平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第28室

 

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   清水敦次郎 仮題 「髑髏に手を組む自画像」 1919 30号  平塚市美術館寄託

記念すべきコレクション第1号である。平成6年、横浜元町の古美術店で初めて見た時は「東洋のヒポクラテス像」を彷彿するその風貌と大正洋画の独特の迫力に度肝を抜かれた。この絵は店内でなく奥の部屋に額なしで掛けられていた。店主に尋ねると・・・「非売品である。この絵が店に来てから商売が繁盛している。仙台の代々続く病院から譲っていただいた。作者は不明」とのこと。仮に値段をつけるとするといくらかと尋ねると店主は「500万」とニヤッと笑った。全く売る気はないようだった。それから足かけ3年間の商談の末、竹内栖鳳の掛軸、富岡鉄斎の掛軸、吉田屋再興古九谷六角鉢の3点と交換するに至ったのである。作者不詳のこの奇妙な絵にこれほどまでに執着した理由は今もわからない。しかしこの作品のお蔭で、幸運にも梅野隆氏、岩本昭氏らと面識が得られその後多くのコレクターや美術館関係者、研究者に知遇を得る事が出来た。作者不詳という作品と向き合うという作業を通して絵の本質を見抜く審美眼が鍛えられたと思っている。この作品はその審美眼を鍛える良きお手本となったわけだ。見ず知らずの素人に錚々たる美術館館長(山梨氏、富山氏、浅野氏など)がこの絵に興味を持たれ、懇切丁寧に助言をして下さった。本当に嬉しかった。平成13年:私の愛する1点展(東御市立梅野記念絵画館)に出品、平成20年:河野通勢展(平塚市美術館)に参考作品として出品、そして土方氏のご厚意で平成20年5月号芸術新潮「この絵を描いた人を知りませんか?」に特集され、この作者が判明した。その名は清水敦次郎(新潟出身)である。私が初めに推測し遺族とも連絡をとった洋画家であった。日動画廊の長谷川仁氏からの信頼も厚い「日本のコロー」と呼ばれた人物で、御岳山に籠って絵を描く仙人画家の異名を持つ風変りな反骨画家である。その若書きであったので遺族も断定が困難であったのだ。しかもサインが草土社風(岸田劉生風)の飾り文字であり、専門家でもその解読の意見が分かれたのであった。様々な過程を得て、同時期のよく似た清水作品が某大企業から知人の画廊に引き取られ、著名な修復家がその絵を預かったことから、本作品が清水であることが確定したのである。襟付きの修道服はキリスト教、書籍の開かれたページは二河白道の場面で仏教、後方のカーテンはアラベスク模様でイスラム教、そして髑髏と老人はメメント・モリである。なんとスケールの大きな示唆に富んだ作品である事か。中世ヨーロッパでは死を身近に感じる職業の人たちが好んで所蔵した絵(バニタス画)であり、私に縁があったのも頷ける。みなさんはこの絵をどのように読み解くだろうか?

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    真垣武勝 「伊豆大瀬風景」 4号 板 油彩


真垣は高知出身の洋画家であるが、地元では平塚銘柄として知られている。それは大正10年に平塚の海軍火薬廠に就職し、平塚周辺の風景を描き、鳥海と交友し、湘南美術会の創立メンバーとなったからだ。昭和4年に国画会初入選したのち、以後国画会に出品。梅原の指導を受ける。東京に転居してからは武者小路実篤と新しき村運動を進めた。アトリエの火災、家族の病気に耐え常に明るい色彩で暖かな風景画を描き続けた。昭和58年自宅で没した。この作品は貴重な初期作品と考えられ、佳品である。

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   伊藤久三郎 「オカリナ」 20F 1930 1930年協会第5回展出品作

 
この作品を見て驚かれた方は紛れもないQファンである。H堂の2012年12月号に掲載されていたので覚えている方もおられるだろう。1930年協会展第5回展出品作であり、シュールの香りがするQ24歳の代表作である。なぜ3か月も売れ残ったのであろうか?普通ならありえない話である。1978年の京都市美での回顧展と1980年のQ画集には出品・掲載されていないが、1995年のO美術館での回顧展に初出品された。図録にも掲載されたがトリミングされた不完全な画像であった。今回、コレクターが手放しH堂が買い取ったとのこと。本当に幸運であった。今までQ作品との巡り合いを重ねて来たが欲しい作品はすでに人の手に渡っていた。今回は美神が微笑んだようだ。Qの凄さは私よりも故梅野隆氏やQの著作もある吉野氏、そして目利きのコレクターとして知られている大竹氏の方が詳しい。彼らのQコレクションは系統的で圧巻である。私もようやくその入り口に立ったが、この先に進めるかかどうかは甚だ怪しい・・・?

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 熊岡美彦 「腰かけたる裸女」 30号 1925年12月  第3回槐樹社出品作(1926)

 2013年10月26日~12月1日 茨城県つくば美術館 「ようこそ白牙会展へ」出品


新発見である。1976年に茨城県立美術博物館で開催された「熊岡美彦回顧展」にも展示され、№21に掲載されている熊岡、滞欧前の代表作のひとつである。現存している熊岡の大正期作品は非常に貴重である。図録の中で中村伝三郎氏は、不当に低評価を受けている戦前の官展作家たちに再評価の機会を与えるべく忠告している。当にその通りである。その代表が熊岡美彦である。数々の受賞と栄誉(特選、帝国美術院賞)を若くして獲得し、既に大家となった37歳で渡欧し3年間の武者修業後、熊岡道場で800人を超える若手を指導し、昭和19年56歳の若さで急逝してしまった。絵好きには一定の高い評価があるものの世間では忘れられている感がある。近い将来、熊岡の回顧展を是非開催してほしいと願っている。人を魅了するその画格は現代も十分通用する力があるのだから。

追記 
つくば美術館から本作品の出品依頼があった。茨城の近代洋画の源泉に肉薄する展覧会であるという。素晴らしい企画である。埋もれた作家とその作品が再び日の目を見る事はいつもながら嬉しい。担当学芸員の吉田さん、本当にありがとう!

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   二重作龍夫 「ブルドックの自画像」 1955年 30号 画集掲載№21

義父の古い友人であり、私の好きな画家である。この作品は自画像として知られている2作品のうちの1つである。奇しくも前出の「絵のある待合室275」熊岡美彦は二重作の師であり、18歳から6年間の内弟子生活は、彼にとって絵画の基礎を作り、人生への頑張りを骨身まで打ち込んでくれた。画集の説明にはこうある・・・「ビキニの死の灰の時に生まれた”愛犬ビキニ”を共にして描いた自画像である」と・・・この時39歳。世界の二重作となる14年前である。

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  鈴木秀昭 「たつまき」 1990 高さ36cm  第3回日本現代陶彫展入選作

平成7年4月~平成8年3月までの1年間、私は修善寺の病院に出向(伊豆日赤)した。宿舎の前はアユの友釣りで有名な狩野川があり、車で数分のところには修善寺温泉があった。ご承知の通り芸術家はもちろん文人墨客ゆかりの名旅館が立ち並ぶ。ちょっと足を延ばせば浄蓮の滝や天城日活でゴルフが出来た。今思えば夢のような1年間であった。でもしっかり働いた。さて、この作品と出会ったのは浄蓮の滝の近くにある陶器ギャラリーであった。丁度、野茂英雄が大リーグで大活躍し、トルネード大旋風を起こしていた時だった。後に伊豆にある鈴木さんのアトリエにもお邪魔した。今では日本のみならず世界的にも活躍している異才として知られるまでになった。この作品は若き鈴木さんの実験的な作品であろう。他にも初期代表作を2点持っている。私にとっては第2の故郷、修善寺を思い出す不思議なオブジェである。

 

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 中山 巍 「卓上の花」 1954 40号 第22回独立展出品作 (お詫び:刷り込みあり)

シュールの匂いがプンプンするこの時期の代表作である。開業以来、婦人科の待合室に掛け続けている。患者さんにも評判のイイ作品である。

 

 

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  藤井令太郎 「ばら」 不詳 3号

  長い間トイレに掛けさせて頂いている。少し贅沢かも。藤井先生お許しください。

 

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  梥本一洋 「蘇州阿児」 不詳 紙本彩色 34x13㎝ 京都文化博物館(2001)出品作


元日展運営会参事、同審査員、本名謹之助、明治26年京都に生れ、京都美術工芸学校、京都絵画専門学校を卒業、山元春挙の師事。春挙没後は同門の川村曼舟に師事、早苗会で活躍。又後京都絵画専門学校教授となり、活躍した。王朝の物語絵や歴史風俗画を得意とした。昭和になると端正で清澄な画風を展開した。享年58歳。
この作品は次女の幼少期に似ているので購入した記憶がある。ぷくぷくでカワイイ。

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  木下 晋 「孤高の人」 1990  122x82cm ケント紙 鉛筆

木下さんとは平塚市美術館の学芸員室で2度ほどお会いした。2012年4月の展覧会の際は奥様とご一緒で来館され土方明司さんと4人で1時間ほど懇談させて頂いた。聖俗併せ持つ不思議な人である。20年以上前から洲之内徹の「気まぐれ美術館」で既知の作家であったが、作品との出会いはなかった。私は老人像が好きである。現在まで4点(清水敦次郎、原田直次郎、中山巍、伊藤悌三)の優品を蒐集してきたが、今回は久々の5点目に出会った。それが木下晋の「孤高の人」である。彼の絵に対する持論や評論家、学芸員の小論文は数多く出ているので割愛するが、日本のみならず世界が注目する鉛筆画家の1人だ。このホームレスの老人がアイヌの古老、ロシアの文豪、歴戦の老将軍にさえ見えてくる。男は生物学的にはできそこないである。貧しく老いて行けばなお更であるが、それでも男は男である。木下さんは自分より闇の深い人物しかモデルにしないという。その中から光が見えるまで描きこむ行為は、まるで修行僧のようだ。今日も数珠の代わりに10H~10Bの鉛筆を連ねて無言で祈り込む。