平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

トップページ»  絵のある待合室 第19室

絵のある待合室 第19室

 

絵のある待合室181


 山下大五郎 「横浜山手風景」 1938 3号板

 

明治41年神奈川県に生まれる。湘南中学のころより画家を目指し、萬鐡五郎に師事をした。東京美術学校在学中、第9回帝展に初入選する。昭和14年、須田寿ら6人と立軌会を結成。第1回、第3回の文展での特選など数々受賞。昭和50年初め頃より安曇野の風景を描き始める。平成2年82歳で死去。この作品は力強いフォーブである。この時代のものはほとんど見かけなくなった。
 

絵のある待合室182


二見利節 「ジュネーブ風景」 6号 1970年代

日動画廊が支援し外遊していた頃の作品である。もし、二見が戦前に留学していたらどんな画家になっていただろう。おそらく日本には帰って来なかったような気がする。雨後で地面がぬかるんでいる様子が分かって頂けるだろうか?

 

絵のある待合室183

 
 

 後藤洋明 「無題」 4号 木版

 

日本近代洋画の埋もれた分野を知り尽くしている人物である。特に物故洋画の資料と知識はスゴイ。洲之内徹氏関係の本にはお馴染の方でもある。洋明さんと初めて会ったのは1996年の夏だったので付き合いは古い。困った時の洋明さんは心強い。この作品は彼が学生時代にシナベニヤに彫って自刷りしたものだ。時代感があって気にi入っている。

絵のある待合室184


 井上三綱 「海女習作」 不詳 15号

坂本繁二郎の影響残る戦前の佳品である。三綱の戦前の油彩は貴重である。平塚市美術館の企画展では数回出品展示されている。三綱は本荘 赳に図ではなく絵とは何たるかを教示した。また本荘と同じように学者や玄人から支持されていた純度の高い作家である。故梅野隆館長も同郷の三綱を高く評価しており、繁二郎の正当な後継者として唯一認めている。

 

絵のある待合室185


鈴木保徳 「母子」1932 12号 独立展覧会出品作

独立美術8「鈴木保徳特集号」1933掲載にされている代表作である。画家にこの作品についてのコメントが載っているので紹介したい・・・「狭い画面にいっぱいに描いてみた。母は乳房を露はし乍ら己が子をかき抱きつつ熱い接吻をしている。接吻をされた子供は母親の執拗さに幾分悩まされた形である。全体をくらい鈍重な色を以って基調にし、赤や黄の原色を排して重苦しさに死ぬる事を防いだ。自分の性来には空想的な分子がかなりに潜在する。それが写実の教養の上に深く根を降ろしているのである。今空想や幻想が何処迄価値あるかは論ずる場合ではないが、何づれ何処かで両者が闘争をするか交合をするかの何れかである」・・・この作品は彼の挑戦的作品であり、空想的写実画の代表作でもある。

 

絵のある待合室186


長谷川栄作 「天平美人」 不詳 29㎝ 岡倉天心と日本彫刻会展出品

前出の乙姫と同じ作者である。小品だか格調高く仕上がっている。今後、再評価されるべき最右翼の作家の一人である。展覧会のチラシにも使われた。

 

絵のある待合室187


 

 松尾朝春 「大黒天」 不詳 30㎝ 岡倉天心と日本彫刻家会展出品

山崎朝雲の特徴を最もよく継承したと言われている高弟である。小品だが片足を上げている大黒天は珍しいそうだ。躍動感があって面白い。伝統と革新の混じり合った作風とも言えよう。

 

絵のある待合室188


 間部時雄 「ブレハ島」 1932 4号 板油彩 梅野隆シール

故梅野隆館長が発掘顕彰した隠れた名匠である。2004年に「浅井忠の光の系譜 間部時雄と京都の仲間たち」展が府中市美術館で開催されたが、今後は他館でもやってほしい作家である。とにかく、この絵の見どころは青である。人は間部ブルーと呼んでいる。私は間部ブルーが大好きだ。

 

 

絵のある待合室189

 

大貫松三 「静物」 1926 3号 板油彩 

2005年生誕100周年を記念して初の回顧展が平塚市美術館で開催された。端山学芸員のお蔭である。ご遺族も大変喜んで下さった。地方埋没作家の発掘顕彰展のお手本となった展覧会でもある。昭和元・2年1月制作の裏書のある現存最初期の佳品である。この年の春には東京美術学校に入学しているので、川端画学校時代のものとなり、資料的にも貴重である。この作品は友人G氏の旧蔵である。彼はかつて私の所蔵していた新文展時代の大貫作品に感銘を受け、作品入手の機会を窺っていたと言う。この作品を彼に見せられた時、「やられた!」と思わず声を出してしまった。そして「この作品を誰が大貫と判ろうか!君と私の2人だけではないか」と頷き合ったことも懐かしい。褐色のレンブラントカラーを背景にセザンヌ張りのズシンと重みのある林檎を描いたこの小品こそ、大貫研究には必要不可欠であったのだ。手放す時は必ず声をかけて・・・とお願いしていた。それから5年が経ち、G氏が急逝されたと連絡が入った。生前の約束は悲しい形で果たされる事となった。この作品がこうして展覧会を飾ることができたのも、大貫作品を愛するもう1人のコレクターがいたからでもある。 追補:裏書には呈 四家文子様とある。声楽家で知られている四家文子女史でのことである。若き大貫(画学生)の四家(音大生)に対する淡い恋心が画面から滲み出ている。パイプは大貫を表しているのだろうか。

              

 

絵のある待合室190


 森田訓司 「ピエロ群像」 1972頃 変形50号 個展出品作

闇の中に入る画家

この画家を知る人は極少数であろう。独学で絵を学び、業界では早くから天才と噂されていたが、展覧会のみに出品するというスタイルを通していたため、29歳まで無名であった。泰明画廊がバックに付いてからは渡欧し、個展を開くようになったが、好きな酒と画業にのめり込む生活が崇り47歳の若さで夭折した。彼の画論が記事になっていたので紹介したい・・・「黒は壁に過ぎないが、それに色を塗り重ねることによって闇になる。壁の中には入れないが闇の中には入れる」・・・闇の中に入る画家が森田訓司である。彼の生活は夜を徹して描き、朝になると寝て、夕方には酒を飲み、また描くという繰り返しだったと、彼を良く知る田倉氏は話してくれた。絵を描くために酒を飲み、絵を描くために呼吸をしていた男であった。闇の中に入るため、真夜中に制作された彼の作品の多くは人物画であり、むろん背景は漆黒である。特に1970年前半の初期作品には、心打たれるものがある。彼特有の滑りのある触感、大胆な構図と配色、そして若き日に展覧会を総なめにしてきた確かな技術がこの作品にも見て取れる。評論家の宗左近氏は・・・色と形を使って、色と形をもたないものを描き出す。見えるものによって、見えないものを浮かびあがらせる。彼は芸術の基本を離れまいとする数少ない作家の一人である。神なき日本の若きルオーの闘いは、西欧の先達のそれよりも、はるかに厳しい。他人事ではない・・・と。

森田の鵠沼時代を支えたのが画廊たくらの田倉明雄氏である。田倉氏の森田に対する思いは本当に心打たれる。画家と画商の麗しい関係が今は少なくなって来ているのだろうか。