平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第7室

 

絵のある待合室61

 11代長谷川喜十郎 「神農」51㎝ 大正~昭和

見事な彫りである。号は湛彩。天才宮大工仏師として名高い10代喜十郎(明治10年~昭和10年)の長男(11代長谷川宗一)の作品であることが滑川市博物館の白岩氏のご尽力で判明した。10代は猪首短身で荒削り、11代は長身立像繊細な彫りを特徴とすると言われている。この神農は11代の特徴をよく表している優品であるとされる。2014年には、出身地の富山県滑川市制60周年を記念して長谷川喜十郎展が開催されるという。喜十郎一門の調査研究が始まったばかりである。350年の伝統と格式を守る名門仏師・長谷川喜十郎(現13代)の作品群が一堂にみられることを期待したい。

 

絵のある待合室62


小穴隆一「糸糸」30号 大正末~昭和初期頃

 

芥川の晩年に強い影響を与えた画家、それが小穴隆一における一般的な評価でないでしょうか。太平洋画会研究所に学び、中村不折に師事した春陽会の小穴の作品は、ある一定のレベルには達していたことは想像に難くないでしょう。しかし、彼の画業も現在においては忘却された他の作家と同じような存在となっていますが、芥川との関係があるが故に他の忘却された作家とは一線を画しています。彼にとっては幸運なことと言えるでしょう。5~6年前、小穴作品(晩年の春陽会出品作など)がアトリエからまとめて出てきた事がありました(梅野記念絵画館所蔵のマンドリンを持つ女もこの時出てきたものです)。その中にこの婦人像30号があったのです。大きな作品が故に優れているにも拘わらず売れなかったのでしょう。忘却の物故作家では往々にして良くあることです。。当時、小穴をよく知らなかった私はこの画家に興味を覚え、資料を調べたりしていましたがいつしか歳月が経ってしまいました。1年経ったでしょうか。H堂に立ち寄った折、あの婦人像話をするとまだ残っていたのです。小穴の著作「白いたんぽぽ」の中に興味深いことが書かれています。抜粋:「大正12年の夏は右足をとられたあとの弱ったからだで、商売をやめてしまった平野屋の一つの座敷に、芥川龍之介と寝起きをともにしていた。まだ、死ぬ話をしようなどという芥川でなかったから、思い出すことがほのぼのとして明るい……芥川が一時東京に戻っている留守の間、私が一人で淋しがったりしないように、モデルになることを芥川さんにたのまれた……谷崎の初期の小説に度々書かれている女で、芥川が保証人になっていた活動女優、この女も芥川の話では谷崎にこしらえて貰った黄色の布の着物で、モデルになってくれていた……。」この絵の婦人がもしかするとこのモデルかもしれないと思い立ち、友人のSさんからの情報で芥川研究者のS氏(芥川記念館設立委員会代表)にお願いして、この絵のモデルと芥川の関係について調べてもらっています。小穴の全盛期の婦人像です。薄塗りの迷いのないタッチは心地よく、あの芥川肖像の傑作「白衣」に酷似しています。おそらくは大正末から昭和初期に描かれた出品作のひとつでしょう。芥川と何かしらの関係が見つかれば面白いのですが…。情報のある方、ご教示下されば幸いです。

 

 

絵のある待合室63

 

 

大正期・青森美術運動のリーダー 前田照雲

前田照雲「冬野」1915 29x36cm 

前田照雲(1879~1924)は、木彫界・忘却の巨匠の一人である。明治30年頃に青森から上京、高村光雲に師事した後、馬体彫刻で認められた。その後、たびたび明治天皇、大正天皇、宮家に買い上げられ、日本美術協会展、文展での受賞が続き、青森県内ではその名声が注目されるようになる。特に大正期の活躍は目覚ましく、東京在住の青森県津軽出身の芸術家集団「六花会」を創設、その他五星会、北冥会、白曜会などに関わり、青森県出身の在京美術団体の中心的存在であった。

 幸運にも近代日本彫刻集成第2巻に私の所蔵する「寿老人」が資料図版として掲載された。そんな縁もあって、彼の真骨頂である馬体彫刻の優品を探していたが、何とネットに出て来たのである。さすがに驚いた。意地で落札した。照雲の馬に対する造詣は深い。「美術之日本」大正5年の中で彼は、画家など芸術家の馬に対する表面的でいい加減な理解による制作態度を戒めている。おそらく当時としては彼が馬体彫刻家の頂点のひとりだったことは間違いない。皇室や宮家が彼の馬体彫刻を相次いで買い上げたり、献上されているのはその証左である。馬といえば池田雄八や伊藤國男が有名であるが、照雲の木彫は一味違うようだ。この作品は、大正期に輸入されたサラブレッドであると思う。冬野でのびのびと馬が喜んでいるのがよくわかる。同じ題名の「冬野」が東京勧業博覧会で二等賞を受賞しているが、この作品との関係は如何に。ちなみにこの作品は第3回芳流会の出品作であることがわかっている。

 現存確認されている作品が少なく調査研究が難しいが、大正期の青森の美術運動には欠かすことのできない最重要作家である。現在、照雲研究の第一人者である青森県郷土館の對馬美恵子氏にいろいろ調べて頂いている。本当にありがとうございます。

 

 

 

絵のある待合室64


     木原千春 「カエル」 40号 紙・油彩

     17歳の時、郷里の山口で描いた作品である。嫌がる彼女から奪い取った最初期の傑作である。

     世界標準となる可能性があると目されている若手作家のひとり。

     今後の進化が楽しみだ。

     

 

絵のある待合室65


           

           都鳥英喜 「鎧村」 25号 1924

        

           浅井忠の片腕として関西美術院の教授となり、安井や梅原など多くの人材を育てた

           近代日本洋画の大功労者である。しかし、現在は忘れ去られており残念。この作品は

           留学から戻ってすぐに描いた出品作である。「遅すぎた印象派」「風景に佇む画家」の

           異名を持つこの穏健質実の画家を忘却の彼方から呼び戻したいものである。

 

絵のある待合室66


河野扶  20号 1960 グループ人間展出品作

私の尊敬してやまない故梅野隆館長(美術研究藝林、東御市立梅野記念絵画館初代館長)が、その余生をかけて発掘顕彰したいと言わしめた作家である。梅野館長は河野扶を「日本人による日本の抽象」を初めて描いた偉大な作家と評価し、その作風を「哲学する絵」と謳った。彼は東大の数学科を出たのち高校の教師をしながら哲学する絵を描き、孤高の中にその生涯を閉じたとされる。2013年に東御市立梅野記念絵画館で回顧展が開催されるという。大いに期待したい。

 

絵のある待合室67


川上邦世 「春風駘蕩」 1916  71㎝ 第3回再興院展出品作

2010年群馬県立館林美術館に新発見として出品された幻の名品である。この作品は彼の代表作であるばかりでなく当時から賛否両論渦巻く問題作でもあった。酒豪で豪放磊落、高度な技量と東洋的作風は同じ天才肌であった佐藤朝山とも比べられた逸材でもあった。大正14年39歳で夭折したため現在まで11点が確認されているに過ぎない。今後、このユニークな天才彫刻家の展覧会が開催される日を夢見ている。

 

絵のある待合室68

鈴木保徳 「農人茶時」1933年 30号 独立展出品作

「孤高」「反骨」という言葉に値する画家の一人が鈴木保徳である。三彩№397の鈴木保徳論(竹田道太郎)は興味深い。抜粋してみよう・・・画家、鈴木保徳は生涯ジャーナリズムに背を向けて来た。そういう画家だった。自己宣伝は全くしない。自分の創作信念は堂々披歴するが、一歩も退かないから損をする。妥協を知らぬ。そんなことを意に介さない画家だった。・・・漸く絵画熱旺盛に向かいつつあった昭和7、8年頃当時の画壇を毒しつつあった画家の取り巻き連中にグサッと刺し込む鋭い批判を繰り返した。また、帝展を帝展祭と評し、下劣な評論家や興行師、そんな輩に迎合し観客の前で無意味な曲芸を売る作家の群を嘆いている・・・・竹田氏曰く「保徳芸術が辿った筆の跡は評判の高い他の独立作家の画績に比して劣らず、むしろ高い評価を受けるべきであり、再発見・再評価がふさわしい作家である」と。

 この作品「農人茶時」について作家が自ら制作過程を解説している・・・「この二人は農人である。二人の男女を同じ向きに座らせた。その代わり男の顔を女の方に振り向けて同向の単を破った。この二人の組態を画面の右寄りにさせて二人の背後に空間を明けたかった。この画は幾度も描き変えた。最後に二人の前に土間用のテーブルを置いて漸く構図にも落着を得た。画面の縦乳白線は大分やかましい質問にも会ったが、結局は二人の人物等には全然かまわず、画面を軽い白と鈍重な赤褐色とにぶつ切て見たわけである」・・・

 この作品がネットオークションに現れたとき、とてつもない懐かしさを感じた。独立美術8<鈴木保徳特集号>の巻頭カラーで掲載されている作品であったからだ。鈴木の初期独立の農人をモチーフにした作品群は当時、彼が嫌気のさした画壇(官展)に対するひとつの回答(真実の芸術精神)だと思っている。彼の画業の中において農人の初期作品群は、独立だけでなく日本洋画史にもユニークは画績として残るだけの価値があると思っている。いつの日か、鈴木保徳展が開催され、その全貌と再評価がなされる事を期待したい。

 

絵のある待合室69


津高和一 「無題」 1949 12号

津高が抽象に移行する時期の初期優品である。世界に通用する日本人の抽象絵画を確立したリーダーでもあった。阪神・淡路大震災で亡くなり残念でならない。この作品は先妻が他界した年に描いた作品である。画題は「二人」としても許されると思う。合掌。

 

 

絵のある待合室70

 

 

砂澤ビッキ 「樹鮭」 1970年代

言わずと知れたビッキの代表的モチーフである。

ビッキ文様で覆い尽くされた90㎝を超すサケの迫力は圧巻である。

ビッキ好きには堪らない逸品である。