平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第8室

 

絵のある待合室71

 

 芥川麟太郎 「白火」 1973 20号 

芥川麟太郎は私にとって長い間、伝説の画家であった。四谷十三雄「自画像」と星野鐡之「ビンの静物」はすでに所蔵していたが、伝説の3人の中で、ただ一人芥川だけが空白であった。そしてようやく彼の作品に巡り会うことになった。この「白火」は初期代表作であったが詳細は不明である。今から6年前、土方明司氏から芥川氏の個展を是非見に行くように勧められた。芥川氏は桜木町の個展会場に悠然と座っておられた。そして1時間の懇談となった。四谷の話、絵画論、佐藤一英(義父)など・・・そして「白火」の話になった。この作品は自画像であること。執着した時間が長く、多くの絵画的実験が塗り込められていること。売れたことに驚いたこと。中心となっている人物の四方の空間、特に人物の後方の窓から見える雲が、実は人物の前に描いたことを一流の画廊主が気づいてくれたこと。ジャコメッティーの絵画理論に近いこと。当時は生活が苦しかったこと。そしてこの自画像である「白火」が今まで行方不明だったこと・・・33年前に描いたこの作品を写真すらないにもかかわらず、眼前にあるかのように話をしてくれたのには感動したものだ。白火は画家にとってまさに時空を超えた若き画家自身であったのだから忘れるはずもないのだ。これで、ようやく自分なりに幻の3人展が出来る。

 

絵のある待合室72

 

 

田中繁吉 「裸婦」 20P 1930頃
 

I画廊を訪れた平成11年夏のことです。20号の素晴らしい「裸婦」が私の眼に飛び込んできました。作品から滲み出る柔らかい品のある心地よい香りは一瞬にして私を虜にしたほどです。I氏によれば作者は田中繁吉、帰朝後数年経った1930年頃の作品ではないかとのことでした。田中は大正10年に東美(藤島教室)を卒業していますが、田中を加えた7名(田中、伊原、前田、中野、千久馬、亜夫、田口)は世にいう「花の大正10年組」と云われているほど逸材が多く出ました。このメンバーの中でも田中の裸婦や婦人像は優作として教室に掲げられ、当時「威圧される」と居並ぶ同期生を唸らせたと云います。滞欧してキスリングの影響を受けますが、帰国後数年した裸婦は古典派期のピカソやドラン、安井を連想させるような太めのたっぷりした裸体です。  しかし、その画風は田中独自の日本的美意識に支えられたものと化しており、この時代を象徴する特色ある日本の裸婦画となっていると思われます。高島野十郎の発掘でも知られている福岡県美の西本氏は、「この時代の田中作品は研究するに値するだけの才能の煌きがあり、この作品も田中最上質の裸婦画である」との評価を頂いています。昭和10年以降から甘美なフォーブ調の裸婦・婦人像になって行く傾向が強くなりますが、帰朝してから数年間に描いた裸婦はまさに田中にとって晴天の霹靂であったといえるでしょう。
 

 

絵のある待合室73


    林 倭衛 「 巴里城壁」8号 1922~1923

伊藤順一氏旧蔵の作品で、著書「昭和遠望」に掲載されている作品でもある。林 倭衛の評伝は小崎軍司氏のものが定本となっており、林の娘さんは文壇バーで有名は「風紋」の聖子ママである。絵好きは皆、林の作品に心惹かれるものだ。特に滞欧作はその貴重さもあって巡り合いを待ち望んでいる。この作品との出会いは今から15年くらい前になる。G社でこの作品の写真を見せてもらい感動したが高価なため諦めた。そして15年後に再会となった。今度は頑張って我が物にした。波乱万丈な人生を歩んだ林だが、この時期の作品は密度があり精神的にも充実している。この作品も彼の代表作となる資格は十分にあろう。

絵のある待合室74


 北村四海 「子供と蛙」 大正期 大理石

北村四海には珍しい作品である。おそらく依頼されてつくったものだろう。来歴は不明だが良家の応接間の片隅を飾っていたことだろう。

    

 

絵のある待合室75


   青山熊治 「着物婦人像」 8号 1925~1929 

この作品は1971年の青山熊治展(元町画廊)と1972年の没後40年記念展(兵庫県立近代)に出品されている。

青山熊治には識者のコアなファンが多い。「老坑夫」「アイヌ」「金仏」など圧倒的な画力で20代前半には画家としての地位を築いてしまった。しかしロシア、ヨーロッパ放浪の旅に出てからの10年間(1913~1923)で、(伝説ともなっている極貧の中での絵画修業)画壇から消滅したに等しい受難の時代があった。帰国後、1911年以来15年ぶりに満を持して発表した「高原」が1926年に帝国美術院賞となり、奇跡の復活を成し遂げ、九州大学の壁画完成直前に急逝してしまった。1931年没、享年46歳。

 

 

絵のある待合室76


  笠置季男 「哺」 1951 30㎝

二科を代表する彫刻家、笠置の代表作である。10年以上前からこの作品を探していた。2011年2月にようやく見つかった。見ての通りその造形は優しく近代的である。笠置の中でも一番好きな作品だ。

 

絵のある待合室77


 吉田芳明 「鍾馗」 33㎝

吉田白嶺の実弟であるが、兄の白嶺よりも早く彫刻では名を成した名手である。

量感を出して面で彫る伝統的な彫技は見事である。隠れファンも多い作家でもある。

 

絵のある待合室78

湘南の四傑  森田 勝(1904~1944

「女と男」 滞欧作 SM 板油彩

世に言う湘南三傑とは萬、鳥海、原の3人だが、実は鳥海と原に大きな影響を与えた洋画家がいる。その人の名は森田勝である。森田勝は湘南洋画を語るには不可欠な存在であるにもかかわらず、眼に触れる作品は少ない(1932年のアトリエの焼失、41歳での夭折)

1922年藤沢中学に編入し、2年上の鳥海と同級の原とは兄弟のように親交がもたれた。翌年、20歳の時に原とともに萬に師事、1929年に渡仏し1935年まで滞欧した。その間、鳥海を呼び寄せアルジェ、スペインを旅行し鳥海の画風に強い影響を与えた。また、原は森田を実の兄のように慕っていたという。

1935年滞欧作で春陽会賞受賞し、同年9月資生堂画廊で滞欧作展開催。1937年昭和会奨励賞受賞したが、肺結核が進み、軽井沢に転地療養、1941年には鳥海夫人の末妹と結婚。19431時間だけ筆を持つことを許され制作を続け1944年永眠。

この作品は現存する貴重な滞欧作であり、よく似た婦人像が平塚市美術館に収蔵されている。森田勝研究の第一人者である元平塚美の森田氏も貴重な内容のある滞欧作の発見を喜んでくれた。今後、森田が忘却されないためにもこの作品は大切にしなければならない。

 

絵のある待合室79


 木内 克 「猫」 1965 テラコッタ 高さ45㎝

木内の猫、テラコッタである。木内の滞欧作1925(テラコッタ、一説には白色セメント)の裸婦を所蔵しており、今度は木内に切っても切り離せない猫、それもテラコッタとの出会いを待っていた。結婚18周年の夜、偶然に旧知の画廊で見てしまったのだ。妻に泣きつき入手となった。45cmの大きな猫である。木内は猫の姿態から裸婦を作ったという。ギャラリー無境の故塚田晴可氏曰く・・・「化粧土で仕上げたテラコッタの柔らかい肌。デフォルメされた背中に宿るしなやかな筋肉。ピンと立った耳は、どんな小さな物音さえ聞き逃さない。古代エジプトの猫を髣髴とさせる面差しも嬉しい・・・」。ファラオのように高貴で霊性宿る顔つきはこちらの背筋をシャンとさせる。

補足

1972.年木内克をテーマにした映画「土くれ」と「木内克とその作品」が完成、これが文部省芸術祭の記録映画部門で最優秀賞に選ばれた。そのDVDを購入し鑑賞したが、木内のテラコッタをひねり出す無言の映像が17分間続く。不思議なドキュメンタリーであった。木内テラコッタのファンにはお薦めである。

 

 

 

絵のある待合室80


                                                                        伝 長谷川利行 「秋」 20P
 
キャンバス裏には彩美堂のシール(シールは本物であると確認済み 70円也)が貼られている。「東京市下谷区上野谷中坂町二一」。これが彩美堂の住所である。上野桜木から根津へゆく坂道の大通りに店をかまえていた画材屋額縁屋で、上野での展覧会に応募出品する貧乏絵描きたちに額縁を貸して重宝がられていた。いつ頃からかしげしげとこの家に出入りするようになった利行がこの彩美堂をアトリエにして絵をかくようになったのを寺田政明は目撃しているし、この額縁屋をとおして自作の予約販売さえこころみている。また額縁を宣伝するための作品(額絵)も描いている。この作品も彩美堂額屋を通して予約販売した作品あるいは額絵ではないかと推測しているが、如何だろうか?追記:利行に詳しい研究者の話では、ゴッホ風の画力は素晴らしく、今後このような作品が利行研究の対象になってくるだろうとのこと。更なる研究と新発見資料に期待したい。