平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第25室

 

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 青山熊治 「男性像」 1903 素描 10号


このデッサンは青山熊治が高木背水の画生となり、肖像画制作の助手をつとめていた頃の作品(皇紀2563年 1903年10号)であり、貴重な青年期の遺品でもある。翌年の1904年には東京美術学校に入学している。17歳にしてこの完成度と凄みは流石だ。熊治のやる気がムンムン伝わってくるこのデッサンは見ていて気持ちがいい。
塑像の男性は明治天皇か高杉晋作と思っているが如何だろうか?分かる方がいれば教えて下さい。

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 二見利節 「不詳」 1960年代 6号 パステル

二見ワールドである。クレーの影響下で制作されたもであろう。当時、二見はモンドリアン、クレー、ピカソ、ブラックを研究し独自の絵画を模索していた。小品であるがどれも芳しい匂いがする。額は八咫屋である。

 

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 二見利節 「顔」 1960年代 6号 パステル 八咫屋額

二見利節(本名 利次)は、二宮出身の異才の洋画家。
利節は、明治44(1911)年10月29日、中郡吾妻村(現在の二宮町)山西の二見家に、7人兄弟の次男として生まれました。15歳で日本橋の洋紙の卸問屋に就職しましたが、絵やピアノに夢中になり仕事に支障が出たことで辞めさせられてしまいます。その後、図案家の弟子をしたり、銀座で似顔絵描きや、看板描きの手伝いをしたりしながら独学で絵を描き、銀座千疋屋で働いているときに沢崎節子(さわざき ときこ)と知り合います。
昭和6(1931)年、二宮に戻った利節は、生活費を稼ぐため弟清と額縁づくりやウサギの飼育をして金を工面し生活していました。この頃から小田原在住の画家井上三綱(いのうえ さんこう)に指導を仰ぎ、油絵の制作を続けました。昭和7(1932)年、恋人節子が病死し悲嘆にくれ、「節子」の一字を取り、「利節(としとき)」と名乗るようになります。昭和8(1933)年、春陽会展に初入選した「温かい部屋」が画家二見利節の出発点と言えます。その後、東京と二宮を行き来し制作活動を続け、昭和14(1939)年には、代表作となる「三人の女」を完成し、新文展(現在の日展)や春陽会展などに出展を続け、「T子」、「横たわる女」が文展で連続特選となりました。
昭和16(1941)年、古い画友である赤井芳枝と結婚し、二宮に新居を構えました。
戦後、戦地から戻った利節は、昭和23(1948)年に国画会に入り、鳥海青児(ちょうかい せいじ)らと親交を持ちました。昭和31(1956)年、炬燵からの出火で二宮のアトリエを全焼し、作品の大半を焼失してしまいます。
昭和34(1959)年、制作に没頭するため協議離婚、精力的に制作を続けましたが「自分の絵はまだ完成していない」「一度描いた絵はもう二度と描けないのだ」と絵を売らなかったため苦しい生活でした。
昭和40年代になって、日動画廊の援助により、ヨーロッパ、ギリシャ、トルコ、エジプトを巡り、昭和47(1972)年からは、同画廊で個展を開催するようになりました。昭和51(1976)年3月27日、小田原市立病院で65歳の生涯を閉じました。

 

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 今西中通 「ミルクを飲む子供 中雄像」 1943 10号 久仁子夫人シール 遺作展出品作

完全に埋没していた今西中通を世に浮上させ再評価させたのが故梅野隆氏である。その後多くの人たちがその背中を追った。数少ない今西の優品はコレクターの垂涎の的となった。以下梅野氏の文章を参考にされたし。

梅野コレクションの眼 その3 今西中通

今西中通作品との出会いと、その作品の蒐集は今から37年前のことであり、往事茫々の感がする。本郷団子坂の森古物店でサイン無しの風景画に出会ったことにより今西中通の作品であると知り、再婚先の妻藤本久仁子さんを探し訪ね、約3年かけて油彩、水彩、素描類百十点を蒐集することができたのである。
 その後、羽黒洞(木村東介氏)により顕彰が行われた結果、今西の評価が確定し、現在も近代美術史上確固たる位置を占めている。今西作品の値が高くなるにつれ、私は彼の作品を処分して菅野圭介、伊藤久三郎等の蒐集にうつつをぬかすこととなり、今はわずか50点余の小品を所有するにすぎない。
 今西の描いた片々たるデッサン、水彩の中に香り立つ”芸術に対する熱き想い”は、近代洋画家中類例のない魅力を放っていると私は思っている。

梅野記念絵画館 館長 梅野 隆

 

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 河井清一 「花」 1928 1月 12号

これぞ光風会の格調高き画風である。白百合が美しい。今はこのような静物画は見なくなった。恩師生誕の日に描かれた作品でもあり、1999年の開業以来クリニックの入り口に掛けている。人生の師を持てる事ほど幸せなことはない。健康長寿を心よりお祈り申しげます。

 

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 古茂田守介 「裸婦」 素描 6号大

1918(大正7年)、愛媛県道後村(現松山市)に生まれた古茂田守介は、東京で画家を志していた兄・公雄の影響で19歳の時に上京、猪熊弦一郎にその才能を認められ、猪熊や脇田和に師事しました。その後、大蔵省に勤務しつつ絵画の研鐟をつんでいた守介は、絵画を通じて知り合った三歳年下の涌井美津子と1944(昭和19)年に結婚。「一家に二人の絵描きはいらない」として美津子は絵の道を断念しました。1946(昭和21)年、美津子のすすめで守介は大蔵省を退職し画家に専念。やがて1950年代になると、抽象絵画への関心が高まり、多くの画家たちが新しい試みに着手しますが、その中でも守介は人体や静物、風景などに独自の静謐で堅固な具象表現を追い求め続け、新制作協会展や個展を通じて、その独自の油彩作品の世界は高く評価されるようになりました。しかし、30代半ばからの守介は生来の喘息に加え結核にも罹り、健康に不安をかかえアトリエにベッドを持ち込んでの制作を強いられるようになり、1960(昭和35)年、42歳の若さで惜しまれつつ亡くなりました。
患者さんに古茂田守介のご親戚がおられ大変喜んで頂いた。作品は人を呼ぶのだ。

 

 

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 河井清一 「ジャワ風景」1917 4号板 
 

1891年奈良県に生まれる。1979年横浜で没する。父親の転勤にしたがって大阪で小学校を卒業する。1904年頃家族で徳島に移り住み1909年旧制徳島中学校(現県立城南高校)を卒業する。1912年東京美術学校西洋画科に入学し、在学中の1914年に第8回文展に入選し、卒業後は文展、帝展、新文展、日展、光風会展などに出品して受賞を重ねる。戦後は日展審査員、評議員、参与、光風会監事などの要職を歴任する。1922年には徳島在住の洋画家たちと、徳島洋画研究団を結成している。この作品は東美嘱託で仏教美術調査時のものである。忘却されているが実力のある良質の作家である。

 

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 わたなべゆう № 025  1999 5号 油彩・砂・布・紙

上野の森美術館大賞後、安井賞受賞他、受賞歴多数。20年近く河口湖畔にて画業を積まれ、近年では文化庁に作品を買い上げとなり東京近代美術館、上野の森美術館、山梨県立美術館にも所蔵されている。小品ではあるが時間をかけて丁寧にしっかり描きこんだ作品には古格が備わっている。古美術品と並べても位負けしない現代絵画はそう多くない。開業当時、鎌倉のギャラリーで衝動買いした思い出の作品である。


 

 

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 ブールデル 「イサドラ ダンカン」 1912 素描ペン ブールデル美術館旧蔵

1972~1973年に開催された「巨匠ブールデルの全貌展」出品作である。伝説のダンサーである彼女をブールデルはよく素描したという。今となっては貴重な作品である。私は彫刻家の素描が好きだ。

 

絵のある待合室250


 遠山 清 「涼しき土手より」 大正末頃 4号板

初期光風会の特徴がよく出ている作品である。平塚にはまだこれに近い風景が残っている。