平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第38室

 

絵のある待合室371


                             藤松 博 「人・車」 1964 41.8x30㎝ リトグラフ 12/20

 藤松のリトグラフである。珍品であろう。展覧会には11/20が出品されていた。代表作と言えよう。

 

絵のある待合室372


                            木村荘八 「くもり日の新緑」1915 10号 キャンバス 油彩  個展出品作(銀座・田中屋美術店)

 新発見である。これで荘八の最初期と最晩年の2つの風景画の代表作が揃った。あとは人物の初期名品があればいいのだが…

 

絵のある待合室373


                               北澤映月 「待月」 1939 二曲一隻 紙本着彩

 

富山の業者から入手した若き映月の貴重な代表作である。第26回院展の出品作「待月」と推察される。京都市美術館の学芸員の意見では、『日本美術院百年史』に掲載されている資料(単色小図版)からでは屏風ではなさそうなので、出品作そのものかどうかは断定はできないが、さまざまな理由で同じ図柄の作品が2点以上存在する可能性は十分あり得ることと、京都市美に収蔵されている昭和15年に紀元2600年奉祝展に出品された「明裳」二曲一双の作品に使用された紙本や印章、落款が同じであることが確認できた。いずれにしても「待月」の現存作品がないため本作が唯一の「待月」であり新発見であることには間違いない。映月は大正11年松園に師事後、松園の口添えで昭和7年から麦僊の画塾に転じ映月の号をもらう。麦僊没後は昭和13年から院展に発表することになり、昭和16年には「静日」で院賞を受賞し小倉遊亀に続き女性2人目の院展同人に推挙された。映月は京女の矜持を生涯貫いた筋金入りの日本画家である。松園、麦僊という稀有な才能に師事した底力は師の松園と同じく男社会の画壇にあっても輝く存在であった。熟考された構図の妙をお楽しみください。舞妓さんの輪の中に入っている気分になります。

 

 

 

絵のある待合室374

 
                                                                         川島理一郎 「カナル風景」 1925 12号

所蔵している「ナポリ・ポッツオリの岡」「ナポリ・公園前」と同じ1925年の新作画展覧会(東京美術倶楽部)に出品歴のある幻の滞欧作である。2017年2月に入手した。新発見である。川島の滞欧作の素晴らしさは絵好きなら一瞥でわかると思う。更なる再評価をしてほしい作家だ。
 

 

絵のある待合室375


                                二重作龍夫 「彩花」 50F 1983 仏国際展出品作

 朝霧高原からみた赤富士にコスモスであろうか。観ていて幸せになる絵だ。二重作の描く独自の境地からなる富士はいつみても素晴らしい。世界に通用する富士を描ける数少ない洋画家だ。ルーブル買い上げとなったのも富士であった。ちなみにルーブル買い上げとなった日本画家が3人しかいない。長谷川潔、藤田嗣治と二重作だ。世界が認めた二重作の富士を見て頂ければ幸いである。

 

絵のある待合室376


              武者小路実篤 「絵筆を持つ自画像」 1929年9月45才 4F キャンバス油彩 磯谷額縁 
 
過日、実篤が暮らしていた我孫子の業者から購入したこの自画像の調査目的で、平成29年5月7日、武者小路実篤記念館を初めて来館した。落ち着いた雰囲気で老舗の古美術店か画廊を思わせる佇まいは好ましい。早速、学芸員の福島さんに会って尋ねてみた。旧知の平塚市美術館の土方さんからは、同期生であり、優秀な方であると聞いていたので少し緊張していたがやさしい丁寧な対応でホッとした。
実篤は昭和2年に初めて油彩を描くようになるので、、この自画像は最初期に属する自画像になる。昭和4年~6年は時代の流れで執筆の依頼が激減し、失業時代と本人が揶揄するほど生活に困窮していたが、そのおかげで時間に幾分余裕ができ予てから興味のあった画家としての仕事ができる良い機会と捉えたのではないだろうか。その具体的な表れがこの年(昭和4年)の2月に初の個展(日本橋丸善)を開いたり、12月には個人経営の美術品販売や出版の店「日向堂」を開いたりしているからだ。執筆が減った逆行を絵筆に持ち替え、自らの可能性を開くチャンスに転じるのはさすが実篤である。一時でも画家になる意気込みを「絵筆を持つ自画像」として描き、自分を鼓舞したのだろう。眼光鋭い絵筆を持つ自画像の意味が分かったような気がした。覇気に満ちた目力はその決意の表れでもある。この時期の自画像は他にはなく、資料的にも貴重な作品であることが判明した。何かの機会にこの作品も実篤記念館に展示して頂ければ望外の喜びである。

絵のある待合室377


                                                          藤松 博 「 壜 」  1970 15M キャンバス 油彩

これで藤松の油彩作品は3点目となった。私は戦後美術の一断面を代表する作家が好きである。藤松はその中でもトップクラスに入る。世に知られている作品やその数は決して多くないが、名だたる美術評論家から高い評価を受け続けてきた実力はれっきとした事実である。作品を見て頂ければその質の高さは一目瞭然だ。更なる再評価を期待したい。

 

絵のある待合室378


                      笹村草家人 「裸者の首」 1950年 高さ31.8㎝ 院展出品作 作品集所載

作品集にはその制作過程について草家人が記述している・・・生きている姿の気味悪さである。軍艦大和の最後の試作に描かれている重油の流れる海上に首を出しているたくさんの顔のようなもの・・・死をバックにして生きてきた戦時の体験・・・メイラー「裸者と死者」も好まないので半分読んで捨てたが、そういう思念が潜在していたらしい・・・マスクにして翌年の院展に出したらやはり体験ははっきりしたものであることがわかった。この頃から某に木口に粘土をつけて圧してつける肉付けをやるようになった・・・
草家人の代表作が作品が市場にでてくるのは非常にまれである。これで「鈴木迪三」に次ぐ2点目の遭遇となった。

 

絵のある待合室379


                                寺田政明 「牛のモチフ」 1937 4号板 油彩 出品作

2017年3月に版画堂さんから入手した寺田の初期優品だ。この時期のシュール作品は貴重であるばかりでなく、絵好き垂涎の作品でもある。5月21日偶然、ご子息の寺田農さんに平塚市美術館でお会いし、この作品を見て頂く事が出来た。懐かしそうに見入っておられ、「著作権は僕にあるから写真とらせてね」ととても喜んでくれた。作品は遺族にとっては画家本人そのものの感覚があるのだとう。絵をみる眼差しはやさしく輝いていた。
 

 

絵のある待合室380


  花田一男 作 木彫彩色 『宇牟須牟加留多』 昭和十七年 台座付 
  
人形/奥行2424.5cm 5458cm 2021cm 台座/幅36cm 130cm


花田一男 (19041992)は福岡県豊前市生。十二歳のときに直方に移り、直方を故郷として育つ。
昭和14年(1939 35歳)に上京し、芸術院会員の「平櫛田中」氏に師事。その年すぐに院展に入選しその後は、その高い実力が認められ、日展会員になるなど活躍の幅を広げ、世間に広く知られる実力派の彫刻家として名をはせました。【受賞等】昭和14年院展初入選日彫受賞3回藍綬褒章受章・・・が略歴であるが正式な美術教育を受けておらず、しかも遅いデビューのため実力のわりには知名度が低く埋没作家の一人となっている感がある。そこで、花田の第二の故郷である直方市立直方市谷尾美術館の学芸員である市川さんに相談してみたところ以下の回答があった・・・「花田一男」につきましては、当館の前任の学芸員も調べてはいたのですが、こちらの方でも資料が乏しく苦戦しているところです。とりわけ、10代をどのように直方で過ごされたか、原田人形屋でどのように力をつけてこられたか、という点が詳細にわかっておりません。平成951日発行の「郷土直方 第26号」内に記載されていたところとこれまでの情報から、原田人形屋の方は、福岡県福津市(旧津屋崎町と旧福間町の合併市)の方から直方市内に移ってきており、地元の宮地嶽神社(旧津屋崎町)にゆかりがあったことで、それを介して花田一男さんは直方市から旧福間町に移ったそうです。東京に出る前の3年半ほど旧福間町にいたそうです。)そして、宮司さんと懇意にされて7・8点ほど作品を奉納されたと記録があります。もしかすると、神社の周辺で何かしらの動きがあったのではないかと推測されるのですが、、、とりいそぎ、申し出のあった作品画像を送付します。現在の作品名、「農婦の像」です。制作された1940年当時は、「鍬」でしたが、、、(皇紀二千六百年奉祝美術展 入選作品)どうぞご査収ください。またあらためてわかりましたら、ご連絡差し上げたいと存じます。

花田は正式な美術教育は受けておらず直方の原田人形屋で修業見習いしていたようです。35歳になって上京し田中に弟子入りするまでの過程が興味のあるところです。いすれにしても平櫛田中に師事したその年に院展入選はその腕の確かさを示すものです。この作品は38歳の大作である。おそらく注文作ではないかと推測している。ウンスンカルタの伝統がのこるのは熊本人吉であり、そのカルタの伝来は伝統文化として保存研究対象となっている。今後の花田一男発掘顕彰の一助になればと思い、横浜の美術修復工房で修復してもらった。桃山時代の唐和髷をしたイケメン2人がカルタに興じる姿は、異文化を我が文化に融合させた日本人の豊かな感性が見て取れる。はるか遠き日本の懐の深さを彷彿させる作品である。