平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第2室

 

絵のある待合室11


新発見!千野茂の石膏彫刻 膝つける裸婦 1950年 石膏 90cm
千野茂という彫刻家をご存知であろうか。私としては、東京芸大の教授であり、温和で質素な裸婦像を得意としていた…くらいの認識でしかなかった。この作品は1950年の石膏像であり、高さ90cmと大型である。台座後部に昭和25年茂作と刻銘がある。1950年と言えば院展第1回大観賞を受賞した年の作品でもあり、同じモデルの立像が田中美術館に所蔵されている。千野の回想から推測して本人も残念がっていた行方不明の作品と考えている。 さて、千野茂の研究者である大垣女子短大の鈴木正道氏は、論文の中で次のように千野彫刻を分析している・・・千野彫刻の最大の特徴は触覚に優先性をおき、視覚的に見ないようにしている。その表現方法の最も適しているのが粘土でありマイヨールでいう石膏の直付けという材質である…千野本人も「朝鮮李朝古陶磁のような肌のものを裸婦の肌に織り込んで表現したい」と言っているのはブロンズより、むしろ触覚性に富む粘土や石膏という素材を重要視している点で興味深い…人間の感覚の中では視覚が他の感覚より強い。鑑賞者の第一印象としては、視覚的にとらえることだろう。千野は独自の理論(触覚的彫刻)で他の彫刻家と異なる日本の彫刻を裸婦というモチーフで追及した孤高の人でもあったのだ。彫刻のもつ本質を視覚的なものを一切取り去り、一見平凡に見えながら…千野作品は鑑賞者が視覚的に見ないように、むしろ誇張された表現、強い線や陰影を弱め、触覚的に鑑賞するように誘導しているようにさえ見える・・・  少々、小難しくなってしまったが、私たち鑑賞者から見れば、彫刻はブロンズが完成品であり、粘土や石膏はその前段階という認識でしかない。謂わばデッサンと本画の関係である。一般的には作家の理想や思いがダイレクトに表現されているのが粘土や石膏であることを私たち鑑賞者は気付いていなし、その段階での作品を観ることも触れることもないのが現状である。私たちは彫刻家が粘土から忠実に石膏で型を取り(1つしかできない)、それを原型にブロンズを抜く(複数できる)ことを知っている。そう考えると、オリジナル(理屈で言えば粘土が原型)は粘土を型に取った石膏作品にあるのであってブロンズはそのコピーである。もちろん、そのブロンズがいけないという問題ではないが、千野のようにブロンズ化しないで石膏のまま代表作を保存しているのには、それなりの理由があったのだ。私にとっては新鮮な驚きであった。ブロンズ化するにはお金が掛かるので、石膏とはブロンズという完成形の為のとりあえずの形として理解していた自分が恥ずかしい。考えようによっては、石膏こそが完成形であり、ブロンズはその保存形であるというのも正論である。知人の彫刻家も同じことを言っていた。 千野茂に関しては、千野茂彫刻展図録(1989)、千野茂作品集(1990)があり千野芸術が概観できる。特に作品集や展覧会図録のトップページや表紙が石膏作品であることに違和感があったが、ようやく理解できた気がする。また、1994年の鈴木論文「千野茂の彫刻」…千野茂彫刻における触覚性を中心として…もお薦めである。電子ライブラリーとしてネットで検索できるようになっている。 誇張を避けた彫刻は、千野の信条とは別に地味な作風として黙殺されて来た感があるといえばある。多くの芸術家が渡来の飛鳥仏や天平仏を仏像彫刻の最高峰としているが、日本の心は藤原仏にあると千野は考えており、そのような彫刻を理想とし裸婦に置き換えて一生涯制作してきたことを忘れてはならない。 この作品は若き時代のひとつの頂点となった代表作であるが、来歴ははっきりしない。立派な誂えの台に木彫りのプレートが付いているので、ロビーの脇にでも展示してあったのだろうか。1950年彫刻ではただ1人、記念すべき第1回院展大観賞を受賞した折、口下手な千野に対して「あなたは作品にものを言わせればよい」と大観が慈父のように千野をかばった逸話が残っている。舟越とともに芸大を退官(S55)した際に、学生から送られた卒業証書がある・・・貴殿は東京芸術大学美術学部彫刻科に於いて半世紀にわたり、文学青年らしく、きよく女子学生に愛され、男子学生にしたわれ、小さな体で大きな影響を与え続け、それは今日の芸大の小さな巨人でありました。又、その人柄は美校の温厚な教育者として知れわたっておりました。その光明としての存在を広くたたえ修了されたことを証明します。東京芸術大学美術学部 学生一同

 

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建畠大夢「ほたる」大正12年 1尺4分 曠原社第1回展出品作 ブロンズ 建畠覚造箱書き 建畠大夢作品集(昭和18年)NO14図録掲載
言わずと知れた「文展3羽がらす」の一人である。作品集の序文に、親友北村西望曰く「美校生の間では未曾有の大天才が天降ったとみんな云った。彫塑界全体の驚異であり、又多くの大先輩の大敵でもあった・・・終始一貫自分の道をかたく信じて疑わない、従って失敗もした事が無い、制作中に相談がましい事は間違っても云は無かった実に珍しい存在であったと思う・・・心中何時も何か画策していたらしいが側から一寸見たところでは悠然として遊んでいる時が多かった、この処が凡人と違うところでまことに天才に違いなかった。それにあの竹を割ったような性格も好きだった。真に作家らしい作家であった・・・これやこの櫻大樹かれて春さびし」。62歳でこの世を去った盟友を思う西望の心情が吐露されていると思う。 大正期の彫刻の魅力に取りつかれ、コツコツ蒐集している私であるが大夢作品は数も少なく半ばあきらめていた。大夢も創立会員である八つ手会メンバーである国方林三の作品が3点集まり、南紀美術会の保田龍門(石膏レリーフ)、川端龍子、下村観山作品を蔵している様子に気付きそろそろ大夢作品もこれら親しい仲間に呼ばれて出てくるのではないかとコレクターの予感が当たったわけである。 この作品は東美教授就任の3年後(43歳)に制作し、記念すべき曠原社第1回展に出品された代表作である。小品(オリジナル)だが大夢の制作における境地(思想)というものが伝わってくるようだ。とにかく大正という時代にしか作れない作品であることは間違いない。 ところで、 腕に止まった「ほたる」をそっと覆う仕草を現代人は出来るだろうか?

 

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荒井龍男「坐像」6F1952年キャンバス油彩

「荒井の赤」は美しい。朱色を基調として傑作を世に送り出していた頃の優品である。荒井の赤を基調にした裸婦像はこれ以外見たことがない。血の色、変化、卵子を象徴する赤、そして骨、普遍、精子を象徴する白・・・この裸婦像は「荒井の赤」と白が混じり合った名品と思っている。長谷川利行の裸婦に匹敵する生命の躍動を感じる。

 

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北村四海「イヴ」1915である。現存する四海のイヴ3点のうちの1点であり、2番目に大きい63cmとされる。大正期の大理石彫刻の頂点と評価されている作品の別バージョンであるが、その作域はオリジナルと遜色はない。宮大工の浮き彫り、木彫、牙彫から留学時代の徹底した解剖学研鑽、そしてアールヌーボーとロダニズムの影響下で制作された傑作である。明日をもしれぬ結核と闘いながら、日本人の四海でしか成し得ない普遍的でしかも無常観の漂うイヴである。日本大理石彫刻史に不滅の金字塔を立てた男を忘れてはならない。

 

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中村忠二「文字 RSALXME TOKIO」 104×70cm モノタイプ 1968 中村忠二(1898~1975)は故梅野隆さんから教えてもらった。梅野さんが発掘顕彰した画家は数多い。その中でも中村忠二は特別な存在である。梅野さんが愛した作品の中に忠二の「夜の沼」モノタイプ1967がある。私も好きな作品だ。忠二は1960年から一枚しか刷れないモノタイプ版画を制作、特に1960年代後半は抽象的モチーフとなり頂点となった。忠二が創り上げたモノタイプは日本絵画史に残るとされている重要な仕事である。梅野さんも「彼の抽象画、心象画に未だかつて日本人が描いたことのない秀れた芸術を見た」と結論づけている。梅野さんが所蔵し、現在東御市梅野記念絵画館が所蔵している忠二の傑作に「文字 東京暮雨」104×70cmモノタイプ1968がある。私が忠二と言えば思い出すのがこの東京暮雨であった。それくらい忠二芸術のひとつの到達点である作品であるのだ。この類似作品を長年探していたが巡り逢わなかった。唯一、1993年羽黒洞とギャラリー内村が開催した中村忠二展の中にRSALXME TOKIOが知られているだけであった。梅野さんが亡くなり3週間経った頃、ネットで渋沢和彦氏が「美の神を呼んだ男」として梅野さん追悼の記事を書いてくれた。そこには梅野隆が愛した中村忠二の作品と題して「夜の沼」が掲載してあった。その日の午後、旧知の画商からこのような連絡があった・・・7月に忠二のコレクターから約20点の優品を一括で購入した。すぐに別のコレクターが泣く泣く1点を残し全て購入した。その残った一枚が何とあのRSALXME TOKIOであったのだ!ああ梅野さんありがとう。思わず声が漏れた。東京暮雨が夕暮れの東京の雨とすれば、このRSALXME TOKIOは真夜中の東京の雨であるかもしれない。予備校時代、中野区新井の寮で1人路地裏の雨とその音に身を任せていた頃を思い出した。意味不明のRSALXMEが悩ましく心地よい。これで、ようやく晴間が見れそうだ。

 

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北村正信「若い女」1917年第11回文展入選作である。四海の嗣子であり、太平洋画会で師父である四海から一子相伝で彫刻の極意を学んだ。特に四海亡き後の大理石彫刻界では原野を一人行くが如くであった。その孤高は多くの芸術家から尊敬された。若き正信28歳のこの作品は、四海の正当な継承者としての証でもある。

 

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里見勝蔵は私の尊敬する画家の一人である。近代日本洋画界のために多くの若い画家たちを表舞台に引き上げた人材育成の大功労者でもあるからだ。また師であるブラマンクを生涯にわたって敬愛した報恩の人でもあった。この作品は初期滞欧作「シャポンバルの寺」1923頃である。ゴッホも描いたパリ郊外のシャポンバルには一度は行ってみたいと妻と話している。

 

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二重作龍夫「ベニスの英雄」1970年 100号  
二重作龍夫は故義父の友人でもあった物故近代洋画家である。国内で数々の受賞歴を持ち、将来を約束された中堅実力作家だったが、日本画壇の封建的閉鎖的体質を良しとせず全盛期46歳の時に日展を脱会、裸一巻世界に打って出た。当時、その思い切った行動は内外に大きな波紋を投げかけた。50歳を過ぎ、仏語もわからぬまま渡仏を繰り返しながら、腕一本で本場フランス画壇に討ち入り、快進撃が始まった。ル・サロン金銀銅、仏芸術院賞、仏国際展大賞、コロー賞(日本人2人目)そしてルーブル美術館買上に至り、日本で忘却されようとしていた水戸っぽ洋画家は、日本画壇に凱旋帰国となった。日本人離れしている線と色彩感覚は世界の人々を魅了し、その写実では表しきれない大らかさと装飾的構成は桃山時代の狩野永徳すら彷彿させる。この作品は第4回滞欧時にサロンに出品し銀賞を受賞、絶賛を博した出世作である。栄光に輝く威風堂々たる騎乗のヒーローと逞しい筋骨をもつ馬との、まさに“鞍上なく鞍下馬なし”の見事な一体感が、それ自体魅力十分な名作である。雄健な筆力と雄渾な色のマチエールは異邦人とは言え、本場フランス画壇でも認めざるおえないほどの作品であったのだ。「背後にある麗しのベニスは私が守るのだ」との二重作の声が重なって聞こえてくるようだ。

 

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川島理一郎  「卍字楼」 1939年 12F キャンバス 油彩

川島従軍時代の名品であり、画集や美術雑誌などに紹介されている川島の代表作でもある。五彩の輝きは中国陶器のようである。幻と言われていた初期滞欧作を2点所蔵している私にとって、川島の全貌を知るにはその従軍時代の優品がどうしても必要であった。数多の洋画家がいる中で、ぐるりと回って元に戻ると、やはり「川島でしょう」という事になる。「東洋のマチス」「西洋の池大雅」の異名を持つ彼の油彩は、日本人でしか描けない世界に通用する特質を十二分に備えている。ただただ、画品高く颯爽と美しく大胆だが繊細、当に明治人+コスモポリタンの川島でしか描けない香り高い作品なのである。誰がこの作域に達する事が出来ようか!先入観なくゆっくりご覧下さい。どうか、皆さんも「やっぱり川島でしょう」という事になりますように。

 

絵のある待合室20


小泉清の「裸婦」1954~1956である。現在は伝説の画家の一人として君臨している。 小泉八雲の三男であり、学生時代には会津八一から天才と言われ、里見や梅原からその才能を絶賛、いわゆる文化人や玄人好みの異才であった。日曜美術館で放映され一般に知られるようになったが、寡作のため人目に触れることは少ない。溶岩よのうな底光りするマチエールとインパクトある構図は、その複雑な血脈がなす業であろう。小泉の裸婦はこれからも小泉の裸婦であり続ける。