平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第11室

 

絵のある待合室101


    川上邦世 「鹿」 1924 64㎝

当初、旧知の画廊主が個人宅で発見し苦労の末譲ってもらった邦世の動物彫刻代表作である。この作品は 2010年に群馬県立館林美術館に初出品され、その後縁あって私の所蔵となった。徹底的に調べた結果、復興紀念彫塑合同展出品作であることが判明した。関東大震災後の復興を祈って開かれた展覧会である。美術芸術が復興の起爆剤となっていた当時に思いを馳せた。東日本大震災の復興もそうでありたいと思う。地から立ち上がる雄々しい鹿の姿は、まさに復興のシンボルである。邦世の復興に対する意気込みがひしひしと伝わってくる名品である。

 

絵のある待合室102


 中山巍 「アルルの跳ね橋」 1923 15号

図録ではデッサンが知られていたが、これがその油彩である。新発見の滞欧作だ。Y学芸員の情報では岡山の美術商で売られていたがその後行方不明になっていたとの事であった。幸運にも私のところにやって来たのは絵にも意志がある証左であろう。 ご存じの通りゴッホも同じアングルで跳ね橋を描いている。較べて見て下さい。

 

絵のある待合室103


 

 木原千春 「トラ」 2005 50号 アクリル

木原千春26歳頃の作品である。17歳に描いたカエルを持っているが、このトラも面白い。日本人離れしている色使いや構図といった作風はハイリスクだが、ハイリターンでもある。アカデミックな美術教育の中からでは出てこない在野の作品であろう。評価するのは私たちであり歴史でもある。

               

 

 

絵のある待合室104


 建畠覚造 「WORK」 1962  43㎝ 作品集掲載

過去4回の個展、展覧会に出品されている代表作のひとつ。覚造氏は建畠大夢の長男である。名著「彫刻」昭和57年はおススメである。この作品は彼の作品の中でも特異的なものであろう。彫刻という立体を否定し、平面に近づけ僅かな凹凸をつけることで影をつくり限局された闇から来る底知れない深さ(立体)を表現している野心試作でもある。

 

 

 

絵のある待合室105


 二見利節 「牡丹」 1954 8号 二見利節展出品作(1996平塚市美術館)

キャンバス裏には水色の絵の具で「威厳を示せるものです。法隆寺の壁画に類似点も在ます」と記してある。二見の作品の魅力はその独自の絵画哲学にあるが、その画業は幅広く今後の発掘と研究が必要である。生誕100周年を記念して2011年10月に郷里の二宮町に「ふたみ記念館」が開館された。期待したい。

 

 

絵のある待合室106


 矢崎虎夫 「鷹」 1930年作

7月28日の日付を少し回った頃、梅野隆初代館長が愛する長野の地で亡くなられた。享年85歳。本当に淋しいです。存命中からすでに伝説の人だったので、こらから第二の新たな伝説が始まったと言えよう。人は梅野初代館長を「美の狩人」と呼んで来た。60年間の長きにわたり、独自の審美眼で美という獲物とそのポイントを見つけ出し、ものの見事にゲットして来たのである。その生き様は「鷹」のようですらある。図らずも今回の愛する1点展が友の会による梅野初代館長の追悼展の形を取るとこになった。何を出品しようかとさんざん迷ったが、感傷的な湿っぽくなるような作品は避け、死ぬまで「美の狩人」と言う名の「鷹」であった梅野初代館長に最大の尊敬と追悼の意を込めてこの作品を選んだ次第である。梅野先生、どうかご寛容のほどを。

付記  矢崎虎夫は長野県茅野市出身の彫刻家。この作品は昭和4年院展初入選の翌年、昭和5年に制作されたものである。昭和6年に東美を卒業しているので、在学中の力漲る優品である。

 

 

絵のある待合室107


 反骨の水彩画家 互井開一   「阿部奥」1952 水彩40M 新水彩展出品作 

近代水彩画の巨匠の一人である。略歴にはこうある・・・「生来の野武士的反骨の精神は従来の官展の封建的なぬるま湯にひたることを潔しとせず、官展系団体と絶縁し、昭和24年2月に自ら同志を誘い、新水彩作家協会を創設(昭和30年から三軌会と改称)し、会の育成と発展に非常な努力を重ねてきた。また水彩画の従来おかれている、油彩に対する主従関係をくつがえして、水彩芸術の主体性を確立するために専念してきた逞しい反抗の姿勢は高く評価されよう」と。互井が不透明水彩絵具の日本初の開発協力者(1951年にニッカーから発売された「ガッシュ」)であったことを知り、この作家の水彩を油彩と同等の絵画芸術であると認めさせる執念を見た思いであった。

 不透明水彩の水彩画における表現の奥行きと拡大は、油彩と比べても見劣りがしない。中西利雄を始め、多くの近代水彩画の名手たちがその証明をしている。互井の表現様式は、鮮麗明快、軽妙闊達なフォルムを交錯させて、リズミカルで爽やかな独自性がある。それを評論家たちは「大衆に迎合しない大衆芸術の持ち味を有する稀有な特質」と評価している。また、本人は画集(1966)の中で「空間の広がりの大きい風景画を好んで描いていますが、無限に続く空間の中に、諸物の存在がその理由を決定づけ、有機的に最も高い効果を表出させようと努めています。或る時は重い空間の中に、或るものは明るい中にまた或る時は特殊な光彩の下にという思考によるなど、それぞれに色彩の放つ光を捉えようと試みていますが、例えそれが至難の業であっても、今の私は執念に近いほどの興味を持っています」と。この画集が発刊され、これからというその翌年10月にクモ膜下出血にて急逝してしまうのである。

 この作品は旧知の画商からネットを通じて落札したものである。間違いなく互井のガッシュ芸術の特質を存分に表出している代表作である。私もこの景色と酷似するところで1年間住んだことがある(修善寺)。油彩では重くなるし、空気感が出ない。透明水彩では山のボリューム感と川の音が弱い、ガッシュはこのようなスケールの大きな空間を表すには打ってつけの絵具であろう。大きな作品だけに景色に中に入り込めそうだ。

近代水彩画の巨匠のひとりである。新水彩作家協会展出品作(昭和30年から三軌会)でもあるので新発見である。この知らせにご遺族も喜んで下さった。生来の反骨精神は従来の官展の封建的なぬるま湯にひたることを潔しとせず、自ら同志を誘い新水彩作家協会を創設し、油彩に対する主従を覆すべく、水彩芸術の主体性確立の為に専念してきた姿勢は評価に値する。互井が不透明水彩絵具の日本初の開発協力者(1951にニッカーで発売された「ガッシュ」)であることは重要である。1967年の急逝は惜しまれる。享年63歳。

絵のある待合室108


  武井直也 「裸婦立像」 60㎝ 1926年院展出品作

 どうだ!と言わんばかりの格調高き裸婦像である。ブールデルの影響が色濃く出ている時代の優品である。彫刻のコレクターから譲って頂いた。合わせ箱であったが武井夫人関係の新聞記事(当時)が入っていたので、関係者から出たものだろう。今となっては貴重な遺作でもある。大切にしたいと思っている。

 

絵のある待合室109


広島晃甫(1889-1951)   「孤雀」大正期 絹本彩色 

青年時代の奇行ぶりは、大正期の天才的日本画家としての評価の言葉とともに語られ、なかば伝説化している。その画風は日本画離れした空気と清新な感覚と愛情に満ちたもので、その工芸的色感は彼独自の巧みさが可能にしている天賦の才であると絶賛された。徳島で生まれ、高松の工芸学校を経て東京美術学校日本画に学ぶ。在学中に萬とアブサント会を結成。1912年卒業制作は画題としては型破りなサーカスの玉乗りを描き、自由な表現を追及し行樹社の結成に加わったり、仮面社に油彩画を出品したり、1916年には長谷川潔、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成したりした。日本画、洋画、版画など縦横無尽に分野を越えた最先端の表現活動を遂行したスケールの大きい自由人でもあった。1919年、1920年と独自の作風で連続特選(帝展)を受けその実力が求められ、国の代表として明治神宮壁画作成、日独美術展委員としてドイツ、ヨーロッパ、朝鮮を3年間調査研究し、戦後は日展で活躍し62歳で他界。この作品は晃甫全盛期である大正時代の希少な佳品である。題も竹雀図でなく孤雀と晃甫らしく捻ってある。牧谿「濡れ雀」を彷彿させるような、画面から感じられる湿り気のある茫洋とした空気の表現と孤独感漂う雀の表情には脱帽する。墨絵の古画に通じる風格が近代の表現と色彩に出会う時このような作品が生まれるのだろうか。工芸の技術と洋画、版画の素養が見え隠れするのも興味深い。

 

絵のある待合室110


岸田陸象 「翡翠」 21㎝ 

中村直人の弟子、吉田白嶺の孫弟子 農民美術運動時代の初期作か?