平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第29室

 

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吉田白嶺 「若衆」 大正4年 52㎝ 共箱

近代日本彫刻の研究者によると白嶺の若衆は大正15年が最初とされていた。大正15年12月号雑誌「アトリエ」には、孚水書房から「若衆」の注文頒布会の広告が掲載されている。価格は尺~尺二寸200円、尺二寸~尺五寸までが350円となっている。当時としてはかなりの高額である。口條には「木彫家の吉田白嶺先生に御頼みして、江戸時代に現れし風俗人物を主とした木彫に先生独特の淡彩をほどこして浮世絵に趣味をもたるる方々に御頒しする会を企てました。規定は別條の通り御入会を御お願いいたします」・・・とある。しかしこの作品の発見で白嶺の代表的モチーフのひとつである若衆は大正4年に制作されていたことが判明したことになる。新事実である。既に第4室で公開している「髭」大正4年第二回再興院展出品作と同じ作風であるこの若衆もいずれ世に出る事になるだろう。

 

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作者不詳 「男のl首」 高さ37㎝

作者不詳だが優品である。モデルは頭部の骨格から日本人の可能性が高く、日本人が多く使う櫛つきのヘラ跡が多くみられるので作家も日本人であると推測される。彫刻に詳しい学芸員や友人たちはロダンの影響を分かりやすく受けた留学経験のある日本人作家と考えており、高田博厚が候補に上がったが違うようだ。もちろんロダン作品のコピーでもない。私の第一印象は舟越保武であるが・・・お分かりの方がおられれば是非ご教示頂きたい。

 

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 水野徳二 「女の首」 40㎝ テラコッタ

水野徳二(1915~1960) 富山出身  北村四海、北村正信、堀義三、吉田久継に師事

刻サインは草書体であり解読に難渋したが「徳二」であると分かった。私の最も信頼する若き学芸員S氏に泣きついたところ、「水野徳二」の名が出てきた。わずかな手がかりを頼りに水野徳二作品を展示したことのある美術館が富山にあることが分かり、早速問い合わせたところ作風、サイン、印章からこの作家の作品であることが判明した。水野徳二は作品に対して大変厳しい見解をもっており、本当に自分の作品を認めてくれた人にしか作品を渡さなかったという。しかも44歳で夭折し、テラコッタなどの柔らかい素材を多く使用したことから現存している作品はほとんどない。この作品が出て来たこと自体、奇跡的なことであろう。師であった北村四海、北村正信の作品を有している私にとって、作品が作品を呼んだと確信している。四海の「イブ」と正信の「若い女」と共に、この徳二の「女の首」も私の書斎に展示してある。きっと夜な夜なと3人で彫刻談義でもしていることだろう。

 

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    「時計のある静物」 1942 25号 キャンバス 油彩 国画会展国画会賞受賞作 画集№8掲載

二重作のアトリエから戦前~戦後にかけての作品が多数市場に出てきた。その中に画集掲載作品が2点含まれており、運よく2点とも入手できた!「ブルドックのいる自画像」と「時計のある静物」である。 この作品には作家自身がコメントを書いている・・・「当初は時計のかわりに古土瓶を置いたが構図の上から時計にした。古土瓶の形はいくら塗ってもうっすらと残っている」・・・26歳のこの年、北支へ従軍、高松宮殿下従行し満州に渡り入隊、終戦後ソ連シベリア抑留農作業に従事し、1945年冬ライチハに送られる。この作品は彼の遺作になっていたかもしれない若き日の代表作でもある。戦中時代の若き画家が描いた絵には「生命とは何か、物質とは何か、宇宙とは何か」という人類の3命題が無意識の中に厳然と感じられる。塗っても塗っても消えない古土瓶の白い陰影が意味深でもある。これで二重作の1940年代1950年代1960年代1970年代の代表作が揃った。
 

 

絵のある待合室285


 

  石川寒厳 「尋水望山図」  絹本彩色 

今回、ようやく寒厳の佳品を入手できた。南画の革命児と呼ばれ、志半ばで夭折した彼の生き様とそこから生み出される作風は超然としていて気持ちがいい。
本名寅寿。1911(M44)上京し、太平洋画会研究所に学び、印象主義の洗礼を受ける。また佐竹永邸について南画を学んだ。 翌年肺炎にかかり帰郷。郷里で療養ののち大田原中学校で代用教員を務める傍ら那須雲照寺の釈戒光について参禅、 道師より寒巌の道号を与えられ、以後画号にもこれを用いた。 '20(T9)再上京し、小室翠雲(22-1-2-7)に師事、'22第二回日本南画院展に「夕」が入選、好評を得る。 翌年の第三回展に出品した「煙雨、晩清」で同人に推挙され、さらに革新第三回日本画会展覧会に出品した「麓」が一等賞となる。 以来日本南画院を舞台に活躍した。
 '29(S4)小堀輌音(7-2-7-1)、小杉放菴、松本姿水ら栃木県出身の在京日本画家有志によって華厳社を組織、 東京と宇都宮で隔年に展覧会を開いた。 また小杉放菴の提唱で始まった公田連太郎、山中蘭径、鹿島龍蔵、木村荘八、岡本一平(16-1-17-3)、 森田恒友(13-1-37-2)らの中国思想研究会一老荘会」にも参加する。模倣に陥っていた南画界にあって、郷里の風景や、武蔵野の面影を残す東京近郊の風景を描くという写実による南画を実践し、 新南画の領袖として、また異端の南画家として、日本南画院のみならず、帝展出品作家にまで影響を与えた。 '35(S10)帝国美術院いわゆる帝展の改組にともなって、二回の無鑑査となった。 後年は、琳派などの装飾性も吸収してその調和を図ろうとしたが、盲腸炎再発のため急逝する。

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広島晃甫 「秋郊放牧」 絹本彩色 大正期

1889年徳島県に生まれる。1951年没する。本名は新太郎。1907年香川県立工芸学校を卒業する。1909年白馬会洋画研究所に入る。また万鉄五郎らとアブサント会をおこす。1912年東京美術学校日本画科を卒業する。1916年長谷川潔、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成。この頃は、ルドン、ムンクなどの神秘的な夢の世界にひかれていた。1919年の第1回帝展に、日本画の〈青衣の女〉を出品し、特選を受ける。翌年の第2回帝展にも〈夕暮の春〉を出品し、再び特選を受け、一躍、人気作家となった。その後、帝展を中心に活躍しながら1929年にはローマ日本美術展に出品、30年には聖徳記念絵画館の壁画を制作、また同年、日独美術展覧会委員としてドイツに渡る。1933年には朝鮮展審査員として朝鮮に渡る。帝展の審査員も歴任し、没後3年の1954年には、国立近代美術館の「四人の画家」展で遺作が陳列された。装飾性に富んだ、詩的で甘美な作風でよく知られている。晩年は茅ヶ崎に在住しており湘南ゆかりの忘却の異才である。現存している大正期の作品は少ないが、この時代の作品には独特の重量感と湿気感のある魅力的なものが多い。

 

絵のある待合室287


 横井礼以 「風景」 1929年 8号  生誕125年横井礼以展出品作(2010年)

横井礼以は、1886年(明治19)愛知弥富町に生まれ、東京芸大に学びました。その後、フォーヴィスム(野獣派)やキュビスム(立体派)など海外の新しい美術動向に、東海地方出身者としてはいち早くとりくみ、中央画壇で「大正アヴァンギャルド」の代表的なひとりとして華々しく活躍しています。しかし、ほどなく眼病をわずらい、1927年(昭和2)41歳から2年間、知多半島の河和に転地療養。その間、自然に恵まれた同地でセザンヌの研究や、自然と一体化した日本的な心象性を追求する独自の制作に励み、大きな成果をなしとげました。この作品はこの時期(河知時代)に描かれた貴重な作品です。地元作家の発掘顕彰にご尽力されている名古屋画廊主の中山真一氏のご厚意で回顧展に出品させて頂きました、ありがとうございました。
 

 

絵のある待合室288


池田泰山 「窯変釉防疫図陶額」 昭和8年

本名を泰一という。父 ・ 鶴吉  母 ・ ゆく  の長男として明治24年に尾張知多郡草木村( 現 愛知県阿久比町 ) に生まれる。池田家は庄屋で製紙業等の事業を興すが、いずれも失敗する。当地は窯業生産地ではあるが、関連業種に関する背景はなく、単身明治42年に京都に出て陶業を志し京都市陶磁器試験場伝習生として入所し、陶磁器に関する基礎的な知識を得て44年に修了する。その後10年余りの間、国立大阪工業試験所窯業部技手として奉職、さらに陶磁器に関する研究を続ける時期、愛知県常滑の久田工場(久田吉之助氏)のもとで就業、テラコッタ類の製造技術を身に付ける時期、工場閉鎖のために再び京都へ戻り九条通り鴨川辺の窯を継承する時期、を経過する。大正6年東九条大石橋通り高瀬に泰山製陶所を設立する。その際、技術面で藤江永孝氏、経営面で梅原政次郎氏の指導、援助を受ける。製作品は日用工芸品で花瓶・ 置物 ・ 陶額 ・ 盃 ・ 茶道具等を製造する。しかし、この間健康を崩し、大正10年頃より数年大珠院で静養生活をする。回復後、周囲の協力と時代の流れとによって建築用装飾品へと移行するが、特にデザイン・技術面で中沢岩太氏に指導を受ける。製作品としてタイル ・ 集成モザイク ・ 集成陶板 ・ テラコッタ ・ 陶彫品 ・ マントロピース ・ 噴水ー照明等を製造する。主な作品としては、昭和の初年より10年までの間、宮内庁のご用命により秩父の宮邸を始め、各宮家の邸宅並びに東京軍人会館のタイル、大阪綿業会館のタイル、大阪南海高島屋新館の集成モザイクタイル、東京帝大医学部新館陶彫パネル、東京帝大図書館陶彫パネル、下村正太郎氏邸(大丸ビィラ)、神戸女学院のタイル、東京帝室博物館本焼平瓦並びに各種鬼瓦、終戦前満州国並びに満鉄の建物には満州国錦県、牡丹江ツーリストビューローにタイルを移出、京都での内容として、先斗町歌舞練場、京都市美術館のタイル、本願寺錦華寮陶彫品がある。一方、この間に各種展覧会、博覧会〈昭和工芸協会展〉〈京都美術工芸展〉〈時習園展 〉 〈 商工省展 〉 に出品し入選 ・ 受賞、さらに泰山会を設け頒布展を開催する。又、陶磁器業界間の交流にも貢献、京都陶磁器青年会設立に参加、さらに京都陶磁器工業組合会員で総代兼部長を務める。昭和14年に泰山製陶所を株式組織にする。昭和17年に2代目社長池田侊佑入社する。同年に下関関門トンネル開通記念の集成モザイクと陶彫品の製作をして後は21年頃までは建築関連の仕事はなく、その間は金属代用品(把手、ぎぼし、下水道用防臭面 ) 電磁気製品 ( 耐熱版、硝子 )、軍需用製品 (耐酸磁器、ロケット用吸収筒磁器 )等の製造工場さらに以降は日用工芸品として磁器小花瓶( 進駐軍用品向 ) 酒瓶( サントリー寿屋 ・ キュラソー )わずかの日用工芸品として陶額等を製造する。復興のきざしとして昭和23年になって、国鉄岐阜駅構内壁面に集成モザイク壁画、大阪近鉄百貨店内外装タイルを製造する。同年頃から病に侵され昭和25年3月に死去する。
 

 

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冨長朝堂 「鰯」 通称「鍋干さずの鰯」 14㎝ 昭和21年頃

明治30年、福岡市下赤間町(現冷泉町)に生まれる。高村光雲の高弟山崎朝雲に師事。大正13年の「雪山の女」帝展初入選。昭和7・8年の「五比売命」「踊女」帝展連続特選。代表作「谷風」(昭和13年)により日本木彫界に確固たる地位を築く。昭和19年、太宰府市観世音寺の地にアトリエを構え、自由な創作活動を展開。昭和50年、西日本文化賞受賞。昭和51年、第1回福岡市文化賞受賞。昭和60年死去。享年90歳。優れた彫技と高い精神性には定評があり、「木の中に棲むような彫刻家」といわれた。戦後間もなくのころ、糊口を凌ぐため本物そっくりに彫った鰯の木彫である。当時3000円で売れたと図録資料には書いてある伝説の作品群のひとつ。

 

絵のある待合室290
 


高橋鳳雲 たかはし-ほううん
 
1810-1858 江戸時代後期の仏師。
文化7年生まれ。高橋宝山の弟。7代幸慶の門にはいり,また宮彫り師長板伊之助に師事。江戸蔵前の札差伊勢屋嘉右衛門の依頼により,釈迦三尊,五百羅漢など仏像700体をつくり,鎌倉建長寺におさめた。安政5年9月13日死去。49歳。江戸出身。通称は清次郎。

光雲の師である東雲の師である。光雲作品は高価で手が出ないが、東雲と鳳雲作品は入手できている。近代木彫の源泉に当たる仏師であると考えている。この坐像は小品(高さ10㎝)ではあるが資料性もあり貴重であろう。


<牙彫りを排し木彫りに固執したはなし>      高村光雲
                                           
「いやしくも仏師たるものが、自作を持って道具屋の店に売りに行く位なら、焼き芋でも焼いていろ、団子でもこねていろ」これは高橋鳳雲が時々私の師匠東雲にいって聞かせた言葉だそうであります。私もまた、東雲師から鳳雲はこういって我々を(いまし)められた、といってその話を聞かされたものであります。それで、私の(あたま)にも、この言葉が残っている。いい草は下品であっても志はまことに高い、潔い。我々仏師の道を伝うるものこの意気がまるでなくなってはならない。心すべきは今である……とこう私も考えている。それが私のおかしな意地であったが、とにかく、象牙彫りをやって、それを風呂敷(ふろしき)に包んで牙商の店頭へ売りに行くなぞは身を()られても(いや)なことであった。が、さればといって木彫りの注文はさらになく、注文がないといって坐って待ってもいられない。かくてはたちまち糊口(ここう)に窮し、その日の生計(くらし)も立っては行かぬ。サテ、困ったものだと、私も途方にくれました。 しかし、いかに困ればといって、素志を翻すわけには行かぬ。そこで私は思案を決め、「よし、俺は木で彫るものなら何んでも彫ろう。そして先方(むこう)から頼んで来たものなら何でも彫ろう」ということにしました。で、木なら何んでも彫るとなると、相当注文はある。注文によってはこれも何んでも彫る。どんなつまらないものでも彫る。そこで、洋傘の()を彫る。張子(はりこ)の型を彫る(これは亀井戸(かめいど)の天神などにある張子の虎などの型を頼みに来れば彫るのです)。その他いろいろのものを注文に応じて彫りましたが、その代り今年七十一(大正十一年十二月)になりますが、ついに道具屋へ自作を持って売りに行くことはしないで終りました。