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絵のある待合室201~300

絵のある待合室201

中山 巍 「風景」 1940頃 10号

記念すべき中山巍作品の第1号である。今から15年くらい前に神保町の小野寺さんから購入した。一目ぼれであったのを憶えている。避暑地での母と子のひとコマである。妻(茂子夫人)と娘(玲子嬢)を見守るように立っているシュールな枯れ木は画家自身であろう。緑陰の奥に見える湖面の青と雲の白、そして光と影のハーモニーは見事である。中山戦中時代の名品と思っている。故梅野隆館長が絶賛してくれた思い出の作品でもある。

絵のある待合室202

中山 巍 「瀬戸内風景」 1958 10号

中山が病魔に襲われる直前まで描いていたと考えらる作品である。岡山出身の中山には瀬戸内は心休まる所であったろう。その後中山は不死鳥の如く復活し、新たなるステージへ進む事になる。

絵のある待合室203

中山 巍 「出土」 1930年後半 10号

中山研究の第1人者であるY氏によれば、「出土」シリーズの最初期の作品であると考えられている。スケールの大きいユニークな作風である。

絵のある待合室204

中山 巍 「砂丘」 1935 15号

この時代の中山の特徴が全て出ている代表的作風である。寝そべる人物と空の中山ブルーがシュールな別世界(砂丘)を印象づけている。

絵のある待合室205

中山 巍 「花」 1940年頃 10号

菊を油彩で描く日本人洋画家は多いが、菊をこのようにドラマチックに仕立てるのは素晴らしい。中山の独自性は、誤魔化しの効かないこのような平凡なモチーフで際立つかもしれない。

絵のある待合室206

宮本重良 「神農」 1953 24㎝ 共箱

院展の俊英である。忘却するには惜しい作家の1人である。神農は自らの体で毒と薬を識別し庶民に伝えたとされる古代中国伝説の王である。その自己犠牲と使命感は医師はもちろん為政者たちも見習うべきであろう。本来、政治家は庶民の手足であり庶民の下僕である。そんな政治家は尊敬され語り継がれる。

絵のある待合室207

中山 巍 「南方の人々」 1943 25号 第14回独立展出品作

私は中山巍が大好きです。この作品は1944年の第14回独立展に出品された「南方の人々」であると推測しています。従軍は命がけです。中山自身、この作品を描く前年の1943年に、風土病で高熱を出しボルネオの陸軍病院へ入院しています。一連の作品の中で中山の従軍画には一種の凄みがあります。特に人物表現が圧巻です。占領下の満州や南方の人々の声なき声(不安、怒り、絶望そして希望・・・)が心に迫って来ます。抑圧された戦時下での画家自身の心の在り様までもが作風の重さに感じられます。しかし、感傷的になることなく一歩引いたところから中山独自の得体の知れない数多くのメッセージが観る者を引き付けます。日焼けした南方の女性達(おそらく3世代の家族)、中央の女性の真直ぐな眼差し、表情のない老婆、背を向け呆然として宙を見上げる少女、色鮮やかな蜜柑と玉蜀黍が対照的です。「沈黙の画家」「ヒューマニズムの画家」としての異名を持つ中山が、この絵に塗り込めた思いは何か?鑑賞者は自分の考えを中山に伝えようという意識にかられます。大原美術館の柳沢秀行氏(中山研究の第一人者)も岡山県美時代に、中学生を対象に中山作品の寓意を読み解く鑑賞教育をしたことがあります。中山作品ほど、鑑賞教育に適している画家も少ないでしょう。文教大学准教授(当時)の三澤一美氏は美術鑑賞とは「私はこう思う」という自分探しであるとレクチャーしてくれました。今後の中山研究は日本フォービズムの重要な側面を占めています。滞欧期、戦前、従軍、戦後と歩んできた選ばれしフォーブの洋画家たちの作品を、時代別に展観できる企画があれば壮観でしょう。中山という支流が他の画家のそれと合流する時、中山絵画は異彩を放ち未来に別の姿で現われることでしょう。中山再評価の隠された鉱脈のひとつが、従軍画のそれらであることは間違いないと考えています。

最後に三澤氏の言葉・・・・

見るということは図画工作・美術の専売特許ではありません。理科でも観察があり、「見る力」はどの教科でも重要な学力の一つです。しかし、美術の「見る」は作品を通して人間の描く行為や作者の思いを想像し、思考を深めながら、作品に触発された自分自身を理解しようとする「見る」なのでしょうね。単なる観察ではないのです。その能力は、その子自身の生き方そのものを肯定する力となり、人生を力強く歩む力になっていくのでしょう。読み書き計算の基礎学力も重要です。しかしその一方で自分自身の感じ方や考え方を構築する学力にもしっかりと目を向けたいものですね。

絵のある待合室208

中山 巍 「窓」 1926 50号

この作品は長い間、公立美術館に寄託されていたものです。中山巍の滞欧作(1926年制作)の中でも代表作の1つであり、母子像としても古典の域に達している名品でしょう。中山を蒐集対象の柱とし、その周辺の作家の優品をコレクトしている私にとって、中山の滞欧作は現実に近い夢でした。代表的な滞欧作のほとんどが美術館に収蔵されているので、個人蔵の滞欧作をリストアップし購入できる可能性のある作品を調べていくと、この作品が浮かび上がってきました。勝負を賭けました。約1年の交渉期間を経て、わがモノになりました。50号という大作でありましたが、保存も抜群で大事にされていたことが伺われます。帰国後、1930年協会展に出品の折に若干の補筆がある程度で、オリジナルに近い状態でした。大きな木箱に厳重に梱包された作品がトラックから運び出される時の興奮は忘れることができません。この先、これほどの出来事はもうないかもしれません。お陰で愛車は20年目を迎えることになりました。

絵のある待合室209

中山 巍 「風景」 不詳 板4号

旧いのは画廊から購入した作品である。真っ黒な影が暑さを感じさせる。さすがである。夏の待合室に展示しており患者さんには好評である。

絵のある待合室210

中山 巍 「父と子 其の2」 1940 60F

開院当初から待合室に掛かっている大作である。長い間行方不明だったが、近年発見された中山巍の戦中時代の代表作でもある。「父と子其の1」は郷里の岡山県立美術館が所蔵している。日本の占領下にあった満州国の民衆の姿を自分の姿に投影して描いた反戦画の名作である。籠の鳥を見つめる父親と慰めるかのようにその肩に手置く少女、そして未来を象徴する裸児・・・籠の中の鳥は占領下で苦しむ民衆と中山自身であろう、この絵が発表されなかった理由が分かったような気がする。岡山の名門に生まれ、キリスト教から仏教に改宗した経歴をもつ。無冠の帝王、沈黙の画家、そしてヒューマニズムの画家、慈悲の画家と変貌を遂げた日本フービィズムの立役者の苦心孤中の一枚。

絵のある待合室211

本荘 赳 「北宋磁州窯」 1956 8号

記念すべき本荘作品購入第1号である。神保町の小野寺氏に探してもらった。入手後、ご遺族のシールとコメントを頂いた。この磁州窯の壺は安田靫彦の葬儀委員長を務めた重田哲三氏(本荘の良き理解者でもあった)所有のものであるとされる。本荘は平塚市美術館創立時の最大の功労者の一人であり、同じ平塚出身の鳥海作品のコレクションを強く薦めたという。しかしである。この作品をみてほしい。鳥海もいいがそれをも超える画格は一目瞭然である。安田靫彦が惚れ込んだ本荘は他の洋画家と違う画境にいるのだ。「油彩で日本画を描く稀有の画家」と評した靫彦が言わんとした意味は、日本人の精神で洋画を描くと本荘のようになると言う事だと思う。靫彦曰く、「本荘君がいるから私は洋画を描かなくてもよくなった」と目を細めたという。病床には本荘の静物画が最後まで置いてあったという。一流は一流を知るのだ。

絵のある待合室212

本荘 赳 「白馬」 1957 10号

本荘の動物画は極めて少ないがそのほとんどが名品揃いだ。前出の「山羊小屋」30Mを蔵しているが、2点目の出会いであった。今度は牛をゲットしたい。

絵のある待合室213

本荘 赳 「双子嶽の冬」 1954 8号

箱根の芦ノ湖ではお馴染に風景である。芦ノ湖に行かれた時にはこの絵を思い出して頂けたら幸いである。

絵のある待合室214

本荘 赳 「伊豆の秋」 不詳 3号

伊豆は関東の田舎と呼ばれ、箱根とともに皆から愛されている。伊豆に行った人ならこの絵の感じは分かって頂けるだろうか。小品だが幽玄普遍の風景画が広がっている。

絵のある待合室215

本荘 赳 「津久井湖」 1960年代 10号 コンテデッサン

本荘の素描はひとつの独立した作品である。平塚市美術館での本荘素描展は圧巻であった。市場にはまず出てこないので、見る機会はほとんどないであろう。でも油彩とともに是非見た頂きたいものである。

絵のある待合室216

本荘 赳 「ひなげし」 1957 6号

磁州窯の壺に「ひなげし」が盛ってある。美しい。

絵のある待合室217

本荘 赳 「泰山木の花」 1976 6号

泰山木の花は好んで本荘が描いたモチーフである。故梅野館長(東御市梅野記念絵画館)も名品を所蔵していいる。、花言葉を調べてみると、「壮麗」「威厳」「高貴」「崇高」「自然 の愛情」とある。本荘赳という人物そのものである。

絵のある待合室218

本荘 赳 「葉牡丹」 1961 8号

本荘植物画の名品である。公園や学校のグランドの片隅にひっそり植えてある葉牡丹をまるで大木のように威風堂々と、そして冬日の柔らかな日差しをこれほどまでに詩的に描ける画家がどれほどいるだろうか。本荘の目は並ではない。

絵のある待合室219

伊藤悌三 「老人像」 1938 10号

私の好きなモチーフは人物である。特に老人像には目がない。しかし、心打つ作品に出会う機会は稀である。厚木には忘れてはならない伊藤悌三と言う物故作家がいると旧知の額屋が教えてくれた。そのアトリエには戦前の作品、特に人物の代表作が残っていると言う。さっそくアトリエを訪問(2002年4月)し、無理を言って遺族から譲って頂いた代表作の1つである。モデルは画伯お気に入りの 豪徳寺の焼鳥屋の親爺である。絵が甘くなるのが嫌で老人像を描き続けていた時代の数少ない作品でもある。戦後は「裸婦の伊藤」の異名を持つほど、洗練された素直で自然体の美しい裸婦を描いたが、私は戦前の老人像が伊藤画伯の本領であると思っている。東美時代に帝展に入選し、文展受賞後日展、光風会と活躍したが、戦後は無所属となり個展主義の孤高を貫いた老画家の回顧展を夢見ている。

絵のある待合室220

伊藤悌三 「臥位裸婦」 1955頃 6号

伊藤悌三の壮年期の裸婦像である。よく知られている晩年の明るく柔らかな裸婦とは一線を画す。黒バックの裸婦はやはりイイ。

絵のある待合室221

峰村リツ子 「静物」 1928 10号 太平洋画会出品作

現存最初期の貴重な出品作である。尾崎眞人氏(元平塚市美、現京都市美)にも見て頂いた事を思い出す。峰村20歳の作品であり、女性の描いた絵には見えない。当時の峰村の男勝りの生命力を感じるさせる。小泉清や洲之内徹との交友関係はよく知られている。戦前の女流画家としての役割も大きい。個性的な魅力ある画家である。

絵のある待合室222

鶴田吾郎 「ラトビア風景 リガ市」 1930 8号

この絵を入手したのが今から6年前くらいであろうか。京都の星野画廊が所蔵する鶴田吾郎の名品「フィンランドの娘」1930を見て以来、この時代の滞欧作を探していた時に出会った作品である。キャンバス裏には訪れた北欧の地図が描かれており、この作品も「フィンランド娘」と同じ時期に描かれた会心作のひとつだろう。青木茂著「旧書案内」第28話の中にこういう件を発見した・・・鶴田吾郎の自署」「素描の旅」の中で1930年の素朴で優雅なラトビアのリガでの1ヶ月が記されている・・・と。木漏れ日の午後、ひとりの老人が正面を向いて立っている平凡な風景。しかし絵になるのは老人だからであろう。

絵のある待合室223

川口軌外 「果物」 1934 4号板

暗いバックに津波を連想させる筆致の白絵具、しかしその中央では色とりどりの果物たちが桶の中で何するものぞと、肩寄せ合ってデンと踏ん張っている。初期の軌外の色彩は宝石のように美しい。希望の光が消えないうちに一刻も早く復興を!

絵のある待合室224

星野鐡之 「静物」 1970 6号

横浜洋画の王道を行く作家の1人である。四谷十三雄、芥川麟太郎との3人組みはよく知られている。四谷は25歳で早世したため3人展は幻になったが、私は自宅で密かに3人展を開催しているのである。このビンとクルミの静物は四谷が好んで描いたビンの静物を彷彿させる。味わい深い作品である。

絵のある待合室225

中野桂樹 「帰牛」 1949 18x34x11㎝

明治26年1月27日青森県西津軽郡に生れた。本名健作。少年時代から弘前の彫刻家、早坂寿雲に木彫の手ほどきをうけ、大正7年上京して太平洋画会研究所に入り藤井浩祐に塑造を学び、また東京美術学校彫刻別科の朝倉文夫教授の教室に籍をおき彫塑修業の本格的基礎を沢田晴広らとともに研修し、同10年卒業した。大正7年第12回文展に初入選してより、文・帝展に入選すること12回、その間、昭和4年第10回帝展「慈眼」、第11回帝展「瑞應」、第12回帝展「浄薫」で連続3回特選をかち得、昭和6年以来無鑑査となり、大正12年東台彫塑展には東日大毎賞をうけ、戦後の日展では、出品作「鹿」(昭和24年)が政府買上げとなり、同29年審査員をつとめるなど、終始官展系の木彫耆宿作家として重きをなした。一方、東京美術学校卒業後、内藤伸に師事した縁で昭和6年日本木彫会の創立に参劃して以来同36年2月同会解散に至るまでその中核的存在として活躍し、伝統木彫の新解釈による雅致に富んだ独自の作品を生んだ。この作品は昭和24年に政府買上げとなった「鹿」と同じ年に彫られた「牛」である。それぞれの足から伝わる重力が筋肉、骨、腱に至るまで見事に表現されている。牛が身近であった時代であればこそ彫れた作品だろう。小品だがレベルは高い。

絵のある待合室226

226 上村松園  「享保美人夕暮の図」 紙本部分 下絵  明治41年

227  鈴木松年  「李白観瀑図」 絹本部分 明治44年

画家の色恋はコレクターにとっても興味深いものであるが、その主人公はいつも男である。特に明治時代ともなれば女性画家の存在は稀有であり、ましてやである。松園が一子、松篁を生んだのは明治35年27歳の時である。父親は鈴木松年、当時日本画壇の指導的立場にあり、豪放磊落で包容力があり聖俗併せ持った人物であったようだ。松園が若くして独自の美人画を確立し、高い評価を受けることができたのは、「師に入って師を捨てよ」との松年の言葉が心の支えとなり、師の松年も男尊女卑の封建的な画壇で、松園の実力を世に送り出すために助言し応援したと言われる。その過程においていろいろとあったにはせよ、二人のロマンスが美術史に残る出来事として語り継がれる事になった大きな理由は、女性である松園が主人公であるからだ。下絵ではあるが若き松園の浮世絵美人画と松年の李白大幅(227)を並べてみた。眼を細め瀑布を観上げる李白は、稀代の弟子松園を思い浮かべる松年の自画像にも見え、享保美人もまた初恋の人でもあり師匠でもあった松年に微笑みかけているように見える。「過去のことは水に流して・・」との思いが男の私にそう思わせているのかもしれない。226は平成17年・18年に平塚市美術館「七夕展」に出品されている平塚に相応しい作品でもある。

絵のある待合室227

226をご参照下さい。

絵のある待合室228

国方林三 「童女」 大正期 23㎝

ギャラリー内田から購入した国方の佳品である。今となってはこの時期の作品はほとんど見なくなった。

絵のある待合室229

堀 進二 「足を拭く女」 1918 30㎝ 共箱

青年期の堀の作品には芯の通った造形とフレッシュな煌きがあって好ましい。大正期の作品は見なくなった。

絵のある待合室230

山本豊市 「聴」 43㎝ 共箱

日本人唯一のマイヨールの直弟子である。派手さはないが、滋味のある裸婦像には定評がある。ほっとする裸婦のブロンズ作品は意外に少ないものだ。

絵のある待合室231

鬼頭甕二郎1899~1954 「早春小景」 1933 4号板

名古屋市生まれの洋画家。本名亀次郎。上京して本郷絵画研究所(1912年発足)で岡田三郎助に師事するかたわら、日本美術院洋画研究所(1914年発足)に学ぶ。《暮る々山》で第二回日本美術院展(1915年)に入選。第五回展(1918年)に《裾野》《河口湖》が入選し、院友に推挙される。第六回展(1919年)でも《志摩風景》2点が入選したが、第七回展(1920年)を最後に洋画部が解消したため、第八回二科展(1921年)に出品し入選した。1923年から1928年までフランスに滞在、サロン・ドートンヌなどに出品している。帰国後は院展洋画部同人が脱会後設立した春陽会に所属したが、1934年退会、以後は無所属で新文展などに出品している。甕二郎の院展および二科への初入選は、小出楢重のそれと時期を同じくしている。郷土作家では、院展で大沢鉦一郎、二科で横井礼市(礼以)がいる。それぞれの作風、歩み、評価の違いに思いを馳せるとなかなか興味深い。甕二郎は、フランス時代にセザンヌの影響を受けたことが良く知られている。当館の所蔵作品もセザンヌ風の田園風景を描いたものである。帰国後は日本画のような風景画や静物画を描くようになっている。院展洋画部は、洋画と日本画を区別しない新しい絵画を指向しており、その流れを汲む春陽会もまた、日本あるいは東洋の精神を反映する洋画を志す画家たちが集まっていた。日本で最も早くセザンヌを紹介した森田恒友が、院展洋画部の同人であったことも見逃せない。甕二郎は、先の大戦で手元に残していた作品を家もろともに焼失した。 戦前の作品で現在も所在が明らかなものはほとんどない。視野に滞仏時代の作品とそれに前後する作品がともに入れば、日本人が描く油絵を地道に希求した画家の姿と目指すものが見えてくることだろう。この作品は同年春陽会展に出品した「国府海浜」の別バージョンと思われる。戦前の貴重な作品である。

絵のある待合室232

上山二郎 「緑陰裸婦」 絵皿 神戸画廊の共箱

明治28年東京生まれ。大正3年川端画学校に入学し藤島武二に師事。日本創作版画協会展に出品入選。同11年ー13年渡仏。吉原治良らと親交同20年八王子で歿、享年50歳、平成6年「知られざる画家上山二郎とその周辺: 1920年代パリの日本人画家たち」 芦屋市立美術博物館で開催。知られざる画家の代名詞ともなった画家である。彼の滞欧作は美しい。幻であるが入手したいものである。

絵のある待合室233

鈴木保徳 「果物」 1932 色紙

この時代の鈴木の特徴がよく出ている。自信漲る勢いある気持ちのイイ作品である。プラムとクルミだろうか?

絵のある待合室234

阿部金剛 「海浜裸婦」 1930年頃  26x23cm 水彩 紙

「コレクション・日本シュールレアリスム 10 復刻 阿部金剛・イリュージョンの歩行者」にも同じシリーズの海浜裸婦の水彩が代表作として白黒で資料掲載されている。ただし現存しているかどうかは不明であるので、本作品が現存確認されている唯一の水彩作品である可能彩が高い。そういう意味でこの作品は貴重であり資料的価値もあると考えられる。

絵のある待合室235

木村荘八 「新宿遠望A」 1958 6号板 絶筆 日光市小杉放菴美術館寄託

荘八が亡くなる年に描いた「新宿遠望」シリーズの最高峰である。全集にも掲載され、展覧会には必ず出品されて来た。自宅の2階に体を縛り付け遠くに見える新宿風景を描いたという。この作品は2004年3 月13日(土)放映された 美の巨人たち 東京ノスタルジア 木村荘八ああ” 新宿駅”・・・の中でも紹介された荘八最晩年の代表作である。早熟の万能の鬼才の本性は油絵描きであったのだ。2013年の東京駅ステーションギャラリーでのリニューアルオープン展に生誕120年木村荘八展が開催される。この作品にも出品依頼があった。さあ20年ぶりの出番だ。

絵のある待合室236

ジェレニフスキー 「婦人像」 1925  40×24㎝ 水彩デッサン

大正~昭和初期に二科展で活躍したポーランド生まれの放浪画家である。大正7年に来日し上野に居を構え石井柏亭らと交友した。翌年、ヨーロッパに戻ったが、作品を柏亭のもとに送り二科展に出品し続けた。昭和5年にはザッキンと共に二科会員に推挙されたが、同年ナポリで没した。享年42歳。昭和6年第18回二科展に遺作が出品された。この作家を知る人は少ないが、以前尊敬する星野画廊の星野桂三氏が図録で紹介してくれている。

絵のある待合室237

河合新蔵 「湖畔」 明治末頃 25号 油彩

水彩画の隠れた巨匠の知られざる大型油彩名品である。新発見である。知る人ぞ知る作品であり、現在公立美術館に寄託している。こ朝靄の空気感と湿気感は、一流の水彩画家が得意とするところだ。油彩でも描けるところが日本人離れしている。古き時代のイイ作品である。

絵のある待合室238

清水多嘉示 「果物篭の女」 1924  15号 サロン・ドートンヌ出品・入選作

日本を代表する彫刻家であるが、その画才はそれに匹敵している。彼が渡欧しブルデル作品との出会いをきっかけに画家から彫刻家に転向したことに対して、彼の並外れた画才を愛した仲間たちが落胆したという。柳亮曰く「ブルデル彫刻の理想の凱歌とともに、ブルデル門下有数の駿足として自他ともに許される輝かしい地位を築き上げた清水の立場や名声を思えば、彼が昔のような情熱を絵画にそそがないからといって責めるわけにはいかないが、そのために彼の絵画上の稀に見る才能までが眠らさせたままでいるのはいかにも残念だ・・・帰朝後は彫刻への重心がかかり、絵画からは遠ざかってしまったことで絵画の領域で清水がかつてフランスで見せた抜群の技量が、日本では周知される手だてを失ったまま今日に至っている・・・師ブルデルが彫刻と絵画両建てを実行したように、清水を絵画彫刻の両建ての世界に呼び戻してくれたらと私はいつもそんな希念を心の底にもしづづけているのである」。この作品は柳が滞欧作の中でも代表作と位置付けた名品のひとつである。初めて見てから10年、ようやく入手出来た感慨深い作品である。私にとって清水作品は彫刻でも絵画でも滞欧期のものが一番だと思っている。「作家は20代で決まる。あとはバリエーションが増えるだけ」の格言は無視できない。

絵のある待合室239

土方久功 「小品 男の首」 1964 13㎝ 俳優座20周年記念

神田神保町の早池峰堂で購入した土方のブロンズである。土方の小品はウイットに富んでいて飽きない。机の脇の小棚に置いて楽しんでいる。

絵のある待合室240

木内五郎 「牛」 不詳 40x20x13㎝

木内五郎は、明治31年東京向島に、木内半古の五男として生れた。祖父喜八は名人とうたわれた木工家で、特に木象嵌の技に秀れ、東京国立博物館所蔵の「円柏波千鳥蛇籠象嵌大火鉢」など多くの名作を残した。父半古は家業を承け、祖父同様木象嵌をもって一家をなした。明治37年より正倉院御物整理掛に出仕、御物の修理を手がけ細密な木画技術を能くするに至った。15最年長の次兄省古は祖父や父に木工を学び、父に随って正倉院御物整理に従事、以後天平の技法の復元を志した。その作品は、国内は言うに及ばず、海外にも高い評価を得、晩年は日本工芸会の理事として斯界に貢献した。長兄辰三郎は早稲田大学を卒業し外交官になったが、早稲田で会津八一と同級であった。明治37年ごろ、辰三郎の紹介で、八一は初めて向島梵雲庵に淡島寒月を訪れている。この頃から、八一と木内家との間には長く親交が、結ばれた。こうした環境にあって、五郎は早くから彫刻に興味を示し天賦の才を顕わした。明治45年早稲田中学へ進み、英語教師として教鞭を執っていた会津八一の教えを受ける。大正7年東京美術学校彫刻科へ入学、建畠大夢に師事し、本格的に彫刻の道を歩み始める。12年3月同校を卒業。当時、卒業制作の中から各科1,2名ずつ成績優秀な作品が買い上げられたが、五郎の卒業制作「若き女」も後進の模範とするべく母校に残された。

昭和7年1月、結婚を間近に控えた五郎のために、会津八一が発起人となって作品頒布会が催されたが、この時八一自らが筆を揮った「木内五郎君作品頒布会趣旨」が残されている。この書帖は、昭和56年に東洋美術陳列室の行った「會津八一博士生誕百年記念展示」に出陳されたこともあり、少年の頃からその成長を見守ってきた五郎への、八一の心情を窺うことができる。やや長くなるが、以下その全文を引く。

木内五郎君作品頒布会趣旨

名人喜八の翁の孫、半古翁の子なる木内五郎君は幼少より彫刻に本然の技能を示されしが、後東京美術学校に入り建畠大夢教授の指導を受くるに及び天賦の材いよいよ光趣を生じ、大正十二年のその卒業制作は永く同校に留めて学生の模楷とせらるゝに至れり。爾来毎年欠くことなく帝展に出陳を許されつゝあるは人の知るところなり。君資性温厚、父兄に仕えて孝悌、朋友に交りて忠信、平素黙々として芸術の研究に心を潜めて余念あるところなく、これ同人のひとしく推服するところなれば、其作品がつねに典雅浄潔を以て評壇に歓迎せられつゝあるも亦た所以あるといふへし。君また先年支那に游び東洋美術の精粋を観て帰へり、その作るところ別に一種の妙趣を出し来り。同人甚だ其将来に嘱目しつゝありしに、たまたま君は新たに好配を得て新家庭を営まんとせらる。同人乃ち君に勧めて作るところの品を頒たしめ、其生計の安定を授けて天賦の行くところを縦にせしめんとせり。大方博雅希くはこれを賛けたまはんことを。
昭和七年一月卅一日

以下、発起人として、会津八一、坪内逍遙、正木直彦、市島春城、平沼淑郎、建畠大夢、高田早苗、高村光雲等13名、賛助員として、北村西望、板谷波山、内藤伸、岡村千曳当12名が名を列ねている。
昭和18年、五郎は45歳で応召しハルマヘラ島へ出征した。21年後に復員後、22年度、23年度とつづけて文展委員をつとめ、23年からは日本学園中学・高校に教鞭を執る傍ら、肖像作品の他、戦前から手掛けていた能を題材とする木彫を多数制作した。母校芸大には「翁」の像1点が蔵せられている。昭和29年に病を得、享年56歳。

絵のある待合室241

青山熊治 「男性像」 1903 素描 10号

このデッサンは青山熊治が高木背水の画生となり、肖像画制作の助手をつとめていた頃の作品(皇紀2563年 1903年10号)であり、貴重な青年期の遺品でもある。翌年の1904年には東京美術学校に入学している。17歳にしてこの完成度と凄みは流石だ。熊治のやる気がムンムン伝わってくるこのデッサンは見ていて気持ちがいい。
塑像の男性は明治天皇か高杉晋作と思っているが如何だろうか?分かる方がいれば教えて下さい。

絵のある待合室242

二見利節 「不詳」 1960年代 6号 パステル

二見ワールドである。クレーの影響下で制作されたもであろう。当時、二見はモンドリアン、クレー、ピカソ、ブラックを研究し独自の絵画を模索していた。小品であるがどれも芳しい匂いがする。額は八咫屋である。

絵のある待合室243

二見利節 「顔」 1960年代 6号 パステル 八咫屋額

二見利節(本名 利次)は、二宮出身の異才の洋画家。
利節は、明治44(1911)年10月29日、中郡吾妻村(現在の二宮町)山西の二見家に、7人兄弟の次男として生まれました。15歳で日本橋の洋紙の卸問屋に就職しましたが、絵やピアノに夢中になり仕事に支障が出たことで辞めさせられてしまいます。その後、図案家の弟子をしたり、銀座で似顔絵描きや、看板描きの手伝いをしたりしながら独学で絵を描き、銀座千疋屋で働いているときに沢崎節子(さわざき ときこ)と知り合います。
昭和6(1931)年、二宮に戻った利節は、生活費を稼ぐため弟清と額縁づくりやウサギの飼育をして金を工面し生活していました。この頃から小田原在住の画家井上三綱(いのうえ さんこう)に指導を仰ぎ、油絵の制作を続けました。昭和7(1932)年、恋人節子が病死し悲嘆にくれ、「節子」の一字を取り、「利節(としとき)」と名乗るようになります。昭和8(1933)年、春陽会展に初入選した「温かい部屋」が画家二見利節の出発点と言えます。その後、東京と二宮を行き来し制作活動を続け、昭和14(1939)年には、代表作となる「三人の女」を完成し、新文展(現在の日展)や春陽会展などに出展を続け、「T子」、「横たわる女」が文展で連続特選となりました。
昭和16(1941)年、古い画友である赤井芳枝と結婚し、二宮に新居を構えました。
戦後、戦地から戻った利節は、昭和23(1948)年に国画会に入り、鳥海青児(ちょうかい せいじ)らと親交を持ちました。昭和31(1956)年、炬燵からの出火で二宮のアトリエを全焼し、作品の大半を焼失してしまいます。
昭和34(1959)年、制作に没頭するため協議離婚、精力的に制作を続けましたが「自分の絵はまだ完成していない」「一度描いた絵はもう二度と描けないのだ」と絵を売らなかったため苦しい生活でした。
昭和40年代になって、日動画廊の援助により、ヨーロッパ、ギリシャ、トルコ、エジプトを巡り、昭和47(1972)年からは、同画廊で個展を開催するようになりました。昭和51(1976)年3月27日、小田原市立病院で65歳の生涯を閉じました。

絵のある待合室244

今西中通 「ミルクを飲む子供 中雄像」 1943 10号 久仁子夫人シール 遺作展出品作

完全に埋没していた今西中通を世に浮上させ再評価させたのが故梅野隆氏である。その後多くの人たちがその背中を追った。数少ない今西の優品はコレクターの垂涎の的となった。以下梅野氏の文章を参考にされたし。

梅野コレクションの眼 その3 今西中通

今西中通作品との出会いと、その作品の蒐集は今から37年前のことであり、往事茫々の感がする。本郷団子坂の森古物店でサイン無しの風景画に出会ったことにより今西中通の作品であると知り、再婚先の妻藤本久仁子さんを探し訪ね、約3年かけて油彩、水彩、素描類百十点を蒐集することができたのである。
 その後、羽黒洞(木村東介氏)により顕彰が行われた結果、今西の評価が確定し、現在も近代美術史上確固たる位置を占めている。今西作品の値が高くなるにつれ、私は彼の作品を処分して菅野圭介、伊藤久三郎等の蒐集にうつつをぬかすこととなり、今はわずか50点余の小品を所有するにすぎない。
 今西の描いた片々たるデッサン、水彩の中に香り立つ”芸術に対する熱き想い”は、近代洋画家中類例のない魅力を放っていると私は思っている。

梅野記念絵画館 館長 梅野 隆

絵のある待合室245

河井清一 「花」 1928 1月 12号

これぞ光風会の格調高き画風である。白百合が美しい。今はこのような静物画は見なくなった。恩師生誕の日に描かれた作品でもあり、1999年の開業以来クリニックの入り口に掛けている。人生の師を持てる事ほど幸せなことはない。健康長寿を心よりお祈り申しげます。

絵のある待合室246

古茂田守介 「裸婦」 素描 6号大

1918(大正7年)、愛媛県道後村(現松山市)に生まれた古茂田守介は、東京で画家を志していた兄・公雄の影響で19歳の時に上京、猪熊弦一郎にその才能を認められ、猪熊や脇田和に師事しました。その後、大蔵省に勤務しつつ絵画の研鐟をつんでいた守介は、絵画を通じて知り合った三歳年下の涌井美津子と1944(昭和19)年に結婚。「一家に二人の絵描きはいらない」として美津子は絵の道を断念しました。1946(昭和21)年、美津子のすすめで守介は大蔵省を退職し画家に専念。やがて1950年代になると、抽象絵画への関心が高まり、多くの画家たちが新しい試みに着手しますが、その中でも守介は人体や静物、風景などに独自の静謐で堅固な具象表現を追い求め続け、新制作協会展や個展を通じて、その独自の油彩作品の世界は高く評価されるようになりました。しかし、30代半ばからの守介は生来の喘息に加え結核にも罹り、健康に不安をかかえアトリエにベッドを持ち込んでの制作を強いられるようになり、1960(昭和35)年、42歳の若さで惜しまれつつ亡くなりました。
患者さんに古茂田守介のご親戚がおられ大変喜んで頂いた。作品は人を呼ぶのだ。

絵のある待合室247

河井清一 「ジャワ風景」1917 4号板

1891年奈良県に生まれる。1979年横浜で没する。父親の転勤にしたがって大阪で小学校を卒業する。1904年頃家族で徳島に移り住み1909年旧制徳島中学校(現県立城南高校)を卒業する。1912年東京美術学校西洋画科に入学し、在学中の1914年に第8回文展に入選し、卒業後は文展、帝展、新文展、日展、光風会展などに出品して受賞を重ねる。戦後は日展審査員、評議員、参与、光風会監事などの要職を歴任する。1922年には徳島在住の洋画家たちと、徳島洋画研究団を結成している。この作品は東美嘱託で仏教美術調査時のものである。忘却されているが実力のある良質の作家である。

絵のある待合室248

わたなべゆう № 025  1999 5号 油彩・砂・布・紙

上野の森美術館大賞後、安井賞受賞他、受賞歴多数。20年近く河口湖畔にて画業を積まれ、近年では文化庁に作品を買い上げとなり東京近代美術館、上野の森美術館、山梨県立美術館にも所蔵されている。小品ではあるが時間をかけて丁寧にしっかり描きこんだ作品には古格が備わっている。古美術品と並べても位負けしない現代絵画はそう多くない。開業当時、鎌倉のギャラリーで衝動買いした思い出の作品である。

絵のある待合室249

ブールデル 「イサドラ ダンカン」 1912 素描ペン ブールデル美術館旧蔵

1972~1973年に開催された「巨匠ブールデルの全貌展」出品作である。伝説のダンサーである彼女をブールデルはよく素描したという。今となっては貴重な作品である。私は彫刻家の素描が好きだ。

絵のある待合室250

遠山 清 「涼しき土手より」 大正末頃 4号板

初期光風会の特徴がよく出ている作品である。平塚にはまだこれに近い風景が残っている。

絵のある待合室251

砂澤ビッキ 「樹鰈」 55㎝  私の愛する1点展出品作

ビッキ文様が怪しく暗闇で光っている。海底に潜むのは樹鰈である。

絵のある待合室252

二重作龍夫 「ベニス風景」 1973 8号

二重作のベニスは別格である。小品であるが懐の大きい画風は流石である。

絵のある待合室253

作者不詳 「女の首」 41㎝

鳳堂というサインが刻銘されている。しっかりした作品で彫刻専門の学芸員も関心を寄せてくれたが作者不詳のままである。分かる方教えて下さい。

絵のある待合室254

中山 巍 「山村風景」 1951 6号

在野で初の芸術院賞受賞の年の作品である。研究者の話では中山の別荘のあった蓼科風景であるとされている。

絵のある待合室255

林 重義 「ばら」 1926 4号

林重義の初期作品である。当時から凄みと深みがある。林の自画像のようだ。

絵のある待合室256

矢崎虎夫 「三人の修道女」 1964 24㎝ パリ個展出品作

ザッキン時代の代表作である。群像彫刻の記念碑的作品でもある。

絵のある待合室257

芥川麟太郎 「卓上の静物の包み」 1973 20号 油彩

 横浜在住の洋画家である芥川麟太郎氏と出合いは2年前の晩秋でした。土方さんの強い勧めで個展に赴き1時間の懇談となりました。私の所蔵する「白火」20F 1973が自画像であり特別な作品であること、四谷十三雄兄のこと、貧乏だった時のこと、空間のこと、佐藤一英のこと、ジャコメッティーのことなど初対面にもかかわらず泰然と優しく聞かせて下さいました。この作品も若き時代の名古屋での個展出品作であったのです。「二つの相克の関係」・・・卓上は天を司り、風呂敷に包む箱の形状が闇を穿つ・・・自己投影の縮図であるとのコメントを手紙で頂きました。まさに哲学する絵なのです。そんな芥川氏の古い友人である画家に河野扶氏がいます。河野氏が芥川氏の個展に寄せて書いた「芥川さんと私」にこうあります・・・芥川さんは私の年下の友人であると同時に私の惚れ込んでいる画家の一人です。存在の本質に迫る、その飽くない実在感の追及には凄みを感じます。どちらかと言えば暗い、プルシャンブルーを主調したフォーブがかった作品を目にした瞬間、画廊の床に立ち尽くしてしまいました。「ひょっとしてこの絵の作者は数少ない本物の一人ではなかろうか」・・・世に言う具象絵画の多くがモチーフの単なる表面描写が、みてくれだけの綺麗ごとに終わっているなかで、芥川さんの仕事は今後ますます貴重な存在として真価を発揮することは間違いない・・・
 芥川氏のこの作品から単なる存在を超えた自身の実在の意義を考える年齢に達している自分を発見できたことは価値的であったと感謝している。皆様はこの作品から何を哲学するであろうか。

絵のある待合室258

和田金剛 「晩秋」 1962 44㎝

澤田政廣の愛弟子のひとり。第5回日展審査員就任記念の優品である。ざっくりしたノミ跡と青白の彩色が清々しい。

絵のある待合室259

望月省三 「静物」 大正15年 絹本彩色8号大

1891年、安蘇郡赤見町(現佐野市赤見町)に、赤見小学校の教員であった父、望月夏之助と、赤見の旧家の娘であった母との間に次男として生まれた。父の夏之助は、もと松江藩士の子として生まれたが、明治維新によって上京し、教員となって赤見小学校に赴任してきたのである。省三は赤見小学校に学んだが、1901年、尋常4年生の時、父の足尾小学校転任により赤見の地を離れた。その後画家の道を目指して上京し、日本水彩画家会の創設に参画。水彩画家として、日展無審査の地位にまでになる。太平洋戦争中は家族と共に故郷の赤見町に疎開したが、1950年に再び上京し、1954年に63歳で永眠する。大正期の作品は貴重である。

絵のある待合室260

ロダン 「ビクトル・ユゴーの顔」  ブロンズ

北関東の美術館旧蔵とされる。ユゴーは好きなので書斎に置いている。白樺派が大正時代に同じブロンズをいくつか鋳造しているとのことである。この顔はデッサン用の石膏でも有名な作品であるので見たことがある人も多いと思う。

絵のある待合室261

國方林三   仮題 「うずくまる裸婦」 58㎝ ブロンズ 大正末~昭和初期

國方林三の初見の裸婦作品である。作品の出来と大きさからして出品作ではないだろうか。調査中である。日露戦争前後は彫刻家とは言わずに原型師と言っていた時期であり、國方(天海)の名は天下一の原型師として全国に名を馳せていた。富山県立工芸学校、太平洋美術と学び明治40年東京勧業博覧会で2等を皮切りに以後文展には連続入選を続け地位を築いた。品位ある作品は今もその輝きは失っていない。池田勇八、建畠大夢、北村西望の4人で結成した八手会は記憶しておきたい。東京美術学校を出ていない官展作家にはまだまだ多くの力ある彫刻家が埋没しているに違いない。

絵のある待合室262

吉田白嶺 「翡翠」 24x14㎝ 昭和16年春 共箱

独壇場と云われていた白嶺の鳥彫刻である。亡くなる前年の作品だが素晴らしい。この年に開催された大阪・広島での個展出品作と思われる。白嶺の翡翠は有名であるが、現存作品は少ない。

絵のある待合室263

ジョセフ・ベルナール 「女のトルソ」 1909 27㎝ 清水多嘉示箱書き レゾネ掲載

近代彫塑 「西洋と日本」展  国立近代美術館(京橋) 1953年6月27日- 1953年8月23日出品作

今から15年くらい前に入手したベルナールである。来歴もしっかりしており美術館からの貸借状も残っている。芦屋の旧家の所蔵といわれている。ロダンの高弟として有名だが、日本ではあまり馴染がない作家である。愛知県美の長谷川三郎館長にいろいろとご教示して頂いた思い出の作品でもある。

絵のある待合室264

堀 進二 「中村彜会記念メダル」 1974

中村彜はコレクターの永遠の憧れである。その周辺作家も魅力的だ。晩年、親友のひとりである堀進二が中村彜の会の記念メダルとしてつくったものである。今となっては貴重だ。

絵のある待合室265

山本正道 「坐る」 23㎝ 1982年  平塚市美術館ロビー展出品作

山本 正道[やまもと まさみち/1941-]
東京芸術大学彫刻科を卒業。第5回平櫛田中賞、第9回中原悌二郎賞優秀賞などを受賞した作家で、主に塑造により、独自の風景彫刻も手がける。
神奈川では山本正道は横浜山下公園の「赤い靴」でお馴染の作家である。

絵のある待合室266

タイ彫刻 「狩猟図」 チーク材 レリーフ 70x125cm 大阪万博(1970)タイ館使用作品

今やチーク材は希少木材の仲間入りとのことである。このチーク材に彫られたレリーフも今となっては貴重であろう。
これが大阪万博のタイ館の一部に使用されていたとの事。現在、その展示風景写真を探しています。お分かりの方はご一報下されば幸いです。

絵のある待合室267

稲垣考二 「ブリキ缶」 20号 1982年 水彩デッサン 紅霜展出品作と同サイズの水彩デッサン

私の気になっている作家である。売り絵は描かない骨太の画家である。時代が評価するのを待ちたい。

絵のある待合室268

藤井浩佑 「浴女」 36㎝ 不詳 共箱

彫塑家、日本芸術院会員藤井浩佑は7月15日午前5時40分急性スイ臓炎のため熱海市の自宅で逝去した。享年75歳。本名は浩佑(ひろすけ)。明治15年11月29日東京神田に生れ、父祐敬は九条家出入りの唐木細工師であつた。はじめ不同舎へ通い、満谷国四郎に師事してデッサンを学び、第四中学を経て明治40年東京美術学校彫刻本科を卒業した。同年第1回文展に「狩」を出品して以来、第9回文展にいたるまで出品をつづけた。その間第4回文展出品の「髪洗」は褒状を受けて出世作となり、コンスタンタン・ムニエの影響の濃い「トロを待つ坑婦」(第8回文展3等賞)など初期の代表作がある。大正5年9月日本美術院同人に推薦された。昭和11年日本美術院を退き、同年帝国美術院会員、翌年帝国芸術院会員となり、その後官展に作品を発表し、戦後も日展に参加し、斯界の長老として重きをなした。日展では同展運営会理事、逝去後の秋開かれる新日展では顧問ということになつていた。没後勲三等に叙せられ瑞宝章を贈られた。「梳髪」や「浴女」など、日本風裸女の普遍的な姿態を、情趣深く表現するのに長じた独特な作風を示した。作品には諸展覧会発表作の他、彼としてはめずらしいものに、孫娘を妻としたのが縁で作つたアンパンの元祖、木村安兵衛夫婦の座像(鋳鍋・大正7年11月除幕、東京浅草田中町東禅寺境内)がある。

絵のある待合室269

長谷川栄作 「日本武尊」 48㎝ 不詳

戦中時代、国威発揚のために造られたものであろう。資料的にも興味深い。

絵のある待合室270

松原松造 「鍾馗」 33㎝ 1934 共箱

松原松造. 1903-2001. 東京生まれ。1922年から藤井浩佑に師事する。1923年から太平洋画会研究所彫塑部に入. り、 院展に参加、1936年に同人となる。1959年に燦々会を結成するが、その後脱会して太. 平洋研究所に入る。『 松原松造作品集2004。平櫛田中の周辺作家として知っていたが、その作品は図録でわずかに見るしかなかった。この作品からして院展の良き時代に育った私好みの作風であり安心している。彼の院展時代の優品に出会うことを願っている。

絵のある待合室271

清水敦次郎 仮題 「髑髏に手を組む自画像」 1919 30号 平塚市美術館寄託

記念すべきコレクション第1号である。平成6年、横浜元町の古美術店で初めて見た時は「東洋のヒポクラテス像」を彷彿するその風貌と大正洋画の独特の迫力に度肝を抜かれた。この絵は店内でなく奥の部屋に額なしで掛けられていた。店主に尋ねると・・・「非売品である。この絵が店に来てから商売が繁盛している。仙台の代々続く病院から譲っていただいた。作者は不明」とのこと。仮に値段をつけるとするといくらかと尋ねると店主は「500万」とニヤッと笑った。全く売る気はないようだった。それから足かけ3年間の商談の末、竹内栖鳳の掛軸、富岡鉄斎の掛軸、吉田屋再興古九谷六角鉢の3点と交換するに至ったのである。作者不詳のこの奇妙な絵にこれほどまでに執着した理由は今もわからない。しかしこの作品のお蔭で、幸運にも梅野隆氏、岩本昭氏らと面識が得られその後多くのコレクターや美術館関係者、研究者に知遇を得る事が出来た。 作者不詳という作品と向き合うという作業を通して絵の本質を見抜く審美眼が鍛えられたと思っている。この作品はその審美眼を鍛える良きお手本となったわけだ。見ず知らずの素人に錚々たる美術館館長(山梨氏、富山氏、浅野氏など)がこの絵に興味を持たれ、懇切丁寧に助言をして下さった。本当に嬉しかった。平成13年:私の愛する1点展(東御市立梅野記念絵画館)に出品、平成20年:河野通勢展(平塚市美術館)に参考作品として出品、そして土方氏のご厚意で平成20年5月号芸術新潮「この絵を描いた人を知りませんか?」に特集され、この作者が判明した。その名は清水敦次郎(新潟出身)である。私が初めに推測し遺族とも連絡をとった洋画家であった。日動画廊の長谷川仁氏からの信頼も厚い「日本のコロー」と呼ばれた人物で、御岳山に籠って絵を描く仙人画家の異名を持つ風変りな反骨画家である。その若書きであったので遺族も断定が困難であったのだ。しかもサインが草土社風(岸田劉生風)の飾り文字であり、専門家でもその解読の意見が分かれたのであった。様々な過程を得て、同時期のよく似た清水作品が某大企業から知人の画廊に引き取られ、著名な修復家がその絵を預かったことから、本作品が清水であることが確定したのである。襟付きの修道服はキリスト教、書籍の開かれたページは二河白道の場面で仏教、後方のカーテンはアラベスク模様でイスラム教、そして髑髏と老人はメメント・モリである。なんとスケールの大きな示唆に富んだ作品である事か。中世ヨーロッパでは死を身近に感じる職業の人たちが好んで所蔵した絵(バニタス画)であり、私に縁があったのも頷ける。みなさんはこの絵をどのように読み解くだろうか?

絵のある待合室272

真垣武勝 「伊豆大瀬風景」 4号 板 油彩

真垣は高知出身の洋画家であるが、地元では平塚銘柄として知られている。それは大正10年に平塚の海軍火薬廠に就職し、平塚周辺の風景を描き、鳥海と交友し、湘南美術会の創立メンバーとなったからだ。昭和4年に国画会初入選したのち、以後国画会に出品。梅原の指導を受ける。東京に転居してからは武者小路実篤と新しき村運動を進めた。アトリエの火災、家族の病気に耐え常に明るい色彩で暖かな風景画を描き続けた。昭和58年自宅で没した。この作品は貴重な初期作品と考えられ、佳品である。

絵のある待合室273

伊藤久三郎 「オカリナ」 20F 1930 1930年協会第5回展出品作

この作品を見て驚かれた方は紛れもないQファンである。H堂の2012年12月号に掲載されていたので覚えている方もおられるだろう。1930年協会展第5回展出品作であり、シュールの香りがするQ24歳の代表作である。なぜ3か月も売れ残ったのであろうか?普通ならありえない話である。1978年の京都市美での回顧展と1980年のQ画集には出品・掲載されていないが、1995年のO美術館での回顧展に初出品された。図録にも掲載されたがトリミングされた不完全な画像であった。今回、コレクターが手放しH堂が買い取ったとのこと。本当に幸運であった。今までQ作品との巡り合いを重ねて来たが欲しい作品はすでに人の手に渡っていた。今回は美神が微笑んだようだ。Qの凄さは私よりも故梅野隆氏やQの著作もある吉野氏、そして目利きのコレクターとして知られている大竹氏の方が詳しい。彼らのQコレクションは系統的で圧巻である。私もようやくその入り口に立ったが、この先に進めるかかどうかは甚だ怪しい・・・?

絵のある待合室274

熊岡美彦 「腰かけたる裸女」 30号 1925年12月  第3回槐樹社出品作(1926)

2013年10月26日~12月1日 茨城県つくば美術館 「ようこそ白牙会展へ」出品

新発見である。1976年に茨城県立美術博物館で開催された「熊岡美彦回顧展」にも展示され、№21に掲載されている熊岡、滞欧前の代表作のひとつである。現存している熊岡の大正期作品は非常に貴重である。図録の中で中村伝三郎氏は、不当に低評価を受けている戦前の官展作家たちに再評価の機会を与えるべく忠告している。当にその通りである。その代表が熊岡美彦である。数々の受賞と栄誉(特選、帝国美術院賞)を若くして獲得し、既に大家となった37歳で渡欧し3年間の武者修業後、熊岡道場で800人を超える若手を指導し、昭和19年56歳の若さで急逝してしまった。絵好きには一定の高い評価があるものの世間では忘れられている感がある。近い将来、熊岡の回顧展を是非開催してほしいと願っている。人を魅了するその画格は現代も十分通用する力があるのだから。

追記
つくば美術館から本作品の出品依頼があった。茨城の近代洋画の源泉に肉薄する展覧会であるという。素晴らしい企画である。埋もれた作家とその作品が再び日の目を見る事はいつもながら嬉しい。担当学芸員の吉田さん、本当にありがとう!

絵のある待合室275

二重作龍夫 「ブルドックの自画像」 1955年 30号 画集掲載№21

義父の古い友人であり、私の好きな画家である。この作品は自画像として知られている2作品のうちの1つである。奇しくも前出の「絵のある待合室275」熊岡美彦は二重作の師であり、18歳から6年間の内弟子生活は、彼にとって絵画の基礎を作り、人生への頑張りを骨身まで打ち込んでくれた。画集の説明にはこうある・・・「ビキニの死の灰の時に生まれた”愛犬ビキニ”を共にして描いた自画像である」と・・・この時39歳。世界の二重作となる14年前である。

絵のある待合室276

鈴木秀昭 「たつまき」 1990 高さ36cm 第3回日本現代陶彫展入選作

平成7年4月~平成8年3月までの1年間、私は修善寺の病院に出向(伊豆日赤)した。宿舎の前はアユの友釣りで有名な狩野川があり、車で数分のところには修善寺温泉があった。ご承知の通り芸術家はもちろん文人墨客ゆかりの名旅館が立ち並ぶ。ちょっと足を延ばせば浄蓮の滝や天城日活でゴルフが出来た。今思えば夢のような1年間であった。でもしっかり働いた。さて、この作品と出会ったのは浄蓮の滝の近くにある陶器ギャラリーであった。丁度、野茂英雄が大リーグで大活躍し、トルネード大旋風を起こしていた時だった。後に伊豆にある鈴木さんのアトリエにもお邪魔した。今では日本のみならず世界的にも活躍している異才として知られるまでになった。この作品は若き鈴木さんの実験的な作品であろう。他にも初期代表作を2点持っている。私にとっては第2の故郷、修善寺を思い出す不思議なオブジェである。

絵のある待合室277

中山 巍 「卓上の花」 1954 40号 第22回独立展出品作 (お詫び:刷り込みあり)

シュールの匂いがプンプンするこの時期の代表作である。開業以来、婦人科の待合室に掛け続けている。患者さんにも評判のイイ作品である。

絵のある待合室278

藤井令太郎 「ばら」 不詳 3号

長い間トイレに掛けさせて頂いている。少し贅沢かも。藤井先生お許しください。

絵のある待合室279

梥本一洋 「蘇州阿児」 不詳 紙本彩色 34×13㎝ 京都文化博物館(2001)出品作

元日展運営会参事、同審査員、本名謹之助、明治26年京都に生れ、京都美術工芸学校、京都絵画専門学校を卒業、山元春挙の師事。春挙没後は同門の川村曼舟に師事、早苗会で活躍。又後京都絵画専門学校教授となり、活躍した。王朝の物語絵や歴史風俗画を得意とした。昭和になると端正で清澄な画風を展開した。享年58歳。
この作品は次女の幼少期に似ているので購入した記憶がある。ぷくぷくでカワイイ。

絵のある待合室280

木下 晋 「孤高の人」 1990 122x82cm ケント紙 鉛筆

木下さんとは平塚市美術館の学芸員室で2度ほどお会いした。2012年4月の展覧会の際は奥様とご一緒で来館され土方明司さんと4人で1時間ほど懇談させて頂いた。聖俗併せ持つ不思議な人である。20年以上前から洲之内徹の「気まぐれ美術館」で既知の作家であったが、作品との出会いはなかった。私は老人像が好きである。現在まで4点(清水敦次郎、原田直次郎、中山巍、伊藤悌三)の優品を蒐集してきたが、今回は久々の5点目に出会った。それが木下晋の「孤高の人」である。彼の絵に対する持論や評論家、学芸員の小論文は数多く出ているので割愛するが、日本のみならず世界が注目する鉛筆画家の1人だ。このホームレスの老人がアイヌの古老、ロシアの文豪、歴戦の老将軍にさえ見えてくる。男は生物学的にはできそこないである。貧しく老いて行けばなお更であるが、それでも男は男である。木下さんは自分より闇の深い人物しかモデルにしないという。その中から光が見えるまで描きこむ行為は、まるで修行僧のようだ。今日も数珠の代わりに10H~10Bの鉛筆を連ねて無言で祈り込む。

絵のある待合室281

吉田白嶺 「若衆」 大正4年 52㎝ 共箱

近代日本彫刻の研究者によると白嶺の若衆は大正15年が最初とされていた。大正15年12月号雑誌「アトリエ」には、孚水書房から「若衆」の注文頒布会の広告が掲載されている。価格は尺~尺二寸200円、尺二寸~尺五寸までが350円となっている。当時としてはかなりの高額である。口條には「木彫家の吉田白嶺先生に御頼みして、江戸時代に現れし風俗人物を主とした木彫に先生独特の淡彩をほどこして浮世絵に趣味をもたるる方々に御頒しする会を企てました。規定は別條の通り御入会を御お願いいたします」・・・とある。しかしこの作品の発見で白嶺の代表的モチーフのひとつである若衆は大正4年に制作されていたことが判明したことになる。新事実である。既に第4室で公開している「髭」大正4年第二回再興院展出品作と同じ作風であるこの若衆もいずれ世に出る事になるだろう。

絵のある待合室282

作者不詳 「男のl首」 高さ37㎝

作者不詳だが優品である。モデルは頭部の骨格から日本人の可能性が高く、日本人が多く使う櫛つきのヘラ跡が多くみられるので作家も日本人であると推測される。彫刻に詳しい学芸員や友人たちはロダンの影響を分かりやすく受けた留学経験のある日本人作家と考えており、高田博厚が候補に上がったが違うようだ。もちろんロダン作品のコピーでもない。私の第一印象は舟越保武であるが・・・お分かりの方がおられれば是非ご教示頂きたい。

絵のある待合室283

水野徳二 「女の首」 40㎝ テラコッタ

水野徳二(1915~1960) 富山出身  北村四海、北村正信、堀義三、吉田久継に師事

刻サインは草書体であり解読に難渋したが「徳二」であると分かった。私の最も信頼する若き学芸員S氏に泣きついたところ、「水野徳二」の名が出てきた。わずかな手がかりを頼りに水野徳二作品を展示したことのある美術館が富山にあることが分かり、早速問い合わせたところ作風、サイン、印章からこの作家の作品であることが判明した。水野徳二は作品に対して大変厳しい見解をもっており、本当に自分の作品を認めてくれた人にしか作品を渡さなかったという。しかも44歳で夭折し、テラコッタなどの柔らかい素材を多く使用したことから現存している作品はほとんどない。この作品が出て来たこと自体、奇跡的なことであろう。師であった北村四海、北村正信の作品を有している私にとって、作品が作品を呼んだと確信している。四海の「イブ」と正信の「若い女」と共に、この徳二の「女の首」も私の書斎に展示してある。きっと夜な夜なと3人で彫刻談義でもしていることだろう。

絵のある待合室284

「時計のある静物」 1942 25号 キャンバス 油彩 国画会展国画会賞受賞作 画集№8掲載

二重作のアトリエから戦前~戦後にかけての作品が多数市場に出てきた。その中に画集掲載作品が2点含まれており、運よく2点とも入手できた!「ブルドックのいる自画像」と「時計のある静物」である。 この作品には作家自身がコメントを書いている・・・「当初は時計のかわりに古土瓶を置いたが構図の上から時計にした。古土瓶の形はいくら塗ってもうっすらと残っている」・・・26歳のこの年、北支へ従軍、高松宮殿下従行し満州に渡り入隊、終戦後ソ連シベリア抑留農作業に従事し、1945年冬ライチハに送られる。この作品は彼の遺作になっていたかもしれない若き日の代表作でもある。戦中時代の若き画家が描いた絵には「生命とは何か、物質とは何か、宇宙とは何か」という人類の3命題が無意識の中に厳然と感じられる。塗っても塗っても消えない古土瓶の白い陰影が意味深でもある。これで二重作の1940年代1950年代1960年代1970年代の代表作が揃った。

絵のある待合室285

石川寒厳 「尋水望山図」  絹本彩色 

今回、ようやく寒厳の佳品を入手できた。南画の革命児と呼ばれ、志半ばで夭折した彼の生き様とそこから生み出される作風は超然としていて気持ちがいい。
本名寅寿。1911(M44)上京し、太平洋画会研究所に学び、印象主義の洗礼を受ける。また佐竹永邸について南画を学んだ。 翌年肺炎にかかり帰郷。郷里で療養ののち大田原中学校で代用教員を務める傍ら那須雲照寺の釈戒光について参禅、 道師より寒巌の道号を与えられ、以後画号にもこれを用いた。 ’20(T9)再上京し、小室翠雲(22-1-2-7)に師事、’22第二回日本南画院展に「夕」が入選、好評を得る。 翌年の第三回展に出品した「煙雨、晩清」で同人に推挙され、さらに革新第三回日本画会展覧会に出品した「麓」が一等賞となる。 以来日本南画院を舞台に活躍した。
 ’29(S4)小堀輌音(7-2-7-1)、小杉放菴、松本姿水ら栃木県出身の在京日本画家有志によって華厳社を組織、 東京と宇都宮で隔年に展覧会を開いた。 また小杉放菴の提唱で始まった公田連太郎、山中蘭径、鹿島龍蔵、木村荘八、岡本一平(16-1-17-3)、 森田恒友(13-1-37-2)らの中国思想研究会一老荘会」にも参加する。模倣に陥っていた南画界にあって、郷里の風景や、武蔵野の面影を残す東京近郊の風景を描くという写実による南画を実践し、 新南画の領袖として、また異端の南画家として、日本南画院のみならず、帝展出品作家にまで影響を与えた。 ’35(S10)帝国美術院いわゆる帝展の改組にともなって、二回の無鑑査となった。 後年は、琳派などの装飾性も吸収してその調和を図ろうとしたが、盲腸炎再発のため急逝する。

絵のある待合室286

広島晃甫 「秋郊放牧」 絹本彩色 大正期

1889年徳島県に生まれる。1951年没する。本名は新太郎。1907年香川県立工芸学校を卒業する。1909年白馬会洋画研究所に入る。また万鉄五郎らとアブサント会をおこす。1912年東京美術学校日本画科を卒業する。1916年長谷川潔、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成。この頃は、ルドン、ムンクなどの神秘的な夢の世界にひかれていた。1919年の第1回帝展に、日本画の〈青衣の女〉を出品し、特選を受ける。翌年の第2回帝展にも〈夕暮の春〉を出品し、再び特選を受け、一躍、人気作家となった。その後、帝展を中心に活躍しながら1929年にはローマ日本美術展に出品、30年には聖徳記念絵画館の壁画を制作、また同年、日独美術展覧会委員としてドイツに渡る。1933年には朝鮮展審査員として朝鮮に渡る。帝展の審査員も歴任し、没後3年の1954年には、国立近代美術館の「四人の画家」展で遺作が陳列された。装飾性に富んだ、詩的で甘美な作風でよく知られている。晩年は茅ヶ崎に在住しており湘南ゆかりの忘却の異才である。現存している大正期の作品は少ないが、この時代の作品には独特の重量感と湿気感のある魅力的なものが多い。

絵のある待合室287

横井礼以 「風景」 1929年 8号  生誕125年横井礼以展出品作(2010年)

横井礼以は、1886年(明治19)愛知弥富町に生まれ、東京芸大に学びました。その後、フォーヴィスム(野獣派)やキュビスム(立体派)など海外の新しい美術動向に、東海地方出身者としてはいち早くとりくみ、中央画壇で「大正アヴァンギャルド」の代表的なひとりとして華々しく活躍しています。しかし、ほどなく眼病をわずらい、1927年(昭和2)41歳から2年間、知多半島の河和に転地療養。その間、自然に恵まれた同地でセザンヌの研究や、自然と一体化した日本的な心象性を追求する独自の制作に励み、大きな成果をなしとげました。この作品はこの時期(河知時代)に描かれた貴重な作品です。地元作家の発掘顕彰にご尽力されている名古屋画廊主の中山真一氏のご厚意で回顧展に出品させて頂きました、ありがとうございました。

絵のある待合室288

池田泰山 「窯変釉防疫図陶額」 昭和8年

本名を泰一という。父 ・ 鶴吉  母 ・ ゆく  の長男として明治24年に尾張知多郡草木村( 現 愛知県阿久比町 ) に生まれる。池田家は庄屋で製紙業等の事業を興すが、いずれも失敗する。当地は窯業生産地ではあるが、関連業種に関する背景はなく、単身明治42年に京都に出て陶業を志し京都市陶磁器試験場伝習生として入所し、陶磁器に関する基礎的な知識を得て44年に修了する。その後10年余りの間、国立大阪工業試験所窯業部技手として奉職、さらに陶磁器に関する研究を続ける時期、愛知県常滑の久田工場(久田吉之助氏)のもとで就業、テラコッタ類の製造技術を身に付ける時期、工場閉鎖のために再び京都へ戻り九条通り鴨川辺の窯を継承する時期、を経過する。大正6年東九条大石橋通り高瀬に泰山製陶所を設立する。その際、技術面で藤江永孝氏、経営面で梅原政次郎氏の指導、援助を受ける。製作品は日用工芸品で花瓶・ 置物 ・ 陶額 ・ 盃 ・ 茶道具等を製造する。しかし、この間健康を崩し、大正10年頃より数年大珠院で静養生活をする。回復後、周囲の協力と時代の流れとによって建築用装飾品へと移行するが、特にデザイン・技術面で中沢岩太氏に指導を受ける。製作品としてタイル ・ 集成モザイク ・ 集成陶板 ・ テラコッタ ・ 陶彫品 ・ マントロピース ・ 噴水ー照明等を製造する。主な作品としては、昭和の初年より10年までの間、宮内庁のご用命により秩父の宮邸を始め、各宮家の邸宅並びに東京軍人会館のタイル、大阪綿業会館のタイル、大阪南海高島屋新館の集成モザイクタイル、東京帝大医学部新館陶彫パネル、東京帝大図書館陶彫パネル、下村正太郎氏邸(大丸ビィラ)、神戸女学院のタイル、東京帝室博物館本焼平瓦並びに各種鬼瓦、終戦前満州国並びに満鉄の建物には満州国錦県、牡丹江ツーリストビューローにタイルを移出、京都での内容として、先斗町歌舞練場、京都市美術館のタイル、本願寺錦華寮陶彫品がある。一方、この間に各種展覧会、博覧会〈昭和工芸協会展〉〈京都美術工芸展〉〈時習園展 〉 〈 商工省展 〉 に出品し入選 ・ 受賞、さらに泰山会を設け頒布展を開催する。又、陶磁器業界間の交流にも貢献、京都陶磁器青年会設立に参加、さらに京都陶磁器工業組合会員で総代兼部長を務める。昭和14年に泰山製陶所を株式組織にする。昭和17年に2代目社長池田侊佑入社する。同年に下関関門トンネル開通記念の集成モザイクと陶彫品の製作をして後は21年頃までは建築関連の仕事はなく、その間は金属代用品(把手、ぎぼし、下水道用防臭面 ) 電磁気製品 ( 耐熱版、硝子 )、軍需用製品 (耐酸磁器、ロケット用吸収筒磁器 )等の製造工場さらに以降は日用工芸品として磁器小花瓶( 進駐軍用品向 ) 酒瓶( サントリー寿屋 ・ キュラソー )わずかの日用工芸品として陶額等を製造する。復興のきざしとして昭和23年になって、国鉄岐阜駅構内壁面に集成モザイク壁画、大阪近鉄百貨店内外装タイルを製造する。同年頃から病に侵され昭和25年3月に死去する。

絵のある待合室289

冨長朝堂 「鰯」 通称「鍋干さずの鰯」 14㎝ 昭和21年頃

明治30年、福岡市下赤間町(現冷泉町)に生まれる。高村光雲の高弟山崎朝雲に師事。大正13年の「雪山の女」帝展初入選。昭和7・8年の「五比売命」「踊女」帝展連続特選。代表作「谷風」(昭和13年)により日本木彫界に確固たる地位を築く。昭和19年、太宰府市観世音寺の地にアトリエを構え、自由な創作活動を展開。昭和50年、西日本文化賞受賞。昭和51年、第1回福岡市文化賞受賞。昭和60年死去。享年90歳。優れた彫技と高い精神性には定評があり、「木の中に棲むような彫刻家」といわれた。戦後間もなくのころ、糊口を凌ぐため本物そっくりに彫った鰯の木彫である。当時3000円で売れたと図録資料には書いてある伝説の作品群のひとつ。

絵のある待合室290

高橋鳳雲 たかはし-ほううん

1810-1858 江戸時代後期の仏師。
文化7年生まれ。高橋宝山の弟。7代幸慶の門にはいり,また宮彫り師長板伊之助に師事。江戸蔵前の札差伊勢屋嘉右衛門の依頼により,釈迦三尊,五百羅漢など仏像700体をつくり,鎌倉建長寺におさめた。安政5年9月13日死去。49歳。江戸出身。通称は清次郎。

光雲の師である東雲の師である。光雲作品は高価で手が出ないが、東雲と鳳雲作品は入手できている。近代木彫の源泉に当たる仏師であると考えている。この坐像は小品(高さ10㎝)ではあるが資料性もあり貴重であろう。


<牙彫りを排し木彫りに固執したはなし> 高村光雲

「いやしくも仏師たるものが、自作を持って道具屋の店に売りに行く位なら、焼き芋でも焼いていろ、団子でもこねていろ」これは 高橋鳳雲が時々私の師匠東雲にいって聞かせた言葉だそうであります。私もまた、東雲師から鳳雲はこういって我々を ( いまし ) められた、といってその話を聞かされたものであります。それで、私の ( あたま ) にも、この言葉が残っている。いい草は下品であっても志はまことに高い、潔い。我々仏師の道を伝うるものこの意気がまるでなくなってはならない。心すべきは今である……とこう私も考えている。それが私のおかしな意地であったが、とにかく、象牙彫りをやって、それを 風呂敷 ( ふろしき ) に包んで牙商の店頭へ売りに行くなぞは身を ( ) られても ( いや ) なことであった。が、さればといって木彫りの注文はさらになく、注文がないといって坐って待ってもいられない。かくてはたちまち 糊口 ( ここう ) に窮し、その日の 生計 ( くらし ) も立っては行かぬ。サテ、困ったものだと、私も途方にくれました。 しかし、いかに困ればといって、素志を翻すわけには行かぬ。そこで私は思案を決め、「よし、俺は木で彫るものなら何んでも彫ろう。そして 先方 ( むこう ) から頼んで来たものなら何でも彫ろう」ということにしました。で、木なら何んでも彫るとなると、相当注文はある。注文によってはこれも何んでも彫る。どんなつまらないものでも彫る。そこで、洋傘の ( ) を彫る。 張子 ( はりこ ) の型を彫る(これは 亀井戸 ( かめいど ) の天神などにある張子の虎などの型を頼みに来れば彫るのです)。その他いろいろのものを注文に応じて彫りましたが、その代り今年七十一(大正十一年十二月)になりますが、ついに道具屋へ自作を持って売りに行くことはしないで終りました。

絵のある待合室291

長谷川栄作 「婦人胸像」 大正期 47㎝ 共箱

知人から「栄作の木彫婦人胸像が毎日オークションに出ていたよ」と聞き、気に掛けていた時にネットに出てきた。これも縁と少し頑張って落札した。再評価が必要な彫刻家は多いが、栄作はその最有力候補の1人であろう。日本彫刻会展に栄作作品2点を出品させて頂いたが、これで栄作作品は4点(木彫3点、ブロンズ1点)となった。Sさん栄作の展覧会よろしくお願いします。

絵のある待合室292

荒井貞雄 「石楠花浮彫飾板」 32x41x3㎝

名門アライ工芸の故荒井貞雄氏の作品である。農民美術は日本の伝統工芸美術の金字塔である。その伝統と作品は全国に根付いている。素晴らしいことである。農民美術作家は個々としてはあまり知られていないが、その精神と技術は尊敬に値する。荒井氏も農美に多大な貢献をされ、多くの後継者を育てられた。この作品は農美の創始者である山本鼎が提唱している「素朴、堅牢」を具現化している。

絵のある待合室293

武捨一久(1911~1974) 「信濃の子供」 57㎝ 展覧会出品作?

農民美術の中でも異彩を放つ作家である。中村直人、初代中村実に師事し、真田町傍陽で活躍した。この作品は台裏に墨で「信濃の子供」と書いてある。迷いのない大小さまざまな鑿跡は見ても触っても壮観である。直人の初期作を所蔵しているが、雰囲気が似ている。武捨の代表作としてもいいだろう。ご子息の亮一氏も農民美術作家として活躍していると言う。今度見て頂こう。

絵のある待合室294

農民美術 木片人形5点 13㎝~3.5㎝

絵のある待合室295

アイヌ人形  6㎝ 4㎝

絵のある待合室296

宇治茶摘み人形 6.5㎝

絵のある待合室297

佐藤朝山 「影」 大正13年 21X21㎝ 和紙木版

佐藤朝山の滞欧作で唯一現存が確認されている幻の作品である。新発見である。図録の年譜には、大正13年(1924):7月22日 日本美術院から呼ばれフランスから帰国する。フランスで制作した作品は何も持ち帰らず、「眼」「影」「憂」「エトラスカン婦人」「エジプト彫刻破片」などの木版画と素描などがあるだけである・・・・とある。如何にも朝山らしい。えびな書店のカタログに掲載されていた時には驚いた。朝山に詳しい藤井明氏に報告したところ喜んでくれた。今度は朝山の木彫作品と行きたいところだが、いろいろな意味で極めて困難だと思われる。でも可能性はゼロではない。

絵のある待合室298

大島哲以 「天使のロンド」 10号 1970

長女が哲以ファンであり、大学の課題レポートにも書いているくらいだ。今までに2点プレゼントして来た。哲以作品が市場に出ることは少ないが、その少ないチャンスの中から優品をゲットすることが楽しみでもある。コアな哲以ファンは確実に存在するので、このような代表作を入手できることは幸運であった。しかしながら彼の絵画哲学と色は魅力的だ。哲以ブルー、哲以グリーン、哲以レッド・・・・

絵のある待合室299

武井直也 「F先生像」 1918年(大正7年)石膏着彩 第5回院展初出品初入選作

武井直也のデビュー作である。東京美術学校在学中の作品であるが出来は見事である。石膏なのに、よくぞイイ状態で残っていたものだ。また1957年 東京国立近代美術館で開催された「4人の作家展 武井直也・三岸好太郎・小林徳三郎・平福百穂」にも出品されている。私が初めて買った彫刻ブロンズが武井直也であり、ようやくこれで4点目の蒐集となった。直也の作品はどれも私の壺にハマるのだ。ギャラリー川船さんありがとう。

絵のある待合室300

佐藤朝山 「すごも里鶴」 香合  10.5×4.6×4.3cm 清蔵時代

記念すべき300点目が長い間追い求めて来た佐藤朝山の作品となった。小平市田中彫刻美術館で開催された朝山展図録には「鶴の香合」が2点掲載されている。平櫛田中旧蔵(彩色あり)と長谷川コレクション(彩色なし)でいずれも朝山時代である。本作は清蔵時代であるが長谷川コレクションのものと瓜二つである。箱(二重箱)で「寿 すごも里鶴」とあり、像裏には折りたたんだ鶴の足が刻出され、その間に清蔵と刻銘してある。さっそく福島県美の増渕学芸員にお尋ねしたところ、以下のような回答があった・・・「清蔵」銘の巣籠り鶴の香合を以前にも見たことがあります。それは彩色で、同じ大きさでした。やはり「寿」「鶴 すごも里」と書かれた二重箱でした。戦中戦後は材料もなく助手もなく、あまり木彫は作れなかったようですが、ほそぼそと彫って世話になった人のお祝いごとに贈ったのかな、などと想像します・・・さすが増渕さんである。納得である。朝山の作品は極めて少ないが、更なる巡り会いに期待したい。