフォーブ調、そして建物や電車が擬人化したようなややシュール感じもする作品である。1930年協会第4回展出品作である「黄色い建物」板橋区立美術館蔵(図2)と同じ構図であることから、作者も気に入っていた風景なのであろう。場所の特定ができれば尚いいのだが・・・この手の作品群が全盛期であった昭和初期はきっと知的で個性的な明治生まれの青年画家たちが、熱気ムンムンで作品を出し合い切磋琢磨していたことであろう。それにしても1930年協会という団体の凄さはいったい何であろうか。1990年に板橋区立美術館で開催された「ふたつのモンパルナス展」を担当した尾崎眞人氏曰く・・・1930年協会は<二科>から生まれ<独立美術>の母体になったといえるが、団体としての構成は<二科>とも<独立>とも全く異なっていた。むしろ1922年に結成された大正の新興美術<アクション>と近い性格を持っている・・・1930年協会展はフォービズム一色の展覧会だったようにいわれているが、様々な作家が色分けされない状態で出品している・・・1930年協会は昭和の美術表現の可能性を培養し追求した展覧会だったといえよう・・・1930年協会は1926年に結成され1930年で発展的解散となったが、5回の展覧会で出品した作家数は623名に及ぶ。この中にこそ発掘顕彰を待つ明治生まれのルネサンス的埋没郷土作家が眠っていると思われる。このメンバーの中からこれは!!と思う埋没作家に狙いをつけて発掘顕彰して頂ければ幸いである。

 

絵のある待合室45


中西利雄「H嬢」10号 1943

旧蔵者曰く・・・・生涯を水彩画の追究と向上に費やし、大正から昭和の画壇に新風を吹き込んだ中西利雄。 腕を重ねて肘をつき、物思いに耽る理知的な女性が、華やかな装いと気品に満ちた姿で描かれています。彼女の肌は透き通るように白く、グレーの陰影やピンクに染まった頬などに混色の部分があるものの、滑らかで張りのある触感は、揺るぎない美しさを見せています。鮮やかな原色が散りばめられた衣装もまた、華美な女らしさを演出すると共に、色彩の変化が素肌の清澄感を引き立てています。皮膚の彩色とは対照的に、表情には堅牢な筆致が施され、この女性の内面を示唆するような強いインパクトを与えています。また、鮮明な黄緑色のテーブルと、その上に置かれたレモンイエローのノートとのコントラストは、背後にダークブルーが一面に塗られることで際立ち、背景、人物、前景の三分割された構成に、明確な奥行きをもたらしています。このように安定した構図や、黒く明瞭にされた輪郭線によって、思索するモデルは知性あふれる雰囲気に感じられるのです。そして、透明度の高いガッシュの特性が巧妙に生かされている為、画面は多様な筆跡を残しながらも一貫した爽快感に包まれ、色調の統一感を印象付けます。水彩画を水絵と称し、油彩画にはない独特の色彩表現を実現し、修正の利かない即興性の美学を貫いた中西利雄の、様式を超越した芸術性が遺憾なく発揮された婦人画の傑作です。

 

絵のある待合室46


幻の画家の幻のデッサン

横山潤之助「裸婦素描」1929 44x27cm滞欧作 
横山潤之助・・・大正期洋画界の若き天才、19歳で樗牛賞、アクションの結成、21歳で二科賞、26歳で渡欧、1945年5月25日夜半空襲にてアトリエとともに戦前の代表作を含む3000点焼失、時に42歳。画友中川紀元と力なく手を握り「戦災で絵も何もかも全部焼けた」と言い残し別れたのを最後に、消息生死不明となる。盟友神原泰、村山知義、岡本唐貴らも死んだと思っていたと言う。そんな潤之助が再び世間に知られるようになったのは1962年神奈川県美での「大正期の洋画展」に出品された「少女半裸像」と「友の像」からである。当時担当者であった朝日晃氏の尽力で、潤之助の所在が判り、盟友達は驚きと喜びの声を上げたと同時に戦争を憎んだという。時に59歳であった。翌年、個展計画が持ち上がったが病気に苦しむ。1970年芸術新潮に朝日晃氏「幻の画家横山潤之助」掲載1971年、個展作品制作中に心不全で死亡。享年67歳。
この滞欧デッサンは非常に貴重であり、内容も申し分のない横山潤之助の遺品でもある。ジュンノスケと地を走るような勢いのあるサインが印象的である。横山展を開催したことのある具眼の画廊主、川舩氏(ギャラリー川船)もこの作品の発見をとても喜んでくれた。戦前の作品はほとんどなく、滞欧デッサンに限っては後援会図録と川船図録に1~2点であり、この作品が3番目となろう。私見ではあるが、モデルはモンパルナスのキキと思っている。キキは「今日のモンパルナス」という小文を1929年に書いている・・・

 

絵のある待合室47


鈴木三郎(1904~1950)「金魚」1934 30号 第21回二科展出品作

多くの前衛画家を輩出した二科の九室会と言えば、今日では吉原治良をはじめ斉藤義重、桂ゆき、山口長男そして私の好きな広幡憲らの名前が直ちに浮かぶ。しかし、それだけではなく他にも多くの可能性を孕んだ才能が存在していたにもかかわらず、現在は埋没し忘れ去られてしまっている。そんな画家の中に鈴木三郎がいる。2009年秋、奇遇にも私が以前から何かとお世話になっていた大谷省吾氏(東京国立近代美術館)の小論文(現代の眼558)「吉原治良の新発見作品と鈴木三郎」の中にこの絵が紹介されていたのだ。この「金魚」という作品は現存しないとされていた彼の代表作のひとつである。遺族のもとに残されたハガキのみで知られていたにすぎない。大谷論文によれば・・・「鈴木は吉原と同じく関西学院に学び学院内の絵画サークル「弦月会」のメンバーであり、名コンビとして活動していた。吉原が1928年に退学して実家の仕事(後の吉原製油)に就き、鈴木は上京したため二人の交友はいったん途切れたが、1934年吉原の二科デビューと銀座紀伊国屋での個展を機に二人は東京で会い旧友を温めたであろう。同じ1934年に鈴木は二科展に出品した「金魚」他2点が初入選している。鈴木の作品はその後も二科の中では新傾向の作品がまとめられた第九室に展示されており、吉原とともに有望な新人として遇されていたことが判る。戦局の悪化により二科会は1943年を最後に解散し、鈴木は戦後しばらくして亡くなった。その早世と作品が現存しないことから彼はほとんど忘れられた存在となったが、もし病をえることがなければ、ユニークな仕事を展開していた可能性が高く、惜しまれてならない・・・今後、彼のような半ば埋もれた作家の調査と再発見の作業を吉原のような画家の顕彰とともに進めて行く必要があるだろう」と・・・このように1点も存在していないとされた鈴木の作品、しかも初入選の代表作が私の手元にあるとは私自身がビックリであった。そして、鈴木のご遺族が私の住む隣町に画家として在住していることを大谷氏から聞いて私も大谷氏もご遺族もなおビックリであった。過日、大谷氏はご遺族といっしょに拙宅に来て下さり感動的な有意義な時間を過ごさせて頂いたのである。「金魚」は先鋭的なシュール作品の代表格であることは間違いない。僅か1点とはいえ、この絵が残っていたお陰で鈴木三郎の発掘顕彰が少しでも前進すれば望外の喜びである。それにしても大谷さん本当にありがとうございました。

 

絵のある待合室48


藤井浩祐「舞子」大正11年 80cm

院展彫塑部の指導者であった藤井浩祐の大正期の作品は貴重である。資料には大正10年12月日仏交換展覧会のため「舞子」を日本美術院を経て出品するとある。おそらくこの作品と同型のものではないかと推測している。次女が日本舞踊をしている姿に酷似しているのは贔屓目であろうか。藤井にしては構造的なしっかりした人物像の部類に入る佳品である。将来は次女に持たせるつもりだ。最後に藤井浩祐の名著「彫刻を試みる人へ」大正13年初版はお薦めである。

 

絵のある待合室49


「竪琴美人」仮題 大正末頃 作者不詳

高さ125cmと大きな作品である。組作品の一部であろうか?当に和製サッフォーである。時代を経て来た木彫作品は独特の風格があって好きである。彫刻専門の学芸員諸氏に調べてもらったが未だ作者不詳である。

 

絵のある待合室50


土方久功 「まき毛」42x37x3cm 1953年 個展出品作

7年ぶりの再会で入手した土方作品である。某画廊で当時80万の高額で売りに出ており、しぶしぶ諦めたのを思い出す。それが昨年末に旧知の画廊に出現!30万になっていた。思い切って分割で購入を決めたのである。この女性はセベロングルと言いパラオ島の娘さんで土方を好いていた!のがわかっている。詩集「青蜥蜴の夢」にその件が出てくるので興味にある方はどうぞご覧下さい。1991年世田谷美術館で開催された土方久功展の担当者である清水久夫氏にこの作品および私が所蔵する1924年のブロンズ「マスク」についていろいろご教示頂いた。清水氏は土方研究の第一人者であるばかりでなく、土方久功日記を翻訳し世に送り出すという学芸員としてまた民族学者として非常に重要な仕事をされている。これこそ学芸員の鏡であると言ってよい。若き学芸員諸氏も展覧会だけで終わることなく、その奥にあるものまで触ってほしい、そして形あるものにしてほしい。これぞ我がライフワークであるという仕事をしてほしいと思う。
  さて出品目録によれば、1953年に日本橋丸善で行われた個展に出品された18点の内の1点であり(??12のシール)、仏陀を彷彿させる風貌はこのパラオの娘さんに対する土方の素直な思いの表れであろう。多くの女性像がある中で、このような作品は唯一この作品だけであるのが興味深い。

孤島でのラブロマンスは土方にとって如何なものであったのだろうか?

補足  
土方の現存最初期のマスクは清水氏も絶賛された作品で、そのお手紙にはこう記されていました・・・ご所蔵のマスク、全く知りませんでした。実に貴重な作品で、もしわかっていたら世田谷美術館での展覧会に出品したかったです。敬子夫人も知らなかったはずです。南洋へ行くときに親しい人たちに作品を預けていたのですが、戦争があったこともあり殆ど残っていないと聞いていました。どうしてこの作品が残っていたのか不思議です。「土方久功日記」が刊行されれば、また久功を取り上げる著書、論文も刊行されるでしょう。再び、この作品にも光があてられることになるでしょう。