平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第35室

 

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            落合朗風 「半裸」 117x58㎝ 1934年 額装(立入好和堂) 明朗美術創立記念試作展出品作の大下絵


朗風は、明治29年(1896)8月17日、東京に生まれ、まもなく母親きくを亡くし父親常市(島根県平田出身)に男手一つで育てられた。大正5年(1916)文展に「春なが」が初入選し、早くから注目される。三年後の大正8年には院展に「エバ」を出品、横山大観を感嘆させたといわれる。その後も連続入選するが、院展の審査に疑問を持ち脱退。大正13年から帝展に出品し、再三特選候補にあげられながら涙をのむ。昭和6年(1931)からは、青龍社展に参加。名作「華厳仏」で青龍賞(戦前は朗風、戦後は横山操の2人しか受賞していない)を受賞し川端龍子と並び賞されるが、昭和9年には脱退し明朗美術連盟を設立する。そしていよいよ自らの画境を確立しようとする矢先の昭和12年4月15日40歳という若さで生涯の幕を閉じた。「おそろしい将来を持つ日本画壇の一人であった。何と言っても早く死なせた事は惜しんでも餘りあることである。」朗風の死を悼んだ親友の藤田嗣治が残した言葉である。  

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                        藤崎孝敏 「食卓」 30P号 1990年 キャンバス 油彩
 

知る人ぞ知る孤高の在仏画家、藤崎孝敏35歳の個展出品作である。現存の邦人洋画家としては圧倒的な画力と異才を放つ作家の一人だ。目の肥えたコアなファンを持ちプロの絵描きからも一目置かれている存在だ。市場にはあまり出てこない作家だが、幸運にもこれで2点目の蒐集となった。

崎がフランスに居を移して30年が過ぎました。

僕の描きたいものを描きたいようにかく」といって
日本を離れた彼は、
バブル景気が支えた絵画ブームにも、まみえることなく
自分の作品を描きつづけました。
技法やマチエールの巧みさが絵画の評価として
衆目を集める最近ですが、
彼の絵はあくまで人の内面に語りかけ、
そして切り裂くような凄みをもっています。

「絵の本当の評価なんて時代が決めることだよ」と
彼はよく口にします。
人は目で絵を見、そして心で見てきました。
だからこそ名画といわれる絵が
年月を経ても人の心を捉えて離さないのではないでしょうか。



以下、ワシヲトシヒコ氏の評論を記す・・・・
確かに画面全体からの第一印象として、藤崎孝敏の油彩は、やや古風に映るかもしれない。しかしじっとその前に佇んでいると、今現在、パリの異空間に身を晒して生きる画家の烈しい息づかいが、こちらになまなましく伝わってくる。茶褐色の暗い画面が一見、ほっと安堵させる。だが実は、画家の内面を観るものの内面に同化させてしまう内発力の伴ったデモニッシュな作品なのである。藤崎孝敏の油彩を特徴づけるのは、沈黙を破って展開し、また深い沈黙に還る闇と光の相克だ。奔放なタッチで描かれるその人物画、風景画、静物画は、闇から生まれる光の情動のように思われる。闇は画家の炎える内面そのものであり、そこから沈黙を破って、光を求めて外部へ向かおうとする形象こそ、藤崎孝敏の油彩世界といってよいだろう。
藤崎孝敏の画面空間には、ことばにならないことがば隠され、うごめいている。私はそれを゛魂の彷徨゛と呼びたい。
ワシオトシヒコ「存在の本質に迫る光と闇」
(画集CAUVINEより抜粋)
 

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                          古沢岩美 「たそがれの静物」 10号 1955 キャンバス 油彩 


本作は第2の全盛期である1950年代の貴重な作品である。見ての通り、ダリを彷彿とさせるシュールなモチーフが古沢流で描かれている。彼のシュルレアリスムな静物画は他の追随を許さない個性が発揮されており気持ちがイイ。それぞれが有する艶や光沢は、丁寧な筆運びによって的確に描き分けられており、モチーフをデ・キリコ風に配することで、メリハリを持たせ、アンバランスな安定感が生まれている。配色にも意匠が凝らされ、画面上で一際目立つオレンジをアクセントにし、その鮮やかな色彩によって視覚を刺激する。作者のユニークな眼差しが、題材の特徴だけを捉えるのではなく、そこから発展させた不思議な世界を写し出す。

古沢は、1912(明治45)年2月5日、佐賀県三養基郡旭村に生まれる。1927(昭和2)年、久留米商業学校を退学し、親類をたよって朝鮮大邱に渡るが、28年に上京して、岡田三郎助宅に寄宿する。その間、光風会展、春台美術展に出品した。34年、岡田宅を出て、東京豊島区長崎町にあった「長崎アトリエ村」に移り、ここで画家たちとの交友をひろげるとともに、前衛美術を志向するようになった。38年3月、第8回独立美術協会展に、シュルレアリスムに学んだ「蒼暮」、「地表の生理」を出品、一躍注目されるようになった。同年4月、寺田政明、小牧源太郎、北脇昇、糸園和三郎、吉井忠ら19名と創紀美術協会を創立した。しかし、同年10月に第1回展を東京で開催した後、解散。同会のメンバーの一部とともに、39年5月には美術文化協会結成に参加し、翌年第1回展から出品をつづけた。また、同年、東京朝日新聞が創立50周年記念に挿画コンクールをおこない、これに応募して当選した。に43年応召、久留米の部隊に配属され、中国大陸に送られる。終戦後、1年間捕虜生活を送り、46年復員した。47年、日本アヴァンギャルド美術家クラブ発会に参加。戦後の作品として、48年の第1回モダン・アートクラブ展に出品の「憑曲」、52年の第1回日本国際美術展に出品の「餓鬼」、56年の第2回現代日本美術展に出品の「斃卒」など、戦時中の体験と、戦後社会の混乱を告発する作品として注目された。55年に美術文化協会を退会。66年、『千夜一夜物語』(大場正史訳、河出書房、全8巻)、翌年、『カザノヴァ回想録』(窪田般彌訳、河出書房、全6巻)の挿絵をそれぞれ描いた。75年5月、山梨県西八代郡上九一色村に古沢岩美美術館が開館。82年、板橋区立美術館において「古沢岩美展」が開催され、初期から近作まで約130点によって回顧された。同展図録に、古沢自身が、「上から見れば「世間は虚仮」であろう。しかし虚仮の世間の中に不易の真実を発見してこそ芸術は存在価値があると思う。私が社会問題を取上げるのは時代の証言を残すためであり、エロチシズムを主題に選ぶのは不易への挑戦である。」という言葉を寄せている。これは、戦後から一貫した古沢芸術のテーマと姿勢をものがたるものといえる。
 

 

絵のある待合室344


                    長谷川 昇 「踊り子」 1928 50P キャンバス油彩 第7回春陽会出品作

明治末からたびたび外遊し、1929年(昭和4年)の春陽会に出品した滞欧作は小杉放菴や山本鼎など多くの画家たちから絶賛された。春陽会70年史にはこの作品の展示風景も掲載されている。よくこの時期の代表作が残っていたものだ。長谷川の滞欧期の名品を20年前にも見たことがある。それは神保町の高木美術であった。高木さんは既に鬼籍に入られたが、あの裸婦像は今も鮮明に思い出せる。長谷川の画風は私にとってはやや甘さがキツイ感じがしていたが、疲れた脳のには良い栄養になるようだ。

 

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                         長谷川 昇 「レビューの女」 1931 30号変形 第9回春陽会出品作

この作品も344の「踊り子」といっしょに出て来たものだ。裏のシールの断片から春陽会の出品作と推測される。時代性のあるモダンな絵である。見ていてた楽しくなる絵も少なくなった。今となっては貴重な作品と言えるだろう。待合室にはピッタリだと思う。
 

 

絵のある待合室346


                      植木 茂 「合」 1967 92㎝ 現代彫刻センター個展・梅田画廊個展出品作


日本の抽象彫刻の開拓者であり、権威や権力に媚びず自己の信ずる道をひたすら歩いた植木の骨太の生涯は”作家”魂そのものであった。彫刻コレクターの垂涎の的が植木の大型抽象彫刻なのだ!長い間、その出会いを待ち望んでいたが、ようやく美神が微笑んだ!「絵のある待合室」で植木のブロンズ作品を掲載したおり、私の強い植木への木彫思慕のコメントを読んだ京都の画商が連絡をくれたのだ。かなり前に大阪の個人コレクターから小磯良平作品といっしょに買い取り、売らずに自宅の玄関に展示していたという。来歴は不明とのこと。画像からはその出来が素晴らしいことがすぐに分かった。早速、学芸員諸氏に問い合わせて調べてみると、やはり個展出品作であることが判明した。作品画像が掲載されている現代彫刻センターのパンフが出て来たのだ。2014年島根県美で展覧会があったばかりでもあり、植木の再評価の機運が高まっている。この作品も近い将来、どこかの展覧会でお披露目ができたらいいと思っている。

絵のある待合室347


                                  砂澤ビッキ 「 己面 」 1975 32x21㎝ クルミ材

ビッキの木面シリーズがようやく手に入った。所有していた木面の優品は知人の美術史の先生(イタリアの国立大教授)に請われて4年前に手放した。ビッキファンの一人としてやはり木面は持っていないと淋しくて仕方がないものだ。この木面の題名は「己 おのれ」と書いた己面だ。当て字の「き」の字を当てはめるのが通例だが、図らずも己の「き」となったのはビッキの自画像的思惟もあるのだろうか。同形の作品がビッキ作品集(用美社)P74右下に掲載されているが、こちらの作品の方が出来が良い。来歴は所有者の父上がビッキが内装を手がけた有名な「いないいないばぁー」を通じて入手したものだという。ビッキは1975年から数年間木面をつくり始めることになる・・・第1回木面展を札幌の仏蘭西市場で開催しているので、その時の出品作であろう。ビッキにとって木面は造形実験であり、シュールレアリムスの美学と通底するものがある。抽象と具象を越えている。仮面意識の変貌願望とか、神とか動物とかへの接近とか、あるいは儀式の中の悪魔への変貌、神への変身的な仮面の意味をなるべく避けつつ、「き」という発音による文字が多数あることを発見し漢字のもつ多様な意味を結びつけようとしたものだ。また、「仮面の裏側は虚無がぎっしりつまっている」・・・という澁澤龍彦の言葉を引きながら、「人間の顔が入る部分を彫りこむとき、その虚無を実感した」と告白している。

 

 

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                                                 十河厳 「緑の運動」 1950年代  10P キャンバス 油彩


十河厳(そごうがん)は最後の大阪朝日会館館長(4代目)を務めた大文化人で知られている。関西学院大の院内サークル弦月会のメンバーであり、昭和3年卒の同期のメンバーに具体の吉原治良がいる。この作品は大阪の旧蔵者が十河が館長時代に朝日会館で個展をした時に求めた作品だ。館長時代が1946年9月~1958年10月なので、その間の作品である。大阪の旧蔵者の方は1950年後半に十河の個展で購入したと証言している。1950年代後半としていいだろう。この時期にこのような作品を描いていたとはゲンビや具体美術を彷彿とさせる。具体をはじめ戦後1950~1960年代の現代美術の再評価が高まってきているが、十河も再評価される作家として期待しておきたい。

追記・・・大阪大学の研究者の方からのコメントを参考までに記載させて頂くことにする。
十河厳と吉原治良の関係ですが、彼らは共に、1952年に関西の様々なジャンルの作家によって結成された研究会「現代美術懇談会(略称ゲンビ)」に加わっています。ゲンビは、美術団体やジャンルの垣根を超えた討論の場として構想され、1953年から1957年まで、例会や毎年一回ゲンビ展を開いていました。ご遺族の話によれば1960年初頭には絵の制作は止めているので、この作品の制作年代は1950年後半でよいと思われます。
 また十河は、具体(1954年結成)の活動には直接関わっておりませんが、具体が催した「舞台を使用する具体美術 第二回発表会」(1958年)は十河が館長を務めていた朝日会館で実施されましたし、具体の活動についてはよく見知っていたと思われます。そのことは、十河が『日本美術工芸』第315号(1964年11月)に寄稿した「日本前衛美術の開拓者 吉原治良が国際路線にのるまで」という手記より窺えます。
 

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                                藤崎孝敏 「盲目の人」 3F キャンバス 油彩 

貧しい無名の盲目の壮年が英雄に見えるほどに藤崎の慈愛が読み取れる。小品だが素晴らしい出来だ。このように技術だけでなく人間の本質を描ける画家は少なくなったのではないだろうか。

 

絵のある待合室350


                                藤崎孝敏 「恢復期」 1986 20F キャンバス 油彩

一瞬、ぎょっとする絵である。孝敏31歳の初期滞欧作である。題名は「恢復期」とある。すなわち「病み上がり」という事だ。医師である私にとって捨てがたい作品なのである。和製スーチンといってもいいような素晴らしい少年像である。おそらくかなり重い病になり、ようやく命拾いしたのだろう。幼いながら死を悟ったような余裕さえ感じる透徹した瞳、老成した哲学者ような風格、腹の決まった男の顔である。痩せ細った青白い肌に、乾いた田んぼに水が流れ始めたかのような細い血管の束が渦巻いている。恢復期(回復)であることは間違いないであろう。30年経ったこの少年が、今は元気で暮らしていることを祈っている。