平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第33室

 

絵のある待合室321



植木 茂 「作品」 高さ36㎝ 1960年代 

1913年北海道に生まれる。1984年没する。同郷の先輩三岸好太郎に師事し独立美術協会展に出品するが、三岸の死後、自由美術家協会展に出品。アルプ風の木彫や石膏レリーフが認められ会友として活躍するが、1950年に山口薫や村井正誠らと同会を退会した後、ニューヨークのリバーサイド・ミュージアムの「日米抽象美術」展、翌年の第3回サンパウロ・ビエンナーレ展、56年の第28回ヴェネチア・ビエンナーレ展に出品。国内では、現代日本美術展や日本国際美術展を中心に発表を続け、日本の伝統的な木彫技法を生かした独自の抽象表現を追求した。1970年代以降は、「近代日本の彫刻」展(京都国立近代美術館)や「戦後日本美術の展開−抽象表現の多様化」展(東京国立近代美術館)等、近現代彫刻の流れをたどる展覧会に出品するなど日本の抽象彫刻のパイオニアの一人として評価されている。私にとっては砂澤ビッキと双璧を成す木彫界の異端・スーパースターである。この作品はブロンズであるが植木のらしさの出た佳品だ。植木の作品はほとんど見かけなくなった。彼の抽象木彫が出たらゲットしたいと思っている。
 

絵のある待合室322


                              アイヌ民芸人形 18㎝ 15㎝ 戦前

戦前、国内はもとよりアジア諸国の民芸品や郷土玩具を蒐集されていた山形在住の大コレクターの旧蔵品である。彫りもよく、今となっては貴重な作品であろう。3年前、家族で北海道の白老町に行き、自然との共生を尊重するアイヌ文化に触れたのは素晴らしい経験となった。アイヌが北海道の先住民族であることは日本人の誇りでもある。

 

絵のある待合室323



                               アイヌ民芸人形 17㎝ 17㎝ 戦前

322とと同じ、山形のコレクターの旧蔵品である。両方とも弐円参拾銭の値札シールが貼ってある。熊を抱く男性と鮭をぶら下げる女性がかわいらしい。2014年6月13日、政府は北海道の先住民族であるアイヌ文化を伝承するために北海道白老町に「民族共生の象徴となる空間」(象徴空間)の管理運営に関する基本方針を閣議決定した。2020年の東京オリンピックに合わせて一般公開する予定。象徴空間の中核施設に国立の「アイヌ文化博物館」「民族共生公園」をポトロ湖畔に設置する計画。喜ばしいことだ。
 

 

絵のある待合室324


             岩野勇三 「はだか」 1956 26㎝ 1956年神田・タケミヤ画廊グループ展「六士会」出品作 
                                                               1962年岩野勇三彫刻小品展出品作 レゾネ№11所載

岩野勇三は1931(昭和6)年に新潟県高田市(現上越市)に生まれ、高校卒業と前後して佐藤忠良に師事します。1960(昭和35)年新制作協会彫刻部会員となり、以降、同展を中心に活躍するとともに、野外彫刻も仙台をはじめ数多く手がけており、その創作活動は高い評価を得ています。また、東京造形大学教授として、後進の指導にも力を注いでいます。1980(昭和55)年第1回高村光太郎大賞優秀賞、1981(昭和56)年長野市野外彫刻賞、そして1986(昭和61)年中原悌二郎賞を受賞しますが、翌年、肺がんのため56歳で死去します。岩野勇三の作品は、頭像や全身像を主とする具象彫刻で、単に人体を写実的に写す技術だけではなく、そのモデルの内面性とともに、しっかりとした量塊、質感、構成、構築性などの彫刻的追求がなされており、観る者に心地よさとある種の緊張感を与え、作品を取り巻く空気を表現できる数少ない彫刻家といえます。

新潟県立高田高校卒業後、上京し佐藤忠良に師事。家族同様に過ごした。そして忠良の絶大な信頼を得るようになる。まさに愛弟子である。高村光太郎賞、中原悌二郎賞など具象彫刻の頂点に立つ。計算されつくした写実的表現は「造形の鬼」と言われ他の追随を許さなかったが、絶頂期の56歳で夭折した。忠良の慟哭が聞こえてくるようだ。この作品は25歳に制作された貴重な最初期の出品作である。現代の作家との違いが分かるだろうか?段違いである。スゴイ男がいたものだ。

 

 

絵のある待合室325


                                                寺田政明 「作品」 1937年頃 4号 板 油彩


裏には出品シールが貼られており、そこには「4 氏名:寺田政明  住所:東京市豊島区長崎東4の23画題:作品」と記してある。寺田が長崎東4の23に住んでいたのは、1936年の独立美術協会第6回展から1939年頃までであり、シュールレアリスム風の作品を集中的に描いていた。ご存知の通り、「池袋モンパルナス」の中心者の一人であり、その交友歴は圧倒的である。とにかく、この時期の寺田のシュール作品はコレクター垂涎の的である。この作品は祖父がコレクターであった方から譲って頂いたもので、晩年の寺田の手紙が付属しており興味深い。北九州市美術館所蔵の「海辺」1937に雰囲気がよく似ていると寺田展を担当された学芸員の指摘もあり、おそらくその頃のものだろう。また年譜によれば1938年8月寺田政明画伯個展(八幡・丸久百貨店)の出品作の中に「科学博物館」「作品」というタイトルが見られるが、シールには画題「作品」と、それとは別に小さな「博物館」というラベルが貼られてある。もしかすると付属していた寺田の手紙が1984年のものであるので、その時に旧蔵者が寺田本人に作品名を書いてもらったのかもしれない・・・

絵のある待合室326


                                     鈴木三郎 「権威の座」1956 30F 


生没年不詳の前衛画家である。1958年と1959年の第10回11回読売アンデパンダン展(1949~1963)に出品している作家であること以外は分かっていない。知人の目利き画商N氏が作品の良さから長い間コレクションしていたものである。1950年代の戦後現代美術、とりわけ読売アンパンの画家の作品群は玉石混合だが未だ手つかずの感もある領域である。瀬木慎一氏は指摘する・・・日本近代社会における国家もしくは芸術上の権威のもとに形成されてきた位階制度に対する全面的で大規模な初めての挑戦であり、この展覧会を抜きにして現代美術史は語ることが出来ないのは当然といっていい・・・・この作品も5670人、16922点のうちのひとりの作家のひとつの作品に過ぎないが、見どころ十分であり、N氏が高額で購入し長い間温めていた理由がわかる。今後、1950年代~1960年代の戦後前衛美術の研究がなお一層進み、面白い展覧会がひとつでも多く開催されることを期待したい。この作家についての情報があればご教示願います。

絵のある待合室327


                                                      澤田文一「凶作の年」1987頃 10F キャンバス油彩



孤高の画家、魂の画家、画界のドストエフスキー・・・彼を知る人はこう呼んでいる。
私が思いつく彼のような現存の画家には、藤崎孝敏、木下晋が思い浮かぶ。社会の底辺で必死に生きる市井の人たちを自らも同じ境遇で描くことが出来る、今となっては稀な画家たちである。彼のおびただしい素描には青木繁や藤島武二と同じ人物の内面を一瞬に捉える天賦の才と画格が感じられた。才はあるが貧困な地方作家に陥りがちな偏った土着化はしていないのだ。洗練されているのだ。特に女性像などは俗っぽく安っぽくなるがそうでもない。画風の幅も広く深い。器用貧乏でもない。宗教性もありインテリジェンスもある。画狂人である。若い頃に老成したのだろう。澤田を発掘顕彰してこられた寺西進氏を通じて入手したのが、この「凶作の年」1987年頃である。岡田三郎助や児島虎次郎を彷彿させるくらいの密度の高さと深い色彩、まるで明治末~大正期に描かれたといってもいいくらいの古格が備わっているのは尋常ではない。

以下、ネットに出ている澤田文一に関するものを参考までに記してみよう。
 
①澤田文一は作品を描く時に、まずはキャンバスを真っ黒に塗りつぶすそうです。その真っ黒に塗ったキャンバスに色を付け、どんどん光を与えていくことによって、澤田文一の作品は完成します。なぜ、このような特殊な描き方をするのかというと、これは澤田文一の幼いころの経験が影響しているそうです。澤田文一は北海道に生まれ、幼い頃から貧困と北海道の厳しい寒さに耐えながら苦難に満ちた日々を送り続けていました。そういった経験が、心の闇を生み出し、それを絵画という作品で表現しているそうです。しかし、澤田文一の作品は、苦難に満ちた日々をそのまま作品にしているようには思えず、そこには闇の底から這い上がる人間の強さや、慈悲の心なども感じる事ができます。そんな、澤田文一の作品に目を付けた画廊の主人に力添えもあって、澤田文一は一躍時の人となりました。しかし、長い間消息不明となってしまい、人々の心から澤田文一の記憶が薄れてきた頃、また別の画廊に助けられ、作家として見事な復活を遂げたのが2012年の出来事でした。
 
②澤田文一は、1949年札幌生まれで、北海道亀田郡七飯町に長く住んでいました。厳しい寒さと貧しさに耐え、聖書、ギリシャ神話などをひたすら学び、その精神を力一杯画面に表現してきましたそれが、澤田文一の絵が特異である主因になっています。誰にも媚びず、ひたすら自分の世界を描くにも関わらず、彼の絵には人間に対する愛が溢れています。自分は極貧に喘ぎ、家族もいない孤独な生活を続けながらも常に弱いものに対する愛情が最優先する人生を送っています。

 

絵のある待合室328

                                                                   寺田政明 「静物」 1937 6F キャンバス 油彩

寺田の1937年といえばシュールに移行していた頃であるので、このようなマチス風のフォーブ作品は珍しいと思う。画商のS氏は東京美術倶楽部の業者の交換会で入手したものと話してくれた。この時期の小品の多くはほとんど残っていないが、その中には地方の画廊や百貨店での個展や売り絵も多くあったろう。この作品は20代半ばの貴重な初期作であることには違いない。葡萄はキリスト、蝋燭は神を意味しているのであれば、神の足元にひざまずくキリストという宗教的なシュールな意味も込めた作品かもしれない。いずれにしても、今後の調査が待たれる興味ある作品だ。
 

絵のある待合室329


                                                                 藤松 博 「接吻」(仮題) 1952 15Mキャンバス 油彩


新発見の傑作と言えよう!1950代の藤松作品がまだ残っていたとは驚きだ。三重の古美術商から京都の画商を経て私の所へ来た。戦後の日本美術において瀧口修造の果たした役割は非常に大きい。その象徴的な仕事が新人発掘の「読売アンデパンダン展」や「タケミヤ画廊」での活躍である。タケミヤでの200を超える個展中で3回と最も多く開催されたのが藤松であった。瀧口の書斎には藤松の代表作が掛っていたのはよく知られている。お気づきの方もおられるかもしれないが、この作品はイサムノグチの師であるブランクーシの接吻に想を得て描いたものであろう。すでに知られている初期作にも名品はいくつかあるが、この作品はそれらに匹敵する。1953年のタケミヤ画廊での初個展に出品された「つむじ風」という作品が知られているが、おなじ薄塗りで同サイズ15Mであることから、この作品も1953年のタケミヤでの個展に出品されたものと推測している。機会があれば展覧会で多くの人に見て頂きたいものだ。

藤松博(1922~19966)は長野県に生まれ、終戦とともに社会の変革が進むなか、「読売アンデパンダン展」連続出品、瀧口修造をはじめ多くの批評家から高く評価される。1959」年(昭和34年)から2年半のニューヨーク滞在の後、「ひとがた」や「旅人」シリーズといった独自のスタイルを生み出し、煤や型紙を使った表現や繊細な素描に“光と影”を追求するが、終始自己(人間)を問いながら、求道的とも言える制作を貫いた。また、保守的な美術団体には属さず、出版文化、美術評論家等とのつながりを深めた作家としてのスタンスも特筆される。

藤松 博   Fujimatsu Hiroshi

  ■
略歴 1922  長野県に生まれる1945  東京高等師範学校芸能科卒業(筑波大学)兵庫師範学校文部教官(神戸大学教育学部) 1959~61 ニューヨーク在住 名古屋芸術大学客員教 1996  没
  ■個展
  1953  タケミヤ画廊/東京 1954  タケミヤ画廊/東京 1956  タケミヤ画廊/東京1962  南天子画廊/東京1963  南天子画廊/東京 1965  南天子画廊/東京 1966 南天子画廊/東京1968  南画廊/東京 1972  南天子画廊/東京 1973  ギャラリーアメリア/東京 1976  ギャラリーさんよう/東京 1979  ギャラリーアメリア/東京 1983  ギャラリー上田/東京1986  ギャラリー上田・ウエアハウス/東京 ギャラリー上田/デコール/東京 1988  INAXギャラリー/東京  1995  ギャラリーアメリア/東京  1996  ギャラリーアメリア/東京1997  工芸学会 麻布美術工芸館/東京 白土舎/名古屋1998  虚空の花火、白土舎/名古屋1999  藤松博遺作調査室、白土舎/名古屋 2002  ばたく光、白土舎/名古屋Figure/は2004 旅人、白土舎/名古屋
 
  ■おもなグループ展
  1949  第1回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京1950  第2回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京1952  第4回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京 1953  第5回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京 1954  第6回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京 1955  第7回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京43人展、銀座 松坂屋/東京1956  第8回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京 世界・今日の美術、日本橋高島屋/東京 46人展、銀座 松坂屋/東京1957  第9回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京  戦後美術の15人展、東京国立近代美術館/東京 46人展、渋谷東横百貨店/東京アジア青年美術家展、東横百貨店/東京1958  第10回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京 朝日新人展 1963  第7回日本国際美術展、東京都美術館/東京 他 1972  「戦後美術の展開 具象表現の変貌」、東京国立近代美術館/東京 1981  「1950年代ーその暗黒と光芒」、東京都美術館/東京 1981~82 「1960年代ー現代美術の転換期」、東京国立近代美術館/東京京都国立近代美術館/京都1982  「瀧口修造と戦後美術」、富山県立近代美術館  「現代美術の展望ー油絵」、富山県立近代美術館1984  「現代美術の20年」、群馬県立近代美術館 「戦後美術の軌跡から」、千葉市民ギャラリー/いなげ1996  「日本の美術 よみがえる1964年」、東京都現代美術館/ 東京  「1953年 ライトアップ」、目黒区立美術館/東京 1998  「戦後日本のリアリズム 1945-1960」、名古屋市美術館/名古屋   2001  戦後美術の断面「馬場彬とサトウ画廊の画家たち」、秋田県立近代美術館/ 秋田
 
 

 

絵のある待合室330


                                                                      米倉寿仁 4F 1940年代後半 キャンバス 油彩


明治38(1905)年2月19日、山梨県甲府市錦町に生まれる。大正15年、名古屋高等商業学校を卒業後、郷里に帰り教職につくかたわら、絵を独学した。昭和6年、第18回二科展に「ジャン・コクトオの『夜曲』による」が初入選。また、福沢一郎と知己になり、同10年、第5回独立展に「窓」が初入選。翌年、画業に専念するために教職を辞して、上京。この頃より、いち早くシュルレアリスム的な表現をとりいれ、社会意識の強い作品を描くようになる。「ヨーロッパの危機」(原題「世界の危機」、同11年、山梨県立美術館蔵)「モニュメント」(同12年、第7回独立展出品、同美術館蔵)、「破局(寂滅の日)」(同14年、第9回独立展出品、東京国立近代美術館蔵)など、暗転する時代を表現した代表作が描かれている。同13年、創紀美術協会の創立に参加、さらに翌年、美術文化協会の創立会員となる。戦後は、同26年に、美術文化協会を退会して、翌年美術団体サロン・ド・ジュワンを結成、以後同会によりながら作品を発表した。山梨県立美術館の学芸員によれば1940年代後半~1950年代前半くらいの作品ではないかとコメントを頂いた。戦前のダリ風のシュールが有名だが、このようなシュールも魅力がある。目利きの友人曰く「篭の取手の輪郭を白抜きするのがシュールなんだよなあ~」。この時代の米倉の作品も見かけなくなった。日本にはシュールは根付かなかったが、「優しいけど棘がある意味深な」このような作品も現代のわれわれには新鮮に映る。