平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第1室

「絵のある待合室」にようこそ!

力ある忘却・埋没作家の発掘顕彰を目的としたコレクションです。高名高額な作品はほとんどありませんが、日本美術史の隙間を埋めるお手伝いが出来れば幸いです。先入観なく肩の力を抜いてご鑑賞下さい。皆様の心の健康創りの一助になれば幸いです。

当クリニックでは、2つの待合室に常時30点の絵画、彫刻、書を展示し「癒しの空間」として患者様に好評を博しています。

*  現在所蔵していない作品も含まれていますのでご容赦ください。

 

絵のある待合室1



建畠大夢「井原氏の顔」1941 44cm   直土会第一回展出品作

平成22年4月2日午後9時葉山某所にて、「井原氏の顔」を受け取った。薄暗い交差点の隅っこで、ずっしりした古い箱を受け取り、おもむろに蓋を開け「首を確認してよろしいでしょうか?」「たしかに・・・」と、まるでドラマの1シーンのようだった。まだ肌寒い湘南の夜の出来事であった。今でも夢の中の話であったような気がしている。
この作品の旧蔵者は建畠覚造氏である。昭和46年に和歌山県美で開催された展覧会に出品された27点のうちの1点であり、図版解説にはこう記してある・・・
「大夢の塾展ともいうべき直土会第1回展に井原氏の体とともに出品された。いまその所在を確かめることができたのは、この首のみであるが晩年の傑作である。以前の作品にしばしばみられた文学的な寓意を排し、彫刻的な表現に徹しきることによって豊かな造型性を獲得している」・・・絶賛である。これで大夢の作品は2点目である。1点目は「ほたる」大正12年曠原社第1回出品作である。これも素晴らしい女性像である。
  この「井原氏の顔」を見た友人達は口を揃えて「これぞ彫刻だ!」「悌二郎の若きカフカス人を連想する」と叫ばれる。私の第一印象も若きカフカス人であった。言い換えれば、日本青年のナイーブな心理造型が見事に表現されている日本版の若きカフカス人がこの井原氏の顔とも言えよう。2つ並べても全く遜色のない出来である。大夢作品集の図版にはこの首の石膏像が載っているが、ブロンズはこの1点のみであり和歌山の展覧会から39年ぶりに再発見された訳である。本当に幸運であったと今更ながら美神に感謝している。彫刻好きにはたまらない、そして誤魔化しの一切効かない本当の人物造型彫刻である。大夢の底しれぬ実力が空恐ろしいくらいである。親友の西望曰く・・・「未曾有の大天才が天から降ってきた、彫塑界の驚異であり大先輩の大敵であった」この賛辞もうなづける。大夢の集大成ともいえる晩年の代表作と言っても過言ではない。是非実物を見て頂きたいと思う。
 
この取引は事前に何度もメールで打ち合わせし決して怪しいものではありません(笑)。心細い私に同伴してくれたのは9歳の次女(条件はファミレスのアイス)であり、本人も少しドキドキしたようだ。将来、彼女も美術品の取引なるものを経験する時には思い出すだろうか?

 

絵のある待合室2


北村四海(1871~1927):現在は忘却されているが大理石彫刻の第一人者である。滞欧中に結核を得、帰国後27年もの間、喀血しながら名品の数々を世に送り出した稀有の精神力の人でもある。この作品は大正7年の第6回国民美術協会展に無鑑査出品されたものである。タイトルは「妙音」。再評価が待たれる彫刻家である。

 

絵のある待合室3


川上邦世(1886~1925):院展木彫の鬼才であるこの夭折作家を知る人は少ない。現存確認されている作品は7点にすぎない。この作品は唯一の男性像であり、鬼気迫るオーラとユーモラスな両面を醸し出す邦世らしい優品である。背景の「魔駆」の刻字は印象的である。まさに魔を駆除しようとする正義の男が仁王立ちしているのだ。我が家では鉄人28号と呼んでいる。

 

絵のある待合室4


高村東雲「金剛夜叉明王」明治7年 木彫 高さ13.5cm(像高9cm)羽下修三旧蔵 
関野聖雲箱書き 台裏共書き

高村東雲(初代1826~1879)の名を知る人はほとんどいないと言っていいだろう。その理由は彼が幕末明治の仏師であって作家ではないと認識されているからである。一方で、仏像研究者からは明治時代の作家的な傾向もあるとされ純粋な仏師としての研究があまりなされていないという。江戸と明治の狭間で彼の仕事を正当に研究評価する必要がありそうだ。いずれにしても近代木彫の夜明けは彼抜きには語れない。別の言い方をすれば彼がいなければ高村光雲は存在しなかったということだ。東雲は光雲の師匠であり、幕末から明治にかけて今にも消えんとする木彫の燈明を守り現代に繋いだ大功労者であったのだ。光雲が如何に東雲を尊敬していたかは高村光雲懐古談に詳しい。是非一読して頂きたい定番の名著である。先日、旧知の彫刻研究者に東雲について聞いてみたが、その研究はほとんどされてなく、その理由はやはり作家というよりは仏師のジャンルに分類されていることと、作品の所在が不明瞭でありサインがないものが多く本人作と断定できるものが少ない・・・との事であった。数少ない作品に西行像(平櫛田中美術館寄託)が知られているが、これだけではあまりに物足りない。仏像作品もしかりである。小品であれ、とにかく彼の真作があればその資料的価値は十分あると思われる。今後、この作品がキッカケとなり東雲研究が進むことを期待しているのは、私だけではないと信ずる。

 

絵のある待合室5

謎の肉筆浮世絵師 田村水鴎 
   「美人楼上観景図(部分)」30.4x49.0cm について


「絶海の孤島に独特な動植物が進化するに似て、鎖国下の江戸に花開いた浮世絵は、日本人の感性が産み出した至高の芸術です。江戸時代初期から明治時代まで、常に当世風俗への尽きない興味を表し、その親しみ易く享楽的な内容は庶民の指示を得続けてきました。文明開化の世となって瞬く間に洋才が移入する中、欧米にジャポニズムの旋風を巻き起し印象派の画家達にも多大な影響を与えたことは有名な史実です。これこそ世界の美術を変えた和魂のひとつでしょう・・・」と。日本洋画を語るには印象派の影響を避けることはできないし、その印象派に決定的な影響を与えた浮世絵を軽視して、また知らずしては日本洋画は語れない・・・と感じているのは私だけではないはずである。浮世絵と言えば、永谷園でお馴染の広重東海道53次や北斎の富獄36景などが有名だが、それらは絵師の元絵を彫師や摺師が分業で制作した多色摺りの版画である。一方、主に当時の富裕層から注文に応じて絵師が1点毎に丹念に制作した肉筆作品も存在する。流麗で繊細な墨線、艶やかで豪快な色彩感覚と自由な構図を特徴とする肉筆作品は絵師の感性と技量が新鮮に伝わり、版画とは別趣の魅力を放ちコレクターを釘付けにする。浮世絵と言えば美人画であり、3世紀の歴史の中での美人の変化を不変、微変と観るか多種多変と観るかは非常に興味深いところであるし、自分好みのマドンナはどの時代のどの絵師の作品かを探すのも楽しい。
さて、話を元に戻そう。田村水鴎という肉筆浮世絵師のことをご存知の方はかなりのツウであろう。浮世絵人名価格辞典(北辰堂)では{肉筆}450万生没年不詳、京都の人で作画期は元禄から享保?(延宝~元禄の説)。全て肉筆で菱川風。土佐派を思わせる技法も見られ遊里、遊女を描いた美人画が多い。一説には女流絵師ともいわれる・・・とある。世界浮世絵学会員のS氏も水鴎の名品を所蔵されているが、この絵師に関しては資料が乏しく謎が多いという。東博はもちろん有名美術館や国内外の1流コレクターには必ず水鴎作品は所蔵されている。たとえば熊本県美の今西コレクションは1級の浮世絵コレクションとして知られているが、浮世絵蒐集にその一生を捧げた今西氏が最後に蒐集した作家こそ田村水鴎であった事は興味深い。私の所蔵している少ない水鴎の資料に“季刊浮世絵”№7・1963があり、その中に水鴎論が特集されている。金子孚水氏と吉田瑛二氏が謎の絵師、水鴎への熱い思いが語れている興味深い内容である。両氏は、水鴎の作画期は天和期からで、師宣の後を追っている存在でなく師宣と併走した存在であり、むしろ師宣が水鴎の流れに育った絵師としていいのではないかとしている。その理由は肉筆として師宣以上に確かなものを持っていると見るからである。構図においても設色においても師宣よりもかっきりとした本格的なものを身につけているのが、その絵によって知ることができる。水鴎は師宣よりも何か1本の筋を持っているということである。このことは非常に重要である。菱川師宣は浮世絵の開祖と言われており定説となっているが、その師宣が影響を受けた可能性があるのが水鴎とすると、菱川派は田村水鴎の流れを汲むという大変な事になるからである。推論とは言え金子、吉田という浮世絵研究の世界的権威が文章として発表すること自体が、水鴎に対する正当な評価を促すきっかけとなればいいのだが仮説のまま、あれから40年の月日が経ってしまったようだ。さて、水鴎の作品について考えてみよう。これだけの腕を持ちながら、水鴎作品が話題に登らなかった理由は、①無落款のものが多い②師宣が強烈な存在③浮世絵商や収集家が版画専門の人ばかり・・と考えられている。実際、水鴎作品を扱っているのは、一流の骨董商でありその作品は常に表具が立派でありどれも昔から由緒が正しく、大切に伝来されたものが多く、版画が主な浮世絵商の手にはかかりにくかったようだ。このように浮世絵肉筆の大先輩であり、有名な研究家、収集家といえども水鴎の作品に接することがいかに少なかったかを知るのである。このことが水鴎を謎の絵師として埋没させてしまった遠因である。物故埋没洋画家・彫刻家と同じである。
今回、取り上げた「美人楼上観景図」30.4x49.0cm 紙本彩色を見てわかるように、いわば日本画の基礎といえる狩野派と土佐派の影響が見て取れる。菱川派に似ているが衣装の線を単純化し、独自の表現法で醸し出す画品とスケールは他の追随を許さない。美人を巨大に描いているのは村上華岳の美人画を彷彿とさせる。そしてシュールレアリズム的な不思議な構図も楽しめる。また水鴎作品のもうひとつの見所は立派な表具である。軸先は唐木千段巻撥。中廻しと一文字は辻が花(江戸前期)の初表装。この表具だけでも200万円かかるとは驚きである。我田引水であるが一度観たら感嘆の声を漏らす様な逸品であると思う。当時の官展アカデミズムとも言うべき狩野派と土佐派に庶民芸術である浮世絵モダニズムが見え隠れする、新しい日本画を予見する作品でもあろう。
今後、日本の絵画芸術が世界に広がるヒントが浮世絵にあるような気がしないでもない。鎖国という不自由な時代にもめげず心の自由を謳歌し産まれた、日本が誇る庶民芸術の粋が浮世絵であったのだ。現代はその反対である。便利になった分だけ、貪欲に心の自由を求める力が減退しているようだ。浮世絵の時代、好きな美人を風俗を勝手気ままに自分の個性と技量で描きまくった無名の絵師達に、遥かなる思いを乗せて指を置くこととする。乱筆乱文お許しあれ。

 

絵のある待合室6


 
伝説の木彫家 戸田海笛
戸田海笛「労働者」(仮題)1918頃 74x31x38cm 

2008年2月10日~3月16日に米子市美術館で戸田海笛展(生誕120周年)が開催された。当に埋没している地元作家を世に問う地方美術館としての使命溢るる素晴らしい企画(担当は今香氏)であった。
さて、海笛とはどんな人物なのか?一般に知られているいくつかのプロフィールを載せてみる。A.戸田海笛(とだ・かいてき)  1888-1931年 享年42歳。米子市生まれ。少年時代から芸術の道を志したが、家人の反対にあい家出放浪を繰り返した。1909年、上京し、安来市出身の彫刻家、米原雲海の門をたたく。15年、文展に初入選以来、連続出品し、才能を認められた。性格は奔放大胆。作風はタッチ鋭く豪快。興に乗って描いた鯉、竜の墨絵は雄こんな筆致が見事。23年、パリへ単身留学して羽織、袴(はかま)の名物男として修業を続けたが、病を患い客死した。藤田嗣治は実家にその死を知らせるとともに、晩年について詳しく書き送った。現存する作品は極めて少ない。B.米子市両三柳生まれの彫刻家。1909年上京後、米原雲海・岡倉天心に師事し、天心より「海笛」の号を受けた。海笛の郷里が海に近いところから、死しても鳴るとの意味であるという。その後文展・帝展に入選し1923年パリへ単身留学、パリでは彫刻のほかに鯉などを描き、「ポワッソンの戸田」と呼ばれ、パリ現代美術館に作品を買い上げられるほどの評価を得た。米子が生んだ世界的な彫刻家である。C.本名久輝。1888年鳥取県会見郡両三柳村(現在の米子市両三柳)の旧家の農家に生まれる。芸術家になることを決心し、1909年に上京。彫刻家米原雲海に師事し、東京美術学校の聴講生や、岡倉天心のもとで指導を受けた時期もあった。1915年の第9回文展に木彫《サロメ》が初入選、以降文展に4回、帝展に2回入選を重ねる。その後フランスに留学し、彫刻のほかに魚を描いた絵が評判となり「ポワッソンのトダ」(ポワッソン・・・フランス語で「魚」)と呼ばれたが、渡仏後8年目の1931年、帰国前に病に倒れ死去した・・・以上が主なものである。
  この作品の情報を旧知の画商から聞いた時は、「本当だろうか?」との驚きと、あの「栄光と風評に包まれた悲運の鬼才」に思いを馳せた次第である。作品を実見した時の感動は今も鮮明である。本当に立っているのだ!また米子の戸田海笛展にも新発見(個人蔵)として出品された「曠野」大正7年作と同型同大の作品であったのだ。師米原雲海からの信頼も厚く、早くからその才能は開花していた。私の友人でもあり現代木彫の雄である吉田直氏(次代を担う逸材と目されている)にも見て頂いたが、この作品の卓越した技術を感嘆してくれた。仏師としての基礎訓練を積んだ彫刻家だけが辿り着く近代彫刻の頂は大正期にあると感じている。この作品はその良い例であろう。
戸田海笛については越河繁明氏の「戸田海笛」立花書院が最も優れた評伝であるとされているが入手は甚だ困難である(小生も探している!)。今でも海笛が活躍したフランスからもこの本の依頼があるが出版社でも在庫がなく困っいると言う。あとは断片的な記載が伝わっているだけである・・・その本はと言えば・・・「ねむれ巴里」金子光晴、「異邦人の生涯」近藤史人、辻潤全集3巻などであるが、基本的には藤田嗣治や薩摩治郎八関連の本には必ずと言っていいほど登場する人物であり、その特異な活躍は当時の邦人留学作家からもフランス人からも評価され、注目されていた存在であったことには間違いない。しかし、渡仏してからの活躍の中心は日本画(尾竹竹波門)であり、本来の彫刻ではなかった。しかしながら巴里で自立できた数少ない作家であったし、きっと近い将来、本来の目的である木彫でフランスに美術革命を起こすつもりであったろう・・・滞欧中弟子への手紙にこうある「西欧は絵も彫刻も全部行き詰ってますから、将来は木彫の世界です。今に見ていてくれ。木彫は形でなく、気持ちの表現で東洋的です」・・・と。そして42歳という若さで客死し、現在は忘却の彼方に追いやられてしまった。
海笛についての記述には多くの間違いや偏見があるようだ。尊敬する笹木繁男氏にもご尽力頂いたが当時の正確な資料は限られており、なかなか大変であるとのこと。この作品を含め現存確認されている海笛の作品は20点くらいとされている。いずれにせよ、「大正期に本気になって木彫で西欧に殴り込みをかけた彫刻家が存在した」という事実は、日本の彫刻史に記憶されていいと思う。

日本木彫界のドンキホーテに再評価を!

 

絵のある待合室7


 
宮本朝濤「木花之佐久夜毘賣」1940年    2012 群馬県立館林美術館「色めく彫刻」展出品

高貴な艶と緊張感あるフォルムは襟を正さずにはいられない。技術+α、このレベルの木彫は一瞥で判るものだ。宮本朝濤(みやもと・ちょうとう 福岡出身 1909~1944)を知る方はいるだろうか?山崎朝雲の朝の字を許された最後の愛弟子(10人目)である。20歳そこそこで日本美術協会展での受賞(3等銅牌)を皮切りに同14年まで8回の受賞を重ねる。11年文展で選奨を受け17年には無鑑査となり18年朝雲の紹介で山本五十六像制作のため海軍に入るが制作前に横須賀海軍病院で急逝。これからという時にである。夭折の作家の数少ない作品を入手するたびに私はその無念さを晴らそうと思うのがクセになっているようだ。
  高さ71cmの堂々たる名品である。私の所蔵する数ある木彫作品の中でも+αを持っている一つである。実物を見て頂ければ納得して頂けると思う。昭和15年に第1回福岡美術協会展に同じ題名の作品が出品されているが、この作品はそのバリエーションと考えられる。神話の世界では姉の岩永比売も有名であり、計らずも北村四海作の岩永比売を所蔵していたので、これで姉妹が揃ったわけだ。この姉妹には夫(天御子)の寿命(姉)と子孫の繁栄(妹)の意味が込められているので姉妹両方とも大事にしないと大変な事になります!ニニギノミコトのように容姿で選ぶという事は慎むべし慎むべしです。

後日、福岡県立美術館のU氏からこの作品についてのご報告を頂いので、参考までに補足させて頂きます。

平園賢一様

福岡県立美術館のUと申します。
宮本朝濤の作品写真お送りいただきありがとうございました。
確かにとても魅力的な作品と思います。すでに『福岡県の近代彫刻』図録をお持ちとのこと、それ以外の資料が何かあるか調べてみました。当時の絵はがき数枚のモノクロコピーがあり、図録125ページの図版のもとになった、1940年第1回福岡県美術協会展の出品作以外に、もう1点、ほぼ同形の作品がありました。細部があまり鮮明に出ていないモノクロコピーなので、正確ではないかもしれませんが、平園様の作品と見比べると、台座が円形であること、下半身に花柄が見える(上半身は白くとんで見えない)ことは共通しますが、
着衣よりも帯の方が濃い着色であること、顔立ちの印象がやや異なるように見えることから、おそらく別作品と考えられます。よって1940年出品作と御所蔵作、絵はがきの作品と、少なくとも3点、姉妹作が存在したと考えられます。当館でわかる情報は、これしかありません。残念ながら当館は朝濤の作品を所蔵しておりません。今回の情報は、作家ファイルに加えさせていただきます。また将来、ご所蔵作品を企画展等への出品をお願いすることがあるかもしれません。もし、そのような機会がありましたら、ご協力くださいますようお願いいたします。では、貴重な情報をお知らせいただき、重ねて感謝申し上げます。
福岡県立美術館  学芸課 Y・U

 

絵のある待合室8


菊池一雄「若い女B」1952 32cm 

2011年8月、菊池一雄の代表作を入手できた。第16回新制作展の出品作であり唯一の鉛による銀渡金である。なぜ鉛なのか。それは鋳造後に手を加えるのが容易であるからだ。おそらく作家自身が鋳造し手を加えたのだろう。この作品に対する作家の特別な思いが感じられる。
さて、菊池は祖父に芳文、父に契月を持ち、東大文学部美術史学科に学ぶ傍ら、藤川勇造に師事、渡仏しロダンの高弟デスピオにつき、帰国後は京都市美の教授、東京芸大の教授を歴任した。その間第1回毎日美術賞、著書「ロダン」で毎日出版文化賞を受賞している。戦中は海岸防衛部隊の中隊長として決死の任にあたった偉丈夫でもあった。
20世紀日本彫刻物語によれば、日本の具象彫刻の芸術思想は昭和20年代の新制作協会が中心に展開したとある。その主なメンバーが菊池、柳原、本郷、佐藤などであった。特に、菊池の仕事は滞欧期1936~1939に築かれた肉付けのきめ細やかさと密度の濃さを存分に発揮していて高い評価を受けた。木内が古代ギリシアとすれば菊池が古代イタリアのエトルリア美術に感化されており、この二人がともに当代の美術を学びに滞欧し、古代美術の影響を戦後の日本彫刻界に持ち帰ったことは興味深い。

菊池をよく知る人物の菊池評・・・・・

井島氏・・・温雅な作風の中に滋味、繊細で典雅な感性をまとった深い叡知
故藤川勇造夫人・・・絶対の信頼感、あたたかな師弟愛
高田博厚・・・日本美術家に欠けている「感性を通しての知性」を持っている
堀内正和・・・菊池は眼がよかった
本郷 新・・・絵画的彫刻がはんらんしているが、菊池さんの作品はいつでも立体としての彫刻になっている。倶長抽象を問わず絵画的彫刻は愛想はいいが頼りない。彫刻は無愛想いいのだ。「立体としての彫刻」を日本近代彫刻史に据え置いた彼の力量は、世間の人のあまり気付かない立派な業績である。
船越保武・・・私が一つ考える間に彼は十、二十も考え予想し、計算し、それを熟考し制作する、恐ろしいひと。これほどの人を私は他に知らないほどです。
柳原義達・・・デスピオの名は、自然を探り、自然を愛し、それを音楽のように組み立てる造形家として最も新鮮な感動に満ちていた。菊池さんはどちらかというとデスピオに近い作家でしょう。
今泉篤男・・・日本で初めて彫刻家らしい彫刻家の作品に接した。私は菊池の作品のモドレ(肉付け)の美しさに驚嘆したのである・・・ロダンの言葉の中に「肉付けは彫刻家の心だ」というのがある・・・菊池の肉付けは愛情のこもった肉付であり、しかもその愛情は抑制された愛情である。
菊池一雄・・・自著「ロダン」あとがきより
        私は、新しい彫刻の前進の為に、もう一度私たちが近世以来見失ったものを探りたいと思った。然しルネサンス以前(ギリシアのタナグラ、エトルスのテラコッタ、ゴチックの木彫)はあまりに遠く、あまりにも単純素朴でつかみ難い。そこで私は彼らと私を結ぶ線の上にロダンを置いて、失ったものを見出す何かの手がかりにしたい・・・

菊池一雄の名は知っていても、その作品を積極的に入手しようとは思いもしなかった。しかし、この作品を一見し、名品の格が全身で感じられ頭が熱くなってきた。古代の芳香が鼻をついた。私の好きなデスピオの弟子である事も気をよくした。院展中心の発掘顕彰を軸にしつつ、他の作家も先入観なくイイものは蒐めて勉強し、審美眼を磨いて行きたい。

 

絵のある待合室9


木村荘八1917年頃「卓上の花」4号 油彩

早熟の異才、荘八の初期油彩である。日本人の薔薇は欧米人のそれと違い、「散ることを意識して描いている」とは識者の意見である。桜の文化が我々のDNAには組み込まれているようだ。この薔薇もまさにその薔薇である。

 

絵のある待合室10


砂澤ビッキ「木面」1975  52.5x20.5cm  メスがオスを抑え込んでいる。オスは割れ目のある撓んだ球形の中で串刺しにされ、その動きは極度に制限されている。しかしオスはそれに気づいていないのだ。 ビッキの木面シリーズはその造形の中に、生物学の根本原理<メスとオス><女と男>がシンボリックに表現されており非常に興味深い。 福岡伸一氏の問題作「できそこないの男たち」光文社は、刺激的な内容だ(抜粋)・・・生物の基本仕様は女であり、無理やり作り変えたものが男である。そこには作り変えにつきものの不整合や不具合がある。つまり、生物学的には、男は女のできそこないであるため、寿命が短く、病気にかりやすく、精神的にも弱い。しかし、できそこないでもよかったのである。所期の用途を果たす点においては。必要な時期に、縦糸で紡がれてきた女系の遺伝子を混合するための横糸。遺伝子の使い走りとしての用途のために女が産み出したのだ・・・一見、オスこそが世の中を支配しているように見えるのはなぜだろうか。それはメスが欲張りすぎたからだ。卵を産んだあとオスが子育ての役割を担う種は限られている。それは本来、オスがメスから作り出されたときに予定されていた役割ではない。おそらくメスがそのうち気づいたのだ。遺伝子を運び終わったオスにまだ使い道があることに。巣を作る。卵を守る。子供の孵化を待つ。そのための資材を運ぶ。食料を調達する。メスの代わりをして、メスに自由時間を与える・・・それは今日、女たちは男に、子育てのための家をつくらせ、家を暖めるための薪を運ばせ、食料を確保することは男の最重要の仕事となった・・・男たちは薪や食糧、珍しいもの、美しいもの、面白いものを求めて野外に出た。そしてそれらを持ち帰って女たちを喜ばせた。そして今度は男たちが気づいたのだ。薪も食料も珍しいもの美しいもの面白いものも、余分に得られた時にはこっそりどこか女たちが知らない場所に隠しておけばいいことを。余剰である。余剰は徐々蓄積され、交換され、貸し借りされ、それらを記録する方法が編み出され、時に余剰は略奪され、余剰をめぐって闘争が起きた。秩序を守るための取り決めと破った時の罰則が定められた。余剰を支配するものが世界を支配するものとなるのに時間はそれほど必要ではなかった・・・・ 初代の文化庁長官である今日出海は「余裕」が文化を産み出すと言った。余裕とは余剰である。精神的・物質的な余剰が文化を創るのは歴史の真実であろう。その余剰はメスの欲が産み出したのは皮肉なものだ。気の遠くなるような遺伝子の連鎖すなわち生存の連鎖には、<メスとオス><女と男>における本当の関係が潜んでいる!このビッキの木面はそのことを、<できそこないの男たち>に思い出せ!とばかりに窮屈にぶら下っている。 メスの使い走りとして、せめてもの代償としてオスが手に入れたのが余剰であり、そこからから蒐集という行為は生まれた。皮肉なものだが、それは当にオスの遺伝子の為せる業であったのだ・・・女性の皆様!どうかご寛容のほどを。

追記: 2012年12月、この作品は懇意にして頂いているY教授(美術史)の所にお嫁入りする事になった。ビッキ顕彰の役に立つ事だろう。