平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

トップページ»  絵のある待合室 第6室

絵のある待合室 第6室

 

絵のある待合室51

 

 再びの遠山五郎「臥位裸婦」40号パステル

「裸婦の遠山」と言わしめた夭折画家の面目躍如たる大型パステル作品である。新発見とも言える珍品名品でもある。遠山生地の地元有力者宅に長い間秘蔵されていた作品の1つであり、油彩(滞欧期代表作)は美術館に収蔵された。パステルの魅力は水彩の透明感と油彩の量感の両方を併せ持つ事だろう。そして淡く脆い印象を受けるマチエールは、この世のものとは思えない虚ろな裸婦像にはピッタリである。アクリルの上から手を翳すと、寝息と体温が現実のものとして感じられる。これで遠山作品は3点目の蒐集となった。

 

絵のある待合室52


中山巍 「老人像」 1927 30号 行方不明だった代表作

日本洋画の転換期に大きな役割を果たした団体がある。独立美術協会である。その創立会員の面々は誰もが個性的で魅力的だ。その中で埋もれていた一人が中山巍であり、私の大好きな作家でもある。人は中山を「沈黙の画家」と称していたが、沈黙などしていられない。私は中山巍の日本一のコレクターになることを決めた。やがて画商たちは「お前が中山の相場を作った」と言うまでになった。発掘顕彰者にとっては最高の賛辞である。今では中山の画業が俯瞰できるまでのコレクションとなった。そして、私を待っていたかのように2004年AJCに長い間行方不明であった滞欧期代表作「老人像」が出品された。さすがに驚いた。覚悟を決め胃の痛くなる思いで落札した。この作品を狙っていた吾人が私の話を画商から聞いて、手を引いてくれたことを後から聞いた。この作品こそ、戦前のどの図録にも掲載されているあの「老人像」そのものであったのだ。中山研究の第一人者である柳沢秀行氏も貴重な発見と喜んでくれた。滞欧時代の中山を佐伯は「今いる日本人画家で一番いいのは中山君だ」と絶賛しているし、伝説ともなっているズボロフスキー画廊での大成功(この老人像も出品されている)は世界に通用する中山の独自性を物語るものである。この1枚にその答えがある。

 

絵のある待合室53

本荘赳 仮題 「山羊小屋」 30M     洋画界の渡辺崋山

平成11年春、梅野隆初代館長にこの作品入手を手紙で報告したところ、その返事には「本荘 赳の名品思わずあっと声を立ててしまいました。私が今まで見た本荘作品の中で最も優れたものです…。心の震えのおもむくままにしたためました」。私以上に梅野館長も驚かれた御様子でした。本荘を知る者にとってこれ以上の驚きはそうざらにはない出来事でした。
 本荘は地元の小学校の教師をしながら絵を描き、春陽会会員になったのち50才で専業画家になったものの画商嫌いのため、その名はほとんど世に知られることなく、皮肉にもそのお陰で精神性の高い、画格無双の作品群を残せたわけです。本荘は三綱から図ではなく絵を教わり、鶴三から物の裏側を描く事を教わり、安田画伯の夢でもあった日本画を油彩で描くという難事を具現化したのであります。本荘作品の魅力は静隠な画面にひそむ深い観照性にあることは誰もが認めることでしょう。しかしその裏側には「画道はこれ丈夫の道」という命懸けの覚悟があることを忘れてはならないでしょう。いわゆるアーチストの氾濫する時代に、古武士のような一徹で硬骨な本荘のような画家はもう現れないかもしれません。洋画会の渡辺崋山がこの平塚から出たことは平塚市民として誇りに思っています。最後に、日本人が描く油彩画を高いレベルでひとつの形として完成させた功績は、洋画史上もっと評価されていいと思っています。

 

絵のある待合室54

 

二見利節 「作業S」通称傘屋 10号   画狂人の系譜

湘南とくに平塚ゆかりの画家を顕彰発掘することを主眼としている私にとって、二見利節の作品はなくてならない。その中でも二見の第1黄金期である昭和10年代の作品に巡り遭うことは容易くないである。そんな折、高木美術の故高木健雄氏が二見の人物画を入手したとの連絡があり、駆け付けてみると、そこにはあの「傘屋」10Fがあったのだ。この作品は昭和12年の春陽会に出品された「作業S」通称「傘屋」のバリエーションであり、資料としては残っているものの図録もなく関係者の間では幻の作品であった。当時、この作品を見て帰朝した青山義雄はなぜ賞がつかないのか不思議に思ったとの感想を残しており、また当時の二見のことを木村荘八は「若くして自得の風を持つということは作家の資質にかけて識者に迎えられる条件の一つ」と評し、坂本繁二郎は「色彩のスケールが豊かで表面より寧ろ底力がある。色彩も単なる色彩のためでなく実相追求になっている。それで良く見て居る方がだんだん良くなって来る」と評し、「明日の画壇の為に二見氏が 必要不可欠である」とまで絶賛している。原田 実氏(初代平塚美術館長)は二見の回顧展図録の終りにこう書いている。「実相追求の画家、二見利節は絵を描くことへの執念においては旧友長谷川利行と同じように、立派に画狂人・葛飾北斎の系譜につらなる存在であったといえるでしょう」と。

 

絵のある待合室55


川島理一郎  日本初のコスモポリタン画家

「ナポリ・ポッツオリの岡」1925 8号

川島は、日本人として初めて仏の官展に入選し、1920年代の邦人としては他の追随を許さない破格のコスモポリタン(日、米、仏を股にかけマチス・ピカソなどと交流)であり、日本の近代洋画界に多大な貢献をしてきたにもかかわらず、正当な評価が長い間なされなかった悲運の画家とされている。その理由は、滞欧期の代表作数百点が2度の災難(関東大震災と貨物船沈没)で失われたこと、そして日本の美術学校を出ていないことなどが遠因となっている。しかし、幸運にも2002年1月から5月にかけて、25年ぶりに川島画伯の回顧展が栃木県美と足利市美で行われ、この作品も新発見として出品され高い評価を受けることができた。川島芸術のささやかなリベンジとなった。数多の洋画家がいる中で、ぐるりと回って元に戻ると、やはり「川島でしょう」という事になる。「東洋のマチス」「西洋の池大雅」の異名を持つ彼の油彩は、日本人でしか描けない世界に通用する特質を十二分に備えている。ただただ、画品高く颯爽と美しく大胆だが繊細、当に明治人+コスモポリタンの川島でしか描けない香り高い作品なのである。誰がこの作域に達する事が出来ようか!先入観なくゆっくりご覧下さい。どうか、皆さんも「やっぱり川島でしょう」という事になりますように。

 

 

 

絵のある待合室56

 

 武井直也  初めて買った彫刻

「女の首」1925年頃 ブロンズ(1969年鋳造)42x16x27cm

平成12年1月、絵の代金を払いにG画廊に行ったところ、素晴らしい婦人頭部のブロンズを見た。一目ぼれであった。院展彫刻の風雲児であり、東洋人として初めてブールデル教室の塾頭を務めた俊英である。師から学んだ簡明で堅固な構築性に、独自の研究で会得した古代ギリシア彫刻を融合させたロマン漂う作風は、当時から高い評価を受けた。今でもその魅力は色褪せない。帰国後、その作風の完成の矢先にチフスで夭折してしまった。享年47歳。この作品については、岡谷美術考古館に問い合わせたところ、昭和44年に岡谷市が夭折した武井作品を永久保存するためのブロンズ化した貴重な作品のひとつであることが判明した。私の好きなガンダーラ彫刻にも似ている引き締まった唇から漏れるアルカイックスマイルと大ぶりで気品溢れる柔らかさは、留学中の作品とは言え、武井独自の模索が見え隠れしている。美の源流であるギリシアと巨匠ブールデルの狭間で、武井は何を考え、何をなそうとしていたのだろうか。彼の声なき声を彼女は囁いてくれるだろうか。現在、武井作品は2点となった。

 

 

 

絵のある待合室57


遠山五郎  待ってました!五郎さん

「赤いシャンタユ」1920 20号  遠山五郎画集№24掲載 ソシエテ・ナショナル出品入選作

まさかの遠山五郎滞欧作、それも代表作として知られている名品を入手してしまった。遠山は印象派で出発したが次第に脱皮して独自の芸術観によって新しい画境を切り開き、穏やかな人柄で芯が強く、その鋭い感性からは明るく高雅な作品が生まれた・・・新豊前人物評伝(中村十生著)には長命ならば文化勲章も間違いない画家であったと絶賛されている。誤魔化しハッタリのない欧米仕込みの画力に加えセザンヌ・ゲランを独自に消化した深みのある優品である。現存作品も少なく、市場にもほとんど出てこなく、特に滞欧時代の出品作は幻と言われている。日本洋画の歴史においても貴重かつ重要な作品である。師のゲランも日本人画家の中では最もその実力を認め、他の邦人大家に自慢していたという。病床の中村彝像を描いたため結核が感染し、体力が落ちている時に虫垂炎を併発し急逝(享年40歳)したのである。危険を顧みず親友彝を命がけで描いた信義の人でもあった。五郎の面目躍如たる一面だが、その代償はあまりに大きかった。このように「一将功成りて万骨枯る」の喩え通り、彝の周辺には力のある仲間の存在は周知の通りだが、それらの全貌を明らかにするのは困難を極める。しかしこの1点で遠山五郎を偲ぶには十分な作品と思っている。同時期の彝の婦人像の画風がこの作品に酷似しているのも何かの偶然だろうか?日本洋画の福岡山脈の一峰を立派に形成している遠山五郎山は今もその輝きと威厳を失ってはいない。

 

 

 

絵のある待合室58

 

 四谷十三雄の自画像       

数年前、平塚市美術館で四谷展が開催された折、入口正面に展示された優品です。四谷作品にはサインがあるものは十数点しかありません。その中の一枚であり自画像にサインですから四谷自身も気に入っていたのでしょう。皆さんもよーくご存じの作家ですが、2013年の没後50周年に向けての更なる再評価にご協力お願い申し上げます。

四谷十三雄(1938~1963)享年25歳 横浜市出身

 

 

 

絵のある待合室59


大島哲以 「死せる小鳥のいづこにかサフラン色に咲き出づる」

何と美しい青だ!何とドラマチックな構図だ!

これは大島哲以の初期代表作(30号1962)である。大島は人人会の創立メンバーであり、日本幻想絵画の先駆けとして多くの知識人や数寄者に絶賛された鬼才でもある。

小鳥から咲き出づるサフラン・・・サフランの花言葉は「歓喜」とある。画家の目には、骸になったばかりの小鳥から生命の歓喜がサフラン色となって見えたのだ。まさに永遠の生命の存在があればこそ「生も歓喜・死も歓喜」となる。生命の永遠性こそが芸術の永遠性の根拠ともなろう。大島哲以は語る・・・「キリストは人類の為に全ての罪を背負って死んだと思われているが、彼は其の後、救い甲斐のない人間に愛想をつかし、十字架の釘から手足を引抜き、天なる神の元に帰った事を知る人は少ない。それ以来我々は自分の血で、涙で自らの罪を償わねばならなくなったのだ。画家はこの事を誰よりも先ず、身を以て体得しなければならない立場にあるのではなかろうか?・・・この宿命を背負った人間が生きている事に深く感動することが出来るひとに、私は、今後も語りかけて行きたいと思っている」と・・・

 

絵のある待合室60


藤崎孝敏Cauvineという画家           

2009年12月にようやく入手できた藤崎孝敏の作品「眠る子供」25号である。10年前から注目していた作家だ。松永伍一氏が言うように、巴里の貧困街に住みつき最低線の暮らしの中で、見放された住民たちを刈り取るような慈しみで描くその孤高の画風は別格である。まさにスーチンを彷彿させる。商業主義に毒された日本の美術の足腰の弱さを批判するようであり、命がけでない芸術創造などあってならないと訴えているようだ・・・この作品は藤崎には珍しい幼子の絵である。この貧しい幼子を闇から浸み出る光でドラマチックに描いている。希望はそこにある。