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絵のある待合室301~390

絵のある待合室301

志賀健蔵 「反世界Y-62」 1962年 100号 キャンバス油彩  シェル美術賞2等受賞作品

彼の名を知る方はほとんどいないだろう。1950年半ば~1960年半ばまで東京で大活躍した高知出身の前衛画家である。読売アンデパンダン展のスターと呼ばれた異才だ。瀧口、東野、針生の評論家御三家からも高い評価を受けていた。高知県立美術館がこの作品と対になるシェル出品作「反世界X-62」を所蔵している。1965年の東京ヒルトンホテルでの個展を画家としては最後と宣言している。そのような理由で彼の前衛絵画はほとんど残っていないようだ。この作品は全盛期の彼の代表作のひとつであることには間違いない。

絵のある待合室302

武井直也 「裸婦立像」 1925年頃  58㎝ 石膏

石膏の形で彼の作品が残っているいること自体、奇跡的なことだ。関係者が保管(忘却?)していたものであろう。滞欧期の武井作品は構築的でギリシア風だ。堂々としていていつ見ても格が高く気持ちがいい。これでようやく武井作品は5点になった。これからも出会いがあればゲットしていきたい。

絵のある待合室303

池田龍雄 ブラフマンシリーズ 不詳 1974 25号

1928年佐賀県生まれ。1948年多摩造形芸術専門学校(現多摩美術大学)入学。まもなく岡本太郎、花田清輝、安部公房らのアヴァンギャルド芸術運動に参加。以来、文学や映画など、多くのジャンルと深く交わりながら、一貫して美術の前衛として今日まで活動し続ける。戦後日本の前衛美術のリーダーの一人であり生き字引的存在である。この作品は紀伊国屋画廊での個展出品作と考えている。他を圧倒するグローバルな作域である。

絵のある待合室304

平馬立彦 不詳 1954 50号

1950年~1960年代の邦人前衛絵画の本格的な発掘研究が始まろうとしている。
志賀にしても平馬にしても完全に埋没しているが半世紀経った今でもその魅力は尽きない。

平馬は1950年代に主にニューヨークで活躍した戦後最初の邦人前衛画家である。非常に興味深いがほとんど知られていないのが現状である。

ここにブログにあった「平馬立彦の魅力」を掲載させて頂く。

抽象の花開いた50-60年代に活躍した画家ですが、美術業界では相場も全くない、制作点数もそう多くはないものの、作品は現代に通じる魅力があります。情報量も少ないので、今後どれだけ理解を深めることができるかは未知数ですが、まずはこんな画家がいたという記録があって、作品があるのだということから、まずはご紹介したいと思います。

【平馬立彦 略歴】
1922年 京城(現ソウル)に生まれる
     青山学院中等部、早稲田第二高等学校(現早稲田大学)卒業
1942年 東京美術学校(現東京藝術大学)油絵科入学
     戦時下海軍にて兵役につき、終戦後復学
1947年 同学科卒業
1948年‐1949年 学業の傍ら青山学院で教鞭をとる
1949年 同大学研究科終了後、渡米
1950年‐1951年 戦後初の絵の渡米留学生としてArt Institute of Chicagoに学ぶ
1951年‐1954年 ニューヨークに移住。
     奨学金を得て、The New School for Social Researchにて学ぶ
     絵画のほか美術史、文学、音楽を修業
1952年 奨学金を得てHans Hofman’s Schoolに学ぶ
1954年 レイシアム・ギャラリー(ハヴァナ)で個展開催
1955年‐1956年  The New School for Social Research でデッサン、油絵、構図を教える
     ペリド・ギャラリー(ニューヨーク)で個展開催
1956年‐1958年 アラバマ州率大学美術学部助教授としてデッサン、油絵を教える
1956年 アラバマ大学にて個展開催
1958年 渡仏し、パリにて制作開始
1959年 ファケッティ・ギャラリー(パリ)で個展開催
     その他グループ展に招待または参加
1960年 東南アジアを船で周りながら帰国
     東京画廊、文芸春秋画廊、大阪フォルム画廊で個展開催
1961年 再渡米し、ニューヨークに滞在して制作
1963年 日本橋画廊(ニューヨーク)にて個展開催
1964年 ヨーロッパを周り帰国
    帰国後は東京クラフトデザイン研究所の基礎造詣、デッサンの講師として後進育成
    スターダンサーズ・バレエ団など、バレエの衣装、舞台美術を手がける
1999年 享年77歳

【グループ展】
1951年 油彩 Oil Exhibition Momentum(シカゴ)
1952年 水彩 National Water Color Exhibition(ニューヨーク・メトロポリタン美術館)
1953年 木版 The Print Club(フィラデルフィア/褒状)
     National Annual Print & Water Color Exhibition(ペンシルバニア・アカデミー)
     Younger American Printmakers (ニューヨーク近代美術館)
1954年 木版 The Print Club(フィラデルフィア/褒状)
     Annual Print Exhibition(ブルックリン美術館)
     油彩 American Show(ブランデーズ大学/招待)
     National Annual Painting Exhibition(ペンシルバニア・アカデミー)
1955年 木版Annual Print Exhibition(ブルックリン美術館)
     油彩 Selection Show #1(ニューヨーク近代美術館)
1956年 油彩 Alabama State Fair(バーミンガム)
     Birmingham Festival of Arts
     Mississippi Art Association(ジャクソン)
     Mississippi Southern Jacksonville State Teachers College
     木版 The Print Club(フィラデルフィア)
1957年 油彩 Alabama State Fair(バーミンガム)
     Murray State College(ケンタッキー)
     水彩 Alabama Water Color Society(招待)
1958年 水彩 National Water Color Exhibition(ミシシッピ美術協会/2位受賞)
     油彩 South Eastern Art Conference Exhibition(招待)
    Option 58(リヨン、Grange ギャラリー)
    Le Soleil dans la Tete(パリ)
    Artistes Japonais a Paris(パリ、Musee Galliera)
1959年 油彩 Comparaisons (パリ近代美術館/招待)

【平馬立彦 遺作展】
2002年11月10日(日)~11月15日(金)
11:00~20:00(初日12:00 Open・最終日19:00 Close)
代官山ヒルサイドテラスE棟ロビー

※以下、遺作展カタログから

平馬君の抽象絵画の作品は、
日本ではアメリカのようには理解されにくいのではないかと懸念される。
第一、彼の作品には、日本流の力こぶが入っていないように見える。
薄塗りで、しなしなと柔軟で、一見頼りないみたいである。
が、その無類に柔軟なフォルムが、
日本の抽象作品には余り見られないような、のびのびした拡がりを示している。
そして紋切型でないリヅムがある。
デリケートだが神経質になっていない。それが美しい。
譬えていえば-激流のような、
あるいは深淵のようなフォルムではないが、
下流の浅瀬の拡がりのような親しみ深い明るい展望を感じさせるものだ。
平馬君の作品がアメリカで好感を持たれているのも理由のないことではない。
日本の鑑賞者が、その点を理解しないと、
平馬君の作品は徒らに軟弱なものに思われるかもしれない。
今泉篤男

それは豪華でもなく、脂肪過多でもなく、
巨人的でもなく、単調でもなく、形も持っていない。
それは激しくもなく、ばかばかしくもない。
それは二次元でもなく、三次元でもない。
それはエコール・パシフィックにも属していないし、
エコール・アトランティックにも属していない。
それはどの特定の地域にも属していず、あらゆる影響から脱れ出ている。
人々の目に匂い、エスプリに滲みとおる……
それが平馬立彦の絵画であり、彼の抽象芸術なのだ。
ジュリアン・アルヴェール


戦時下美校(現芸代)で学び、研究科を卒業した年に戦後初の画学留学生としてアメリカに渡り、主に海外で制作。独力で切り開いた。1964年に帰国後はキャンバスに向かう事はなく、教える事と舞台美術を多く手がける。
なぜ絵筆を置いてしまったのか知る由もない。晩年、「僕はずっと絵描きだったよ」と語る。 「古くなったあと、また新しさとして-または美の質の高さとして-もどれるものだけが、本当の美をもっていたのではないか」と書いている。アートインスティチュート オブ シカゴに学び、アラバマ大学で教鞭をとりながら制作に励み、ノグチ・イサム、ジャスパー・ジョーンズ等、新進の芸術家たちと交流を持つ。

絵のある待合室305

岸田陸象 「牛」 30x17x13㎝ 木彫

岸田陸象氏は、長野県に生まれ、1953年に院展初入選。その後、7年間連続院展入選。さらに東京都知事賞など数々の賞を受賞。38歳で日本美術院院友に推挙され、創造美術会彫刻部長、日本美術家連盟理事を歴任。
この作品は中村直人に師事していた頃のいわゆる農民美術時代のものだろうか。牛の木彫はいつ見てもいいものだ。

絵のある待合室306

合田小三郎 「少女」 不詳 ガラス絵 はがきサイズ

合田小三郎(1912~1983)の洋画家である。私にとっては未知の画家であるが、このガラス絵は中一の次女にそっくりなので入手した次第である。家族も驚いていた。本人の感想は・・・・?これで居間には全員の似顔絵が揃った。

絵のある待合室307

緑川俊一 「顔」 1987 47x67㎝  現代画廊個展出品作(1987)

言わずと知れた洲之内銘柄であり、一度見たら忘れない、コアなファンの多い実力個性派作家だ。2014年2月8日の雪の日に落札した。
新潟日報の河田拓氏は・・・「緑川俊一の線は不思議な線だ。それは何かを描写する画家の線でも、字を書く書家の線でもなく、それ自身の内部から突き上げる力で進み、曲がり、進む。初めて歩く子が歩くことの力、衝動だけで歩いていくみたいに。以前のシリーズではその線が「顔」になった。それはだから、描かれた顔ではなく、現れた顔であり、地上に突き上げた溶岩に開く目や鼻や口に人がぎくっとするように、緑川の絵は見る者をいつも新鮮に驚かせた」とあり、御子柴大三氏は・・・「何故に緑川俊一はひたすら「顔」 と「人間」を描き続けるのか。人間存在の不可解さ、そしてその不気味さとユーモア。緑川俊一が描く顔にはいつもそれを感じる。顔は一端解体し、混沌とした渦の中にエネルギーを秘め、再構築へと向かう。「人間とは」との問いが、彼を描くことへの飽くなき追求へと駆り立てている」とある。いずれも緑川の顔の魅力をどうにかして言葉しようと試みた優れた評論だ。皆様は緑川の顔をどう読み取るだろうか?

絵のある待合室308

堀内康司 「信州風景」 47x64㎝ 1955年 鉛筆・パステル・クレヨン 紙

2013年10月に待望の「堀内康司の遺したもの」が求龍堂から出版された。10年という短い鬼才堀内の画業の一端を世に知らしめる凄味のある画集である。芝野敬通氏の堀内に対する友情が関係者を動かした。土方氏の評論も素晴らしい。この作品は掲載№8「北アルプスの見える風景・・・芳川村小屋」1956のバージョンと思われる。絵の迫力はこちらの方が数段上だ。19歳20歳と国展新人賞を2年連続で取り福島繁太郎(フォルム画廊主)に師事。その後駒込に住むようになったのちもたびたび信州に帰り絵を描いたのは、癒しきれない喪失感や心の傷を絵に昇華するためであったという。堀内にとって「信州風景」は特別な絵だと言える。市場に出る事はほとんどない作家であるが、来年には東御市梅野記念絵画館で回顧展が開催される。見た人はみな「線が無数に刺してくる」感覚に震える事だろう。
追補:絵のある待合室140 堀内康司「魚」も参照して下さい。

絵のある待合室309

宮本重良 「河童」 1942 7.5x4x5cm 木彫彩色

個性的な院展作家の一人だが、作品はなかなかお目にかかれない。今回小品だが鶴の香合といっしょに入手できた。やはり個性的だ。以下参考までに略歴を記す。

明治28年7月17日東京日本橋区に生まれた。昭和44年死去享年74歳。本名、重次郎。同42年久松尋常高等小学校を卒業して家業の伊勢重牛肉店に従事していたが、大正4年美術を志し、太平洋画会研究所、日本美術院研究所に学び、傍ら石井鶴三に特に指導を受けた。第11回院展(大正13年)より重良と号して出品しはじめ、第17回院展(昭和5年)で「童女像」「男立像」によって日本美術院賞を受け、昭和11年日本美術院同人に推挙された。戦後34年には日本美術院評議員となり、まもなく36年2月彫塑部解散に伴って退会した。ところで、かねて同志相寄り研究所をもち、その発表展を4回ばかり行なってきたが、そのメンバーのうち6作家が、多摩丘陵にある読売ランドの聖地公園に仏教七宗派の祖師銅像の建立を担当し、(昭和39年11月15日完成除幕式挙行)、このうち重良は浄土宗祖「法然上人立像」を制作した。翌40年10月には、新宿京王百貨店で祖師像完成を機会の記念展、粲々会彫刻展(第5回)を行なった。以後この会の第8回展(昭和43年)まで、毎年参加、主として木彫作品の発表を続けた。翌年11月の第9回展には、「猿田彦神」「婦人像」「脚を拭く」「草平氏像」「うずめの命」「少女坐像」「小林氏像(絶作)」など同志会員らによって代表的遺作が陳列された。他に「風神二題」「首相鈴木貫太郎翁像」「葛野観音」、芭蕉研究に意を用いた関係で「芭蕉像(各種)」など主要作品が数えられる。

絵のある待合室310

宮本重良 「鶴の香合」 不詳 7x4x4㎝ 木彫着彩

鶴の香合は多くの木彫家が作っているが、この鶴はなんとも愛らしくとぼけている。江戸っ子の重良の人柄が出ている作品であろう。

絵のある待合室311

森大造 「旅(芭蕉)」 1958 39x45x13㎝  作品集掲載

4年前に「李白酔歩」 絵のある待合室30を入手して以来、森大造作品との出会いを待っていた。森大造(1900~1988)は昭和44年69歳の時に平塚に接している大磯に離れの工房である無耳庵を建て、都会の喧騒から遁れて作品を作っていたのだ。大磯の「大内館」、鰻の名店「國よし」、今はなくなったが平塚の「大海老」で舌鼓を打っていたとのことである。湘南ゆかりの木彫家でもあるのだ。戦中は九元社を組織した異端児でもあり、研究者が注目している。
滋賀の醒井に森大造記念館があるが、現在は埋没忘却されているのは残念だ。昭和52年発刊の「無耳庵作品集」には350名からなる所蔵者の一覧が巻末に掲載されている。多くの支援者がいたのは幸運であったが、代替わりしたのだろうか?図録掲載の代表作4点が神奈川、群馬、兵庫とバラバラに時を同じくして出て来たのだ。どうにかこうにか4点とも入手できたのも何かのご縁であろう。これで5点の蒐集となった。今後の顕彰のお手伝いが出来れば幸いである。大切にしていきたい。

森大造曰く・・・長い歴史の流れの中に、名を残した人は強い個性をもっている。それを強い鑿跡で表現したかった。

絵のある待合室312

森大造 「小鍛冶」 1950~1960頃  42x14x16㎝ 共箱 作品集掲載

森大造の能彫は優品が多い。その中でもこの作品は素晴らしいと思う。
森大造曰く・・・静と動の厳しい美の連動に惹かれて~~~木彫の最高のモチーフだと思う。

絵のある待合室313

森大造 「丑」 1973  42x25x15㎝  作品集掲載

森大造曰く・・・日本人の生活の中に今なお残る十二支の哀歓を毎年刻んで十二年。気持ちよく出来た年、難行した年、健康だった年、私の生活の記録となった。

絵のある待合室314

森大造 「萬古胸中」 1939 66x30x18㎝  共箱  作品集掲載

量感の中に動きのある優品である。明治生まれの木彫家に共通するのは、その基礎力の分厚さである。

1939(昭和14年)・・・第3回文展無鑑査出品。宝来大人像、 萬古胸中、先陣などを制作。第5回九元社展銀座資生堂ギャラリーで開く。

絵のある待合室315

井上三綱 「冬」 1930年頃 35×65㎝ キャンバス 油彩

旧知の画廊から譲ってもらった。この時期の三綱作品は非常に貴重である。坂本繁二郎唯一の正当な継承者とされている。戦後は東洋と西洋を融合させた三綱独自の作風を確立し、その作品はイサムノグチやオッペンハイマーなど世界的な芸術家や学者に愛された。1988年平塚市美術館で展覧会が開催されたが、そろそろやってほしいものだ。追記:2014年6月タバコの脂で汚れていた画面をクリーニングしたところ冬晴れの色が出てきた!素晴らしい。

絵のある待合室316

本荘 赳 「はなつみ乙女」 22×60.5㎝ キャンバス 油彩 展覧会出品シールあり

ひさしぶりの本荘作品である。しかも比較的初期の本荘にしては珍しい人物画の優品である。旧蔵者は大学教授であるという。たしかにアトリエには理系、文系をとわず大学教授が訪れている。また春陽会展では坂本繁二郎が30分も本荘作品の前から動かなかったことが逸話となって残っている。画集には200人近い所蔵者リスト(氏名、住所、電話番号、職業、所蔵作品名)が掲載されており、寡作である本荘ならではの他の作家にはない驚くべき事だ。庶民、学者、巨匠と幅広い層から人物作品ともに愛され支持されていた証拠でもある。本荘作品の魅力は高潔で慈悲深くどこまでも静謐である。その魅力に取りつかれた絵好きたちは稀なその出会いを今も待っている。

絵のある待合室317

三木宗策 「綾織」 1938 高さ50㎝ 第8回日本木彫会出品作  「三木宗策の木彫」掲載

旧帝展、文展審査員、正統木彫家協会々員三木宗策は、昭和20年11月28日疎開先の福島県郡山市で没した。享年54歳。明治24年福島県に生れ、16歳の時上京して山本瑞雲の門に入り、木彫を学んだ。大正5年第10回文展に「ながれ」を出品して入選したのをはじめ、文、帝展に出品し、同14年第6回帝展出品の「不動」は特選となり、昭和2年帝展委員に選ばれ、同7年帝展審査員、同13年新文展審査員に挙げられた。この間、昭和6年内藤伸、沢田晴広等と目本木彫会を結成して毎年東京および大阪で展覧会を開催したが、同15年日本木彫会から分離して正統木彫家協会を起し、毎年展覧会を開いた。伝統的な木彫に写実的手法を加え、新作風を企てつつあつたが、中途に倒れたことは惜しまれる。夭折し、現存作品も多くない作家だが幸運にも代表作が入手できた。さて、この作品の対で出品された「呉織」はどこにあるのだろうか?

絵のある待合室318

初代 中村 實  「龍文飾鉢」 45×8㎝ 戦前作 「信州神川日本農美生産組合」シール

1894年  明治27年長野県神川村(現上田市)に生まれる
       弟は彫刻家、画家の中村直人

1919年  大正8年12月8日、第1回農民美術講習会に参加。
       農民美術を生業として活動に入る
       制作活動の傍ら、山本鼎の一番弟子として
       日本中に農民美術を普及させるべく
       講師として全国を駆け回る。

1962年  5年の歳月をかけ自ら山本鼎ゆかりの人物を訪ねて回り、
       日本中より寄付を集め
       昭和37年、上田城跡公園内に山本鼎記念館開館。
       初代館長となる。

       2年後の昭和39年、昭和天皇、皇后視察の際、館長として館内を案内する。

1977年  昭和52年、83歳にて死去

長野県農民美術連合会会長をはじめ、農民美術の第一人者として農民美術の普及発展に一生を捧げた
各賞多数受賞

絵のある待合室319

三國慶一 (花影) 「明けがたの海」 1916 63㎝ 第十回文展初入選作

 14歳で上京し、わずか17歳で文展に初入選した伝説の作品が残っていた!当時の最年少記録であり今も破られていないであろうか。「明けがたの海」はツバ広の麦藁帽子をかぶった漁師が、黎明の海辺に立ち空と海を望んでいる像である。漁師が眺めている海は、まさしく故郷、日本海の津軽の海であり、吹いてくる風もまぎれくもなく北国の海風であることを感じさせる。そういった風土色を踏まえたうえで17歳の少年が普遍的な漁師の生活実感を的確に把握しているのだ「明けがたの海」という題名そのものが、ぴたりと作者のモチーフを言い表している・・・・三國慶一の生涯「木の造形」新潮出版
 三國慶一の花影という号は「六花会」時代に用いものであり、同会の会名に因んだものであろう。「六花会」とは大正期において東京の地で青森ルネサンスと呼ばれる先駆的な美術運動を展開した前田照雲率いる塾である。塾生は皆、青森出身の精鋭たちで構成されていた。この初入選してから5年後に、三國は照雲の勧めで東京美術学校に入学する。通常の逆パターンであるところが興味深い。

絵のある待合室320

廣瀬操吉 「婦人像」大正15年 6F キャンバス 油彩

明治28年兵庫県印南郡生 姫路師範学校を経て、関西美術院・本郷洋画研究所に学ぶ 岸田劉生・武者小路実篤・千家元麿に師事し、『白樺』周辺の芸術家として洋画と詩作に鑽し、後に抒情あふれる「雲雀」などの詩集数冊を発刊し、小熊秀雄や高村光太郎とも交流し高く評価されたが、ほどなく絵筆を折り後年は銀座に「三笠画廊」を経営、自宅に「日本初期洋画研究所」を設立し初期洋画の調査・蒐集を行い、幻と言われた明治美術一大コレクションを築きあげた。最大の仕事はヤンマーディーゼル創業者である山岡孫吉が求める明治美術の傑作コレクションに貢献したことである。廣瀬の詩人としての活躍と画商としての業績は分かっているが、画家としての活動には謎が多い。 洋画家時代の油彩作品は極めて稀である。今後の発掘が期待される。

絵のある待合室321

植木 茂 「作品」 高さ36㎝ 1960年代

1913年北海道に生まれる。1984年没する。同郷の先輩三岸好太郎に師事し独立美術協会展に出品するが、三岸の死後、自由美術家協会展に出品。アルプ風の木彫や石膏レリーフが認められ会友として活躍するが、1950年に山口薫や村井正誠らと同会を退会した後、ニューヨークのリバーサイド・ミュージアムの「日米抽象美術」展、翌年の第3回サンパウロ・ビエンナーレ展、56年の第28回ヴェネチア・ビエンナーレ展に出品。国内では、現代日本美術展や日本国際美術展を中心に発表を続け、日本の伝統的な木彫技法を生かした独自の抽象表現を追求した。1970年代以降は、「近代日本の彫刻」展(京都国立近代美術館)や「戦後日本美術の展開−抽象表現の多様化」展(東京国立近代美術館)等、近現代彫刻の流れをたどる展覧会に出品するなど日本の抽象彫刻のパイオニアの一人として評価されている。私にとっては砂澤ビッキと双璧を成す木彫界の異端・スーパースターである。この作品はブロンズであるが植木のらしさの出た佳品だ。植木の作品はほとんど見かけなくなった。彼の抽象木彫が出たらゲットしたいと思っている。

絵のある待合室322

アイヌ民芸人形 18㎝ 15㎝ 戦前

戦前、国内はもとよりアジア諸国の民芸品や郷土玩具を蒐集されていた山形在住の大コレクターの旧蔵品である。彫りもよく、今となっては貴重な作品であろう。3年前、家族で北海道の白老町に行き、自然との共生を尊重するアイヌ文化に触れたのは素晴らしい経験となった。アイヌが北海道の先住民族であることは日本人の誇りでもある。

絵のある待合室323

アイヌ民芸人形 17㎝ 17㎝ 戦前

322とと同じ、山形のコレクターの旧蔵品である。両方とも弐円参拾銭の値札シールが貼ってある。熊を抱く男性と鮭をぶら下げる女性がかわいらしい。2014年6月13日、政府は北海道の先住民族であるアイヌ文化を伝承するために北海道白老町に「民族共生の象徴となる空間」(象徴空間)の管理運営に関する基本方針を閣議決定した。2020年の東京オリンピックに合わせて一般公開する予定。象徴空間の中核施設に国立の「アイヌ文化博物館」「民族共生公園」をポトロ湖畔に設置する計画。喜ばしいことだ。

絵のある待合室324

岩野勇三 「はだか」 1956 26㎝ 1956年神田・タケミヤ画廊グループ展「六士会」出品作
1962年岩野勇三彫刻小品展出品作 レゾネ№11所載

岩野勇三は1931(昭和6)年に新潟県高田市(現上越市)に生まれ、高校卒業と前後して佐藤忠良に師事します。1960(昭和35)年新制作協会彫刻部会員となり、以降、同展を中心に活躍するとともに、野外彫刻も仙台をはじめ数多く手がけており、その創作活動は高い評価を得ています。また、東京造形大学教授として、後進の指導にも力を注いでいます。1980(昭和55)年第1回高村光太郎大賞優秀賞、1981(昭和56)年長野市野外彫刻賞、そして1986(昭和61)年中原悌二郎賞を受賞しますが、翌年、肺がんのため56歳で死去します。岩野勇三の作品は、頭像や全身像を主とする具象彫刻で、単に人体を写実的に写す技術だけではなく、そのモデルの内面性とともに、しっかりとした量塊、質感、構成、構築性などの彫刻的追求がなされており、観る者に心地よさとある種の緊張感を与え、作品を取り巻く空気を表現できる数少ない彫刻家といえます。

新潟県立高田高校卒業後、上京し佐藤忠良に師事。家族同様に過ごした。そして忠良の絶大な信頼を得るようになる。まさに愛弟子である。高村光太郎賞、中原悌二郎賞など具象彫刻の頂点に立つ。計算されつくした写実的表現は「造形の鬼」と言われ他の追随を許さなかったが、絶頂期の56歳で夭折した。忠良の慟哭が聞こえてくるようだ。この作品は25歳に制作された貴重な最初期の出品作である。現代の作家との違いが分かるだろうか?段違いである。スゴイ男がいたものだ。

絵のある待合室325

寺田政明 「作品」 1937年頃 4号 板 油彩

裏には出品シールが貼られており、そこには「4 氏名:寺田政明  住所:東京市豊島区長崎東4の23画題:作品」と記してある。寺田が長崎東4の23に住んでいたのは、1936年の独立美術協会第6回展から1939年頃までであり、シュールレアリスム風の作品を集中的に描いていた。ご存知の通り、「池袋モンパルナス」の中心者の一人であり、その交友歴は圧倒的である。とにかく、この時期の寺田のシュール作品はコレクター垂涎の的である。この作品は祖父がコレクターであった方から譲って頂いたもので、晩年の寺田の手紙が付属しており興味深い。北九州市美術館所蔵の「海辺」1937に雰囲気がよく似ていると寺田展を担当された学芸員の指摘もあり、おそらくその頃のものだろう。また年譜によれば1938年8月寺田政明画伯個展(八幡・丸久百貨店)の出品作の中に「科学博物館」「作品」というタイトルが見られるが、シールには画題「作品」と、それとは別に小さな「博物館」というラベルが貼られてある。もしかすると付属していた寺田の手紙が1984年のものであるので、その時に旧蔵者が寺田本人に作品名を書いてもらったのかもしれない・・・

絵のある待合室326

鈴木三郎 「権威の座」1956 30F

生没年不詳の前衛画家である。1958年と1959年の第10回11回読売アンデパンダン展(1949~1963)に出品している作家であること以外は分かっていない。知人の目利き画商N氏が作品の良さから長い間コレクションしていたものである。1950年代の戦後現代美術、とりわけ読売アンパンの画家の作品群は玉石混合だが未だ手つかずの感もある領域である。瀬木慎一氏は指摘する・・・日本近代社会における国家もしくは芸術上の権威のもとに形成されてきた位階制度に対する全面的で大規模な初めての挑戦であり、この展覧会を抜きにして現代美術史は語ることが出来ないのは当然といっていい・・・・この作品も5670人、16922点のうちのひとりの作家のひとつの作品に過ぎないが、見どころ十分であり、N氏が高額で購入し長い間温めていた理由がわかる。今後、1950年代~1960年代の戦後前衛美術の研究がなお一層進み、面白い展覧会がひとつでも多く開催されることを期待したい。この作家についての情報があればご教示願います。

絵のある待合室327

澤田文一「凶作の年」1987頃 10F キャンバス油彩

孤高の画家、魂の画家、画界のドストエフスキー・・・彼を知る人はこう呼んでいる。
私が思いつく彼のような現存の画家には、藤崎孝敏、木下晋が思い浮かぶ。社会の底辺で必死に生きる市井の人たちを自らも同じ境遇で描くことが出来る、今となっては稀な画家たちである。彼のおびただしい素描には青木繁や藤島武二と同じ人物の内面を一瞬に捉える天賦の才と画格が感じられた。才はあるが貧困な地方作家に陥りがちな偏った土着化はしていないのだ。洗練されているのだ。特に女性像などは俗っぽく安っぽくなるがそうでもない。画風の幅も広く深い。器用貧乏でもない。宗教性もありインテリジェンスもある。画狂人である。若い頃に老成したのだろう。澤田を発掘顕彰してこられた寺西進氏を通じて入手したのが、この「凶作の年」1987年頃である。岡田三郎助や児島虎次郎を彷彿させるくらいの密度の高さと深い色彩、まるで明治末~大正期に描かれたといってもいいくらいの古格が備わっているのは尋常ではない。

以下、ネットに出ている澤田文一に関するものを参考までに記してみよう。
 
①澤田文一は作品を描く時に、まずはキャンバスを真っ黒に塗りつぶすそうです。その真っ黒に塗ったキャンバスに色を付け、どんどん光を与えていくことによって、澤田文一の作品は完成します。なぜ、このような特殊な描き方をするのかというと、これは澤田文一の幼いころの経験が影響しているそうです。澤田文一は北海道に生まれ、幼い頃から貧困と北海道の厳しい寒さに耐えながら苦難に満ちた日々を送り続けていました。そういった経験が、心の闇を生み出し、それを絵画という作品で表現しているそうです。しかし、澤田文一の作品は、苦難に満ちた日々をそのまま作品にしているようには思えず、そこには闇の底から這い上がる人間の強さや、慈悲の心なども感じる事ができます。そんな、澤田文一の作品に目を付けた画廊の主人に力添えもあって、澤田文一は一躍時の人となりました。しかし、長い間消息不明となってしまい、人々の心から澤田文一の記憶が薄れてきた頃、また別の画廊に助けられ、作家として見事な復活を遂げたのが2012年の出来事でした。

②澤田文一は、1949年札幌生まれで、北海道亀田郡七飯町に長く住んでいました。厳しい寒さと貧しさに耐え、聖書、ギリシャ神話などをひたすら学び、その精神を力一杯画面に表現してきましたそれが、澤田文一の絵が特異である主因になっています。誰にも媚びず、ひたすら自分の世界を描くにも関わらず、彼の絵には人間に対する愛が溢れています。自分は極貧に喘ぎ、家族もいない孤独な生活を続けながらも常に弱いものに対する愛情が最優先する人生を送っています。

絵のある待合室328

寺田政明 「静物」 1937 6F キャンバス 油彩

寺田の1937年といえばシュールに移行していた頃であるので、このようなマチス風のフォーブ作品は珍しいと思う。画商のS氏は東京美術倶楽部の業者の交換会で入手したものと話してくれた。この時期の小品の多くはほとんど残っていないが、その中には地方の画廊や百貨店での個展や売り絵も多くあったろう。この作品は20代半ばの貴重な初期作であることには違いない。葡萄はキリスト、蝋燭は神を意味しているのであれば、神の足元にひざまずくキリストという宗教的なシュールな意味も込めた作品かもしれない。いずれにしても、今後の調査が待たれる興味ある作品だ。

絵のある待合室329

藤松 博 「接吻」(仮題) 1952 15Mキャンバス 油彩

新発見の傑作と言えよう!1950代の藤松作品がまだ残っていたとは驚きだ。三重の古美術商から京都の画商を経て私の所へ来た。戦後の日本美術において瀧口修造の果たした役割は非常に大きい。その象徴的な仕事が新人発掘の「読売アンデパンダン展」や「タケミヤ画廊」での活躍である。タケミヤでの200を超える個展中で3回と最も多く開催されたのが藤松であった。瀧口の書斎には藤松の代表作が掛っていたのはよく知られている。お気づきの方もおられるかもしれないが、この作品はイサムノグチの師であるブランクーシの接吻に想を得て描いたものであろう。すでに知られている初期作にも名品はいくつかあるが、この作品はそれらに匹敵する。1953年のタケミヤ画廊での初個展に出品された「つむじ風」という作品が知られているが、おなじ薄塗りで同サイズ15Mであることから、この作品も1953年のタケミヤでの個展に出品されたものと推測している。機会があれば展覧会で多くの人に見て頂きたいものだ。

藤松博(1922~19966)は長野県に生まれ、終戦とともに社会の変革が進むなか、「読売アンデパンダン展」連続出品、瀧口修造をはじめ多くの批評家から高く評価される。1959」年(昭和34年)から2年半のニューヨーク滞在の後、「ひとがた」や「旅人」シリーズといった独自のスタイルを生み出し、煤や型紙を使った表現や繊細な素描に“光と影”を追求するが、終始自己(人間)を問いながら、求道的とも言える制作を貫いた。また、保守的な美術団体には属さず、出版文化、美術評論家等とのつながりを深めた作家としてのスタンスも特筆される。

藤松 博   Fujimatsu Hiroshi

  ■
略歴 1922  長野県に生まれる1945  東京高等師範学校芸能科卒業(筑波大学)兵庫師範学校文部教官(神戸大学教育学部) 1959~61 ニューヨーク在住 名古屋芸術大学客員教 1996  没
  ■個展
  1953  タケミヤ画廊/東京 1954  タケミヤ画廊/東京 1956  タケミヤ画廊/東京1962  南天子画廊/東京1963  南天子画廊/東京 1965  南天子画廊/東京 1966 南天子画廊/東京1968  南画廊/東京 1972  南天子画廊/東京 1973  ギャラリーアメリア/東京 1976  ギャラリーさんよう/東京 1979  ギャラリーアメリア/東京 1983  ギャラリー上田/東京1986  ギャラリー上田・ウエアハウス/東京 ギャラリー上田/デコール/東京 1988 INAXギャラリー/東京  1995  ギャラリーアメリア/東京  1996  ギャラリーアメリア/東京1997  工芸学会 麻布美術工芸館/東京 白土舎/名古屋1998  虚空の花火、白土舎/名古屋1999  藤松博遺作調査室、白土舎/名古屋 2002  ばたく光、白土舎/名古屋Figure/は2004 旅人、白土舎/名古屋
 
  ■おもなグループ展
  1949  第1回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京1950  第2回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京1952  第4回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京 1953  第5回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京 1954  第6回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京 1955  第7回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京43人展、銀座 松坂屋/東京1956  第8回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京 世界・今日の美術、日本橋高島屋/東京 46人展、銀座 松坂屋/東京1957  第9回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京  戦後美術の15人展、東京国立近代美術館/東京 46人展、渋谷東横百貨店/東京アジア青年美術家展、東横百貨店/東京1958  第10回読売アンデパンダン展、東京都美術館/東京 朝日新人展 1963  第7回日本国際美術展、東京都美術館/東京 他 1972  「戦後美術の展開 具象表現の変貌」、東京国立近代美術館/東京 1981  「1950年代ーその暗黒と光芒」、東京都美術館/東京 1981~82 「1960年代ー現代美術の転換期」、東京国立近代美術館/東京京都国立近代美術館/京都1982  「瀧口修造と戦後美術」、富山県立近代美術館  「現代美術の展望ー油絵」、富山県立近代美術館1984  「現代美術の20年」、群馬県立近代美術館 「戦後美術の軌跡から」、千葉市民ギャラリー/いなげ1996  「日本の美術 よみがえる1964年」、東京都現代美術館/ 東京  「1953年 ライトアップ」、目黒区立美術館/東京 1998  「戦後日本のリアリズム 1945-1960」、名古屋市美術館/名古屋   2001 戦後美術の断面「馬場彬とサトウ画廊の画家たち」、秋田県立近代美術館/ 秋田

絵のある待合室330

米倉寿仁 4F 1940年代後半 キャンバス 油彩

明治38(1905)年2月19日、山梨県甲府市錦町に生まれる。大正15年、名古屋高等商業学校を卒業後、郷里に帰り教職につくかたわら、絵を独学した。昭和6年、第18回二科展に「ジャン・コクトオの『夜曲』による」が初入選。また、福沢一郎と知己になり、同10年、第5回独立展に「窓」が初入選。翌年、画業に専念するために教職を辞して、上京。この頃より、いち早くシュルレアリスム的な表現をとりいれ、社会意識の強い作品を描くようになる。「ヨーロッパの危機」(原題「世界の危機」、同11年、山梨県立美術館蔵)「モニュメント」(同12年、第7回独立展出品、同美術館蔵)、「破局(寂滅の日)」(同14年、第9回独立展出品、東京国立近代美術館蔵)など、暗転する時代を表現した代表作が描かれている。同13年、創紀美術協会の創立に参加、さらに翌年、美術文化協会の創立会員となる。戦後は、同26年に、美術文化協会を退会して、翌年美術団体サロン・ド・ジュワンを結成、以後同会によりながら作品を発表した。山梨県立美術館の学芸員によれば1940年代後半~1950年代前半くらいの作品ではないかとコメントを頂いた。戦前のダリ風のシュールが有名だが、このようなシュールも魅力がある。目利きの友人曰く「篭の取手の輪郭を白抜きするのがシュールなんだよなあ~」。この時代の米倉の作品も見かけなくなった。日本にはシュールは根付かなかったが、「優しいけど棘がある意味深な」このような作品も現代のわれわれには新鮮に映る。

絵のある待合室331

普門 暁 「アンナ・パヴロヴァ(瀕死の白鳥印象)」1922 8F キャンバス油彩 自筆裏書

大正期新興美術史においての新発見である。まさしく発掘された作品であろう。この幸運に感謝したい。五十殿利治氏の「大正期新興美術運動の研究」は有名だが、未来派の普門暁に関しては(奈良県美と京都近美に1点ずつ)作品も少なく、断片的でまとまっ た資料もない。この作品は1922年にアンナ・パブロワの来日公演を見ての作品であり普門の感動が伝ってくる。資料的にも非常に貴重で興味深い内容の作品と思う。

専門家の意見・・・
①普門暁作品について、手元にある資料を調べましたが、出品歴については確認できませんでした。奈良県美での展覧会目録の年譜にある1923年春の京都での個展、その年秋の東京での個展の雑誌記事、新聞記事をさがす必要がありそうです。そのときの目録があるといいのですが、私は見たことがありません。これらの個展についてはま調べたことがないので、機会をみて、国会図書館などで調べてみます。
 ② 現存する20年代初期の普門の作品として貴重です。画題が、1922年に日本公演 を行なったパブロワというのも興味深いことです。しかも彼女のために振付けられた「瀕死の白鳥」を踊っている場面ということで二重に興味深い作品です様式的には、それ以前の作品より荒々しいタッチで描かれており、抽象的になってきているように思います。
 ③出品歴を確定するのはむずかしそうですね。パヴロヴァが来日したのが1922年の9月で、関西での公演は翌月のようです。そうすると彼はもう未来派美術協会からは離れてしまっているし、二科展や大阪美術協会展にもこの題名の作品は出ていないですね。普門については、1978年に奈良県立美術館で回顧展が開催されていて、薄いけれどもいちおうきちんとした図録が作られています。戦後の作品はけっこう奈良県美で持っているのですが、大正期のは平園さんがおっしゃるとおり、ほとんどないので貴重です。この目録の年譜のところを見ると、1923年の春に京都で個展を開いているので、このあたりが可能性としてはありそうですが、おそらく目録などは作っていないでしょうから、確実に同定することはきわめて難しいと思います。地元の新聞などで取り上げられていればいいのですが・・・
 
以上のように来歴を確定するには時間がかかりそうだ。

明治29年8月15日奈良市に生れた普門が生後間もなく東京に移り、青年期を迎えて画家を志望し、偶々1910年代イタリアのミラノに起った未来派の美術運動に刺激影響を受け、大正9年秋、みずから首唱者となって未来派美術協会を創立し、以来数年にわたってわが国における前衛美術運動の口火を切って活躍したことは、わが近代美術史上の特異な存在として銘記されているが、戦後の晩年は帰郷して殆んど中央での活動がなかったので、奈良で生れ、またその奈良で生涯の仕事をひっそりと終えた普門については、一般に知られるところが少なかった。昭和48年12月、地元の奈良県立美術館の努力によって開催された『未来派の先駆・普門暁回顧展』に当って作成された目録中の貴重な「略年譜」によって、その生涯の大方を再認識することが出来る。なお、その回顧展の骨子となった作品群は、このとき、普門家の遺族関係者から同家に伝存する限りの遺作品が奈良県立美術館へ寄贈されたのによったという。


略年譜
明治29年 8月15日、普門常次郎・よねの長男として生れる。本名常一。その後間もなく東京に移る。貴金属商を営んでいた叔父の仕事を手伝いながらデザインを勉強する。
大正4年 東京蔵前高工で建築意匠を学ぶ、また安田緑郎に師事しイタリア新興美術(未来派)等の表現技術を学ぶ。
大正5年 どうしても絵をやりたくて、蔵前高工を中退し、川端画学校に入る。日本画をも学ぶ。ここでも新傾向グループのリーダーになり、紅児会と名づける。この頃看板等にコルクの焼絵を試みる。第1回個展(上野山下・三橋亭)、石井柏亭に二科会への出品をすすめられる。
大正7年 春、太平洋画会展に未来派作品を数点出品。秋、二科会展に石井漠の踊りを描いた「フューモレスク」を出品。
大正8年 春、個展(日本橋・白木屋)。その後奈良に帰り制作、県立図書館で足立源一郎・浜田葆光・山下繁雄とあしび会というグループ展を開く。
大正9年 二科展に絵をやめて彫刻を出品するが落選。首唱者となり未来派美術協会を創立。第1回未来派展(9.16~25、銀座・玉木屋)、会員約10人のほか、木下秀一郎等の応募者がいた。絵画のほかに未来派彫刻2点も出品、日本で初めての未来派彫刻の発表として問題作となる。10月、パリモフ、ブルリュックらが来日し、ロシアの「未来派美術展」を開催するのを援助(東京と大阪で同展は開かれる)。第1回未来派大阪展開催後、反響もあり、大阪で新しい仕事を勧める人もあり、大阪に止まる。
大正10年 大阪市南区笠屋町に自由美術研究所が設立され、赤松麟作・斎藤与里と共に指導にあたる。第2回未来派展(10.15~28、上野・青陽楼)には、座骨神経痛で芦屋から動けず、代って中心になって木下秀一郎が動いた。その後、同大阪展を本町の商工会議所会館で開く。二科展に出品。
大正11年 大阪市美術展覧会創立委員となり、第1回展に出品。未来派美術協会の主催で、第3回未来派展を拡張して三科インデペント展が開かれるが、同協会の解散説を唱えて参加しなかった。二科展に出品。
大正12年 春個展(京都及び東京)。大阪に演劇映画研究所が開催され、演劇舞台美術を指導。
昭和2年 東京に産業美術研究所を設置、未来派技術と感覚をデザインに移入、生活美術としての新分野を開拓。身体障害者の社会復帰に寄与しようとするものでもあった。これらの製品(団扇・ネクタイ・切り絵等)は東宝劇場内の販布コーナーで市販した。
昭和5年 発病し静養。
昭和12年 日大美術科の講師となり、翌年、主任となる。
昭和18年 日大美術科主任を辞し、講師として出講。
昭和21年 G・H・Qの日本美術顧問となり、米軍だけでなく米国への日本美術紹介に骨を折る。アーニーパイル劇場に新設美術会場を開設。
昭和26年 肝臓を悪くして東京日赤に入院。
昭和27年 春、一時小康を得て東京綜合美術研究所を開き、洋画やデザインの指導にあたるが、健康はすぐれなかった。
昭和35年 かねてから塗料の開発に取り組んでいたが、ベンゾール中毒にかかり発病、奈良・大林家に寄寓し療養に専念する。
昭和39年 健康を取り戻し、手はじめに王寺工業高校の記念碑「希望の像」を翌年にかけて制作する。
昭和49年 秋、当麻寺奥院の大作「倶利迦羅龍幻想」の制作にかかる。翌年春完成。
昭和41年 同寺奥院のお茶所を改造してアトリエとして住む。この頃から、水墨の抽象画に打ちこむ。ニューヨークで個展を開くつもりで後期未来派作品の制作を始める。
昭和47年 2月、蜘蛛膜下出血で倒れ、大阪の暁明館病院に入院。9月28日没

絵のある待合室332

岩野勇三 「Dr.A」 1982 高さ54㎝ 第46回新制作出品作

私は日本の近代具象彫刻家として頂点にいる作家が岩野勇三と考えている。この意見に彫刻を知る人間なら賛成する人はいても反対する人はいないだろう。群を抜く技術とそれを突き抜けた感性がその魅力なのだ。彼の作品が市場に出てくることは希であるが、どうにかこれで3点の蒐集となった。この作品も 「造形の鬼」と言われた岩野勇三、全盛期の男性肖像である。非の打ちどころのない出来は、彫塑を勉強する学生には大いに役立つ事だろう。題名から医師がモデルである可能性がある。誰だろう。特定できれば幸いだが・・・ご存知の方はお知らせください。

絵のある待合室333

峯 孝 仮題「男の首」1994 46㎝(内台座10㎝)

峯 孝 1913-2003 池袋モンパルナスを代表する彫刻家
大正2年8月5日生まれ。昭和11年国画会展に出品。のち建畠大夢の直土会に出品。24年自由美術協会会員となる。55年武蔵野美大教授。肖像や人体像を得意とし,公共の記念像も制作。平成15年4月10日死去。89歳。京都出身。東京美術大学 (現東京芸大)中退。作品に「エドウィン・ダン銅像」など。
豊島区千早には2004年に開館した峯孝作品展示室があるが、震災の影響で現在休館中である。著名な作家にもかかわらず、作品集がないのが残念である。この首は晩年の作品であるが堂々とした立派な首である。作家の実力が窺い知れる。一刻も早い展示室の再開を待っている。

絵のある待合室334

長谷川利行 「街行く女」 1937 14.5x18㎝ 厚紙 東京美術倶楽部鑑定(昭和55年三谷時代)

コレクション25点を処分し、その資金で買った待望の利行作品である。2014年11月~12月に羽黒洞とフクヤマ画廊で開催された「長谷川利行」展に出品された作品である。2000年の神奈川県立近代美術館以来の大きな展覧会となった。旧知の福山茂氏から譲って頂いたものだ。油彩の輝きと筆の走りが見事な作品であり小品だが利行作品のなかでも優品の一つと言ってもイイだろう。

絵のある待合室335

佐藤 敬  無題 60号 1959 ボード ミクストメディア  旧ヴィンセント・プライスコレクション

日本では忘却されている感があるが、戦後の在外作家の代表格としてユニークな活躍と実績がある。この作品は著名なビンセントプライスコレクションであり、おそらくパリでの個展出品作のひとつであろう。抽象に移行している時期の作品で、鉄骨の柱の前にさまざまな大きさの壁がさまざまなマチエールで表現され継いである。佐藤の実験的な試みが見て取れる。

絵のある待合室336

宮崎 進  「道」 25号 キャンバス 油彩 日本橋画廊シール、大阪フォルム画廊シール

1969年の日本橋画廊での個展出品作である。宮崎進は日本洋画壇の現役最長老の作家のひとりだ。
安井賞を取った時期の画風であり、この時期の具象作品は心惹かれるものがある。

絵のある待合室337

國方林三 「村の娘」 36㎝ 大正13年 ブロンズ 1973年回顧展出品作 共箱

1973年に香川県文化会館での回顧展に出品された作品そのものである。共箱には香川県文化会館の出品シールが貼られている。國方は、今ではほとんど忘れられている存在だが、明治~昭和にかけて官展で大活躍した実力者である。池田勇八、建畠大夢、北村西望と4人で組織した八手会は特筆されるべきだろう。

絵のある待合室338

松下春雄 「静物」  大正末  52x69㎝ 紙水彩

大正~昭和初期の浪漫の芳しい香りを放つ松下水彩である。代表作といってもいいだろう。尊敬する故梅野隆館長が蒐集し世に再評価させた夭折の画家である。30歳という短い生涯の中で前半の5年は水彩画家として活躍した。ゆえに作品の数は少なく、このような大型の優品がまだ残っていたとは驚きだ。2016年の春に東御市立梅野記念絵画館で「松下春雄」展があるとの連絡を受けた。この作品も出品されることになるだろう。梅野さんが私を通じてこの作品を地の底から浮上させたのかもしれない。

絵のある待合室339

天岡均一  「裸婦」 高さ23㎝ 制作年不詳

天岡均一没後九十年回顧展 : 兵庫県三田市生まれの豪気な天才彫刻家 : 1875-1924が2013年に開催された。この作家は近代日本彫刻集成にも掲載されている重要な作家の一人だ。大正期に外遊しているのでその時に関連した作品ではないかと推測している。明治から大正の夭折作家の貴重な作品であろう。今後の進展を期待している。

絵のある待合室340

鈴木 実  「松尾芭蕉」 67.5㎝ 木彫

生没年  1930年 山形県生まれ、茨城県取手市在住 2002年没
現代具象木彫界の第1人者、鈴木は1930(昭和5)年、高畠町屋代に生まれ、戦禍を逃れ故郷に避難していた米沢出身の彫刻家桜井祐一の門に入り、彫刻家を目指した。日本美術院、S.A.S.、国画会に意欲的な作品を発表し、1978年、第7回平櫛田中賞、1985年に第16回中原悌二郎賞、そして2000年の第1回円空賞と数々の大きな賞を受賞している。鈴木の彫刻の多くは肖像彫刻であり、自己の存在とは何か、妻、家族、他者とは何かを問い続け、生きることの本質に迫ろうとする厳しい制作姿勢を貫いている。

具象彫刻家(木彫)としては最後の巨匠と言ってもいいだろう。この作家の彫る芭蕉像は有名であるが自画像の風が漂う。作家本人もそのような心持で制作していたと勝手に思っている。アトリエで没したがその傍らには彫りかけの芭蕉像があったという。

円空賞を受賞した折りの受賞理由がネットに出ていたので参考までに記載させて頂く。

鈴木実氏は、日本の伝統的な木彫技術を身につけ、確かな技術に裏付けされた独自の肖像彫刻の分野を開拓した。肖像彫刻は、鈴木氏の記憶を通して再現され、モデルの個別性と普遍的な人間像を合わせ持ち、空間的に圧倒的な緊張感を作り出している。鈴木氏の作品の根底に横たわるのは人間の持つ本質的な孤独と不安である。代表作「家族の肖像」では、互いに視線を合せることのない家族像でありながら、強い絆で結ばれているという奇妙さと悲しさを表現しているが、この作品に象徴されているとおり、鈴木氏は伝統的な技法でもって近代日本の空虚さを効果的に表現している。また、その作品には、単に外見から受ける印象にとどまらず、人間の隠れた内面も書き出し、見る者の心を癒してくれる点で、円空賞の受賞者としてふさわしい人物である。

絵のある待合室341

落合朗風 「半裸」 117×58㎝ 1934年 額装(立入好和堂) 明朗美術創立記念試作展出品作の大下絵

朗風は、明治29年(1896)8月17日、東京に生まれ、まもなく母親きくを亡くし父親常市(島根県平田出身)に男手一つで育てられた。大正5年(1916)文展に「春なが」が初入選し、早くから注目される。三年後の大正8年には院展に「エバ」を出品、横山大観を感嘆させたといわれる。その後も連続入選するが、院展の審査に疑問を持ち脱退。大正13年から帝展に出品し、再三特選候補にあげられながら涙をのむ。昭和6年(1931)からは、青龍社展に参加。名作「華厳仏」で青龍賞(戦前は朗風、戦後は横山操の2人しか受賞していない)を受賞し川端龍子と並び賞されるが、昭和9年には脱退し明朗美術連盟を設立する。そしていよいよ自らの画境を確立しようとする矢先の昭和12年4月15日40歳という若さで生涯の幕を閉じた。「おそろしい将来を持つ日本画壇の一人であった。何と言っても早く死なせた事は惜しんでも餘りあることである。」朗風の死を悼んだ親友の藤田嗣治が残した言葉である。

絵のある待合室342

藤崎孝敏 「食卓」 30P号 1990年 キャンバス 油彩

知る人ぞ知る孤高の在仏画家、藤崎孝敏35歳の個展出品作である。現存の邦人洋画家としては圧倒的な画力と異才を放つ作家の一人だ。目の肥えたコアなファンを持ちプロの絵描きからも一目置かれている存在だ。市場にはあまり出てこない作家だが、幸運にもこれで2点目の蒐集となった。

藤崎がフランスに居を移して30年が過ぎました。

「僕の描きたいものを描きたいようにかく」といって
日本を離れた彼は、
バブル景気が支えた絵画ブームにも、まみえることなく
自分の作品を描きつづけました。
技法やマチエールの巧みさが絵画の評価として
衆目を集める最近ですが、
彼の絵はあくまで人の内面に語りかけ、
そして切り裂くような凄みをもっています。
「絵の本当の評価なんて時代が決めることだよ」と
彼はよく口にします。
人は目で絵を見、そして心で見てきました。
だからこそ名画といわれる絵が
年月を経ても人の心を捉えて離さないのではないでしょうか。

以下、ワシヲトシヒコ氏の評論を記す・・・・
確かに画面全体からの第一印象として、藤崎孝敏の油彩は、やや古風に映るかもしれない。しかしじっとその前に佇んでいると、今現在、パリの異空間に身を晒して生きる画家の烈しい息づかいが、こちらになまなましく伝わってくる。茶褐色の暗い画面が一見、ほっと安堵させる。だが実は、画家の内面を観るものの内面に同化させてしまう内発力の伴ったデモニッシュな作品なのである。藤崎孝敏の油彩を特徴づけるのは、沈黙を破って展開し、また深い沈黙に還る闇と光の相克だ。奔放なタッチで描かれるその人物画、風景画、静物画は、闇から生まれる光の情動のように思われる。闇は画家の炎える内面そのものであり、そこから沈黙を破って、光を求めて外部へ向かおうとする形象こそ、藤崎孝敏の油彩世界といってよいだろう。
藤崎孝敏の画面空間には、ことばにならないことがば隠され、うごめいている。私はそれを゛魂の彷徨゛と呼びたい。
ワシオトシヒコ「存在の本質に迫る光と闇」
(画集CAUVINEより抜粋)

絵のある待合室343

古沢岩美 「たそがれの静物」 10号 1955 キャンバス 油彩

本作は第2の全盛期である1950年代の貴重な作品である。見ての通り、ダリを彷彿とさせるシュールなモチーフが古沢流で描かれている。彼のシュルレアリスムな静物画は他の追随を許さない個性が発揮されており気持ちがイイ。それぞれが有する艶や光沢は、丁寧な筆運びによって的確に描き分けられており、モチーフをデ・キリコ風に配することで、メリハリを持たせ、アンバランスな安定感が生まれている。配色にも意匠が凝らされ、画面上で一際目立つオレンジをアクセントにし、その鮮やかな色彩によって視覚を刺激する。作者のユニークな眼差しが、題材の特徴だけを捉えるのではなく、そこから発展させた不思議な世界を写し出す。

古沢は、1912(明治45)年2月5日、佐賀県三養基郡旭村に生まれる。1927(昭和2)年、久留米商業学校を退学し、親類をたよって朝鮮大邱に渡るが、28年に上京して、岡田三郎助宅に寄宿する。その間、光風会展、春台美術展に出品した。34年、岡田宅を出て、東京豊島区長崎町にあった「長崎アトリエ村」に移り、ここで画家たちとの交友をひろげるとともに、前衛美術を志向するようになった。38年3月、第8回独立美術協会展に、シュルレアリスムに学んだ「蒼暮」、「地表の生理」を出品、一躍注目されるようになった。同年4月、寺田政明、小牧源太郎、北脇昇、糸園和三郎、吉井忠ら19名と創紀美術協会を創立した。しかし、同年10月に第1回展を東京で開催した後、解散。同会のメンバーの一部とともに、39年5月には美術文化協会結成に参加し、翌年第1回展から出品をつづけた。また、同年、東京朝日新聞が創立50周年記念に挿画コンクールをおこない、これに応募して当選した。に43年応召、久留米の部隊に配属され、中国大陸に送られる。終戦後、1年間捕虜生活を送り、46年復員した。47年、日本アヴァンギャルド美術家クラブ発会に参加。戦後の作品として、48年の第1回モダン・アートクラブ展に出品の「憑曲」、52年の第1回日本国際美術展に出品の「餓鬼」、56年の第2回現代日本美術展に出品の「斃卒」など、戦時中の体験と、戦後社会の混乱を告発する作品として注目された。55年に美術文化協会を退会。66年、『千夜一夜物語』(大場正史訳、河出書房、全8巻)、翌年、『カザノヴァ回想録』(窪田般彌訳、河出書房、全6巻)の挿絵をそれぞれ描いた。75年5月、山梨県西八代郡上九一色村に古沢岩美美術館が開館。82年、板橋区立美術館において「古沢岩美展」が開催され、初期から近作まで約130点によって回顧された。同展図録に、古沢自身が、「上から見れば「世間は虚仮」であろう。しかし虚仮の世間の中に不易の真実を発見してこそ芸術は存在価値があると思う。私が社会問題を取上げるのは時代の証言を残すためであり、エロチシズムを主題に選ぶのは不易への挑戦である。」という言葉を寄せている。これは、戦後から一貫した古沢芸術のテーマと姿勢をものがたるものといえる。

絵のある待合室344

長谷川 昇 「踊り子」 1928 50P キャンバス油彩 第7回春陽会出品作

明治末からたびたび外遊し、1929年(昭和4年)の春陽会に出品した滞欧作は小杉放菴や山本鼎など多くの画家たちから絶賛された。春陽会70年史にはこの作品の展示風景も掲載されている。よくこの時期の代表作が残っていたものだ。長谷川の滞欧期の名品を20年前にも見たことがある。それは神保町の高木美術であった。高木さんは既に鬼籍に入られたが、あの裸婦像は今も鮮明に思い出せる。長谷川の画風は私にとってはやや甘さがキツイ感じがしていたが、疲れた脳のには良い栄養になるようだ。

絵のある待合室345

長谷川 昇 「レビューの女」 1931 30号変形 第9回春陽会出品作

この作品も344の「踊り子」といっしょに出て来たものだ。裏のシールの断片から春陽会の出品作と推測される。時代性のあるモダンな絵である。見ていてた楽しくなる絵も少なくなった。今となっては貴重な作品と言えるだろう。待合室にはピッタリだと思う。

絵のある待合室346

植木 茂 「合」 1967 92㎝ 現代彫刻センター個展・梅田画廊個展出品作

日本の抽象彫刻の開拓者であり、権威や権力に媚びず自己の信ずる道をひたすら歩いた植木の骨太の生涯は”作家”魂そのものであった。彫刻コレクターの垂涎の的が植木の大型抽象彫刻なのだ!長い間、その出会いを待ち望んでいたが、ようやく美神が微笑んだ!「絵のある待合室」で植木のブロンズ作品を掲載したおり、私の強い植木への木彫思慕のコメントを読んだ京都の画商が連絡をくれたのだ。かなり前に大阪の個人コレクターから小磯良平作品といっしょに買い取り、売らずに自宅の玄関に展示していたという。来歴は不明とのこと。画像からはその出来が素晴らしいことがすぐに分かった。早速、学芸員諸氏に問い合わせて調べてみると、やはり個展出品作であることが判明した。作品画像が掲載されている現代彫刻センターのパンフが出て来たのだ。2014年島根県美で展覧会があったばかりでもあり、植木の再評価の機運が高まっている。この作品も近い将来、どこかの展覧会でお披露目ができたらいいと思っている。

絵のある待合室347

砂澤ビッキ 「 己面 」 1975 32x21㎝ クルミ材

ビッキの木面シリーズがようやく手に入った。所有していた木面の優品は知人の美術史の先生(イタリアの国立大教授)に請われて4年前に手放した。ビッキファンの一人としてやはり木面は持っていないと淋しくて仕方がないものだ。この木面の題名は「己 おのれ」と書いた己面だ。当て字の「き」の字を当てはめるのが通例だが、図らずも己の「き」となったのはビッキの自画像的思惟もあるのだろうか。同形の作品がビッキ作品集(用美社)P74右下に掲載されているが、こちらの作品の方が出来が良い。来歴は所有者の父上がビッキが内装を手がけた有名な「いないいないばぁー」を通じて入手したものだという。ビッキは1975年から数年間木面をつくり始めることになる・・・第1回木面展を札幌の仏蘭西市場で開催しているので、その時の出品作であろう。ビッキにとって木面は造形実験であり、シュールレアリムスの美学と通底するものがある。抽象と具象を越えている。仮面意識の変貌願望とか、神とか動物とかへの接近とか、あるいは儀式の中の悪魔への変貌、神への変身的な仮面の意味をなるべく避けつつ、「き」という発音による文字が多数あることを発見し漢字のもつ多様な意味を結びつけようとしたものだ。また、「仮面の裏側は虚無がぎっしりつまっている」・・・という澁澤龍彦の言葉を引きながら、「人間の顔が入る部分を彫りこむとき、その虚無を実感した」と告白している。

絵のある待合室348

十河厳 「緑の運動」 1950年代  10P キャンバス 油彩

十河厳(そごうがん)は最後の大阪朝日会館館長(4代目)を務めた大文化人で知られている。関西学院大の院内サークル弦月会のメンバーであり、昭和3年卒の同期のメンバーに具体の吉原治良がいる。この作品は大阪の旧蔵者が十河が館長時代に朝日会館で個展をした時に求めた作品だ。館長時代が1946年9月~1958年10月なので、その間の作品である。大阪の旧蔵者の方は1950年後半に十河の個展で購入したと証言している。1950年代後半としていいだろう。この時期にこのような作品を描いていたとはゲンビや具体美術を彷彿とさせる。具体をはじめ戦後1950~1960年代の現代美術の再評価が高まってきているが、十河も再評価される作家として期待しておきたい。

追記・・・大阪大学の研究者の方からのコメントを参考までに記載させて頂くことにする。
十河厳と吉原治良の関係ですが、彼らは共に、1952年に関西の様々なジャンルの作家によって結成された研究会「現代美術懇談会(略称ゲンビ)」に加わっています。ゲンビは、美術団体やジャンルの垣根を超えた討論の場として構想され、1953年から1957年まで、例会や毎年一回ゲンビ展を開いていました。ご遺族の話によれば1960年初頭には絵の制作は止めているので、この作品の制作年代は1950年後半でよいと思われます。
また十河は、具体(1954年結成)の活動には直接関わっておりませんが、具体が催した「舞台を使用する具体美術 第二回発表会」(1958年)は十河が館長を務めていた朝日会館で実施されましたし、具体の活動についてはよく見知っていたと思われます。そのことは、十河が『日本美術工芸』第315号(1964年11月)に寄稿した「日本前衛美術の開拓者 吉原治良が国際路線にのるまで」という手記より窺えます。

絵のある待合室349

藤崎孝敏 「盲目の人」 3F キャンバス 油彩

貧しい無名の盲目の壮年が英雄に見えるほどに藤崎の慈愛が読み取れる。小品だが素晴らしい出来だ。このように技術だけでなく人間の本質を描ける画家は少なくなったのではないだろうか。

絵のある待合室350

藤崎孝敏 「恢復期」 1986 20F キャンバス 油彩

一瞬、ぎょっとする絵である。孝敏31歳の初期滞欧作である。題名は「恢復期」とある。すなわち「病み上がり」という事だ。医師である私にとって捨てがたい作品なのである。和製スーチンといってもいいような素晴らしい少年像である。おそらくかなり重い病になり、ようやく命拾いしたのだろう。幼いながら死を悟ったような余裕さえ感じる透徹した瞳、老成した哲学者ような風格、腹の決まった男の顔である。痩せ細った青白い肌に、乾いた田んぼに水が流れ始めたかのような細い血管の束が渦巻いている。恢復期(回復)であることは間違いないであろう。30年経ったこの少年が、今は元気で暮らしていることを祈っている。

絵のある待合室351

二重作龍夫 「多宝不二」 1975 25F キャンバス 油彩

この作品と同構図である30Fの多宝不二(作品集№126)が仏政府買上げとなった。仏政府は日本の魂である富士を描く画家として二重作を最高と評価したのである。しかし、二重作は25Fの多宝不二(作品集№147)も描いている。画集の中のコメントにこう記している・・・仏政府買上げの作品と同構図だが私としては、この作品の方が気に入っている・・・画集掲載の25Fの多宝不二は妻の実家の応接間に掛かっている。この作品と瓜二つだ。違いは妻の実家の作品のサインは向かって左であり、今回の25Fの多宝不二はサインが向かって右なのである。まさしく双子の兄弟作品といっていい。少しややこしいい話だが、・・・奇遇である。妻と結婚する前に彼女の実家に遊びに行った時、この富士があり感動したものだ。結婚してから義父がこれと同じ作品が3点あると話していたのを思い出した。もう一点はどこにあるのだろうか?ちなみに二重作と義父は友人でもあった。富士を描いた画家は多くいるが、二重作の富士は日本人が油彩で描く富士のひとつの頂点を示している。横山大観と同じ水戸出身の豪放磊落な二重作は大観にどこか似ていると思う。私にとって富士と言えば、日本画の大観、洋画の二重作なのである。

絵のある待合室352

十河 巌 「主婦と主人」 1950年代 8号 キャンバス 油彩

十河厳(そごうがん)は最後の大阪朝日会館館長(4代目)を務めた大文化人で知られている。関西学院大の院内サークル弦月会のメンバーであり、昭和3年卒の同期のメンバーに具体の吉原治良がいる。この作品は大阪の旧蔵者が十河が館長時代に朝日会館で個展をした時に求めた作品だ。館長時代が1946年9月~1958年10月なので、その間の作品である。大阪の旧蔵者の方は1950年後半に十河の個展で購入したと証言している。1950年代後半としていいだろう。この時期にこのような作品を描いていたとはゲンビや具体美術を彷彿とさせる。具体をはじめ戦後1950~1960年代の現代美術の再評価が高まってきているが、十河も再評価される作家として期待しておきたい。

追記・・・大阪大学の研究者の方からのコメントを参考までに記載させて頂くことにする。
十河厳と吉原治良の関係ですが、彼らは共に、1952年に関西の様々なジャンルの作家によって結成された研究会「現代美術懇談会(略称ゲンビ)」に加わっています。ゲンビは、美術団体やジャンルの垣根を超えた討論の場として構想され、1953年から1957年まで、例会や毎年一回ゲンビ展を開いていました。ご遺族の話によれば1960年初頭には絵の制作は止めているので、この作品の制作年代は1950年後半でよいと思われます。
また十河は、具体(1954年結成)の活動には直接関わっておりませんが、具体が催した「舞台を使用する具体美術 第二回発表会」(1958年)は十河が館長を務めていた朝日会館で実施されましたし、具体の活動についてはよく見知っていたと思われます。そのことは、十河が『日本美術工芸』第315号(1964年11月)に寄稿した「日本前衛美術の開拓者 吉原治良が国際路線にのるまで」という手記より窺えます。

絵のある待合室353

二重作龍夫 「すみれ色の館」 50F 1971 キャンバス油彩 コロー賞受賞作

まさか、この作品が残っているとは思わなかった。フランスでは歴史があり権威のあるコロー賞だが、平賀亀祐が日本人で初めて受賞したのが1954年であった。この作品が日本人で2人目となるコロー賞受賞作品だ。コロー協会が年間を通じもっとも優秀な作品に贈られる賞だ。二重作はこの作品のコメントに「フランス人は色の微妙な諧調を大切にする」と語っている。中間色を品よく重厚に描き切る筆力はフランス人も絶賛したに違いない。

絵のある待合室354

雨田光平 「立てる女 」1965 49㎝ ブロンズ 共箱

雨田 光平は福井県出身の箏曲家、彫刻家、ハープ奏者。本名は雨田外次郎。 東京美術学校卒業。米国とフランスで10年間にわたってハープを修業し、マルセル・トゥルニエに師事。彫刻家としても国際的に活躍し、「日本のロダン」と呼ばれた。日本ハープ協会顧問。箏曲京極流2代目宗家。 私にとって雨田は構造社のメンバーとして中心的な位置を占める彫刻家の一人だ。この作品は福井にある彼の記念館前に設置してある晩年の代表作である。雨田の作品が市場に出る事は珍しいと思う。

絵のある待合室355

三岸黄太郎 「Nu」 100号  キャンバス 油彩 日動画廊個展出品作(1989)

三岸黄太郎は在仏作家であるが、大磯在住の湘南の作家でもあり、私にとっては身近な存在だ。フランスの心象風景や静物を独自の深い色彩と計算されたシンプルな構図で哀愁たっぷり描く質の高い作家である。この作品は三岸にとっては珍しい大型の裸婦作品だ。三岸の裸婦はやはり三岸の裸婦であると感じている。

絵のある待合室356

磯辺行久 1959 4号 水彩紙

この作品は当に若描きである良さがにじみ出ている。静かな絵であるが見ていて飽きない。

1936年東京生まれ。高校時代に、瑛九らのデモクラート美術家協会に入会、リトグラフの制作を始める。59年東京芸術大学絵画科卒業。62年読売アンデパンダン展にワッペンを連ねたレリーフ作品を出品し注目を集める。63年日本国際美術展で優秀賞を受賞。66年渡米、建築や都市計画に関心を移し、アメリカと日本でエコロジカル・プランニングを手掛ける。

絵のある待合室357

吉田白嶺 「文鳥」 木彫 26x11x21cm 共箱

私は白嶺ファンの一人であるが、一連の白嶺の鳥木彫は他の作家の追随を許さない独自の刀味があると確信している。いつ見ても流石である。

絵のある待合室358

「園田孝吉」 Felix・Moscheles フェリクス・モシェレス(1833~1917) 61×51㎝ 1876年

このイケメンは誰なのだろうか?明治初期~大正にかけて活躍した外交官「園田孝吉」である。彼の分厚い評伝にはこの肖像画が掲載されている。また作者のモシェレスは高名な音楽家の父を持ち、エスペラント協会の会長も務めた知識人で、ブランギンとも親交のある英国の画家として活躍していた。ちなみに園田の妻は明治三美人の一人として才媛の誉れ高い「園田銈」であり、郡山市美術館に彼女の肖像画(山本芳翠) が収蔵されている。いつか、夫婦並べてあげたいと美術館関係者と話をしている。
<追記>:それにしても英国洋画の実力は凄いものだ。明治期の日本では五姓田義松や原蕪松を思いつくが、本場の肖像画の出来は見事だ。明治9年の若き外交官の意気込みと責任感が爽やかに描かれている。明治初期の日本人を描いた資料的にも貴重な作品である。

絵のある待合室359

久保 守 「ノートルダム・ド・パリ」 1930 25号仏サイズ キャンバス 油彩 第7回国展出品作

久保守の回顧展には必ず出品されてきた初期滞欧期の代表作である。師と仰いだ梅原に誘われて春陽会から国画会へ移った初めの展覧会に本作を含む10点の滞欧作を出品している。北海道の洋画家では、三岸好太郎、俣野第四郎、久保守の3人が印象的だが、三岸、俣野は夭折し、久保は堅実に画家人生を全うした。

絵のある待合室360

清水三重三 「助六」 60㎝ 1927年 展覧会出品作

構造社で唯一の木彫家であり、中心人物でもあった鬼才である。江戸の伝統的「粋」を現代木彫に体現したその独自の東洋的作風は他に類例のないもので、高村豊周や長谷川栄作らが高く評価していた。三重三は挿絵の大家として名を残しているが、彼の業績は日本彫刻史に正当な評価がなされるべきだと思う。戦災で作品のほとんどが失われたしまったと言われているが、このような作品が存在していたおかげで、当時の三重三の実力が窺い知れる。品とカッコよさを併せ持つ貴重な代表作と言っていいだろう。近代木彫の新発見としたい。

絵のある待合室361

横尾龍彦 「魔笛」 1976 20号 紙 水彩 作品集掲載作品

ルドルフ・シュタイナー研究で知られる高橋巌に影響を受け、精神世界を幻想的・神秘的に表現する画家として知られている。カトリックと禅を基盤にドイツ(ケルン)を中心に活躍していたが、2015年11月に逝去された。横尾作品はたびたび目にしていたが、この作品は代表作でありオペラ「魔笛」の一場面からの幻想絵画である。このような作家はこれからもそうそう世に出てくるものではないと思う。

絵のある待合室362

笹村草家人 「鈴木迪三氏」 1949  32cm ブロンズ 日本美術院賞受賞作

よくぞ出て来たものだ!草家人の全集や作品集では知られていた代表作である。石井鶴三イズムが好ましい院展彫刻を代表する作品といえよう。

絵のある待合室363

古澤岩美 「南海の冥花」 1958 20P キャンバス油彩 画集掲載

古澤作品の髑髏の絵には優品が多い。この作品も鎮魂の一枚であろう。南方に散った日本兵のせめてもの思いがトルコキキョウに表れている。

絵のある待合室364

藤松 博 「魚と男達」 1952 30F キャンバス 油彩 1953年タケミヤ画廊個展出品作

初期藤松の名品である。松本市美で展覧会が開催されたが、今後の展開が是非必要な戦後を代表する重要作家だ。忘却されないようにしたい。

絵のある待合室365

ブロンズ 作者不詳 21X17X17㎝

絵のある待合室366

飯田善國 「ベニスの夜」 1960年前後 4F 油彩キャンバス

国際的彫刻家の粋な一枚。オブジェ作品にも通じる斬新さが魅力的な油彩だ。珍品。

絵のある待合室367

土井俊泰 「トレドの秋」 6F キャンバス 油彩

土井俊泰は茅ヶ崎ゆかりの作家で師匠が菅野圭介である。この風景は新婚旅行で撮った写真のバックにある風景と全く同じなので入手した。私にとっては思いで多きトレド風景である。

絵のある待合室368

矢野誠一 「走馬灯」 大正末~昭和初期 72㎝ 木彫

夭折の伝説的彫刻家・矢野誠一の代表作である。この1作に矢野の全てが凝縮しているように感じている。矢野作品の優品はほどんど残っていないようだ。矢野をはじめ香川出身の彫刻家たちは地味だが実力者が揃っている。余談になるが、ご子息の矢野健太郎先生は、日本で一番有名な数学者でもあり私も「解法のテクニック」で勉強したことが懐かしい。

絵のある待合室369

佐分 真 「婦人像」 1930年頃 2P 油彩 板

絵好きなら誰もが唸るレンブラント佐分の名品である。裁縫をする老婆であろうか。2Pだが深く大きく感じる作品だ。ここまで凝縮した佐分作品はあまり見かけない。作家にとって何か特別の意味合いでもある作品なのかもしれない。

絵のある待合室370

川島理一郎 「裸婦スパニッシュ」 1930 6F 滞欧作

川島の裸婦の代名詞的な作品である。「東洋のマチス」、「西洋の池大雅」の異名を持つ川島の特徴がよく出ている佳品だ。この時代の裸婦はほとんど見なくなった。

絵のある待合室371

藤松 博 「人・車」 1964 41.8x30㎝ リトグラフ 12/20

藤松のリトグラフである。珍品であろう。展覧会には11/20が出品されていた。代表作と言えよう。

絵のある待合室372

木村荘八 「くもり日の新緑」1915 10号 キャンバス 油彩  個展出品作(銀座・田中屋美術店)

新発見である。これで荘八の最初期と最晩年の2つの風景画の代表作が揃った。あとは人物の初期名品があればいいのだが…

絵のある待合室373

北澤映月 「待月」 1939 二曲一隻 紙本着彩

富山の業者から入手した若き映月の貴重な代表作である。第26回院展の出品作「待月」と推察される。京都市美術館の学芸員の意見では、『日本美術院百年史』に掲載されている資料(単色小図版)からでは屏風ではなさそうなので、出品作そのものかどうかは断定はできないが、さまざまな理由で同じ図柄の作品が2点以上存在する可能性は十分あり得ることと、京都市美に収蔵されている昭和15年に紀元2600年奉祝展に出品された「明裳」二曲一双の作品に使用された紙本や印章、落款が同じであることが確認できた。いずれにしても「待月」の現存作品がないため本作が唯一の「待月」であり新発見であることには間違いない。映月は大正11年松園に師事後、松園の口添えで昭和7年から麦僊の画塾に転じ映月の号をもらう。麦僊没後は昭和13年から院展に発表することになり、昭和16年には「静日」で院賞を受賞し小倉遊亀に続き女性2人目の院展同人に推挙された。映月は京女の矜持を生涯貫いた筋金入りの日本画家である。松園、麦僊という稀有な才能に師事した底力は師の松園と同じく男社会の画壇にあっても輝く存在であった。熟考された構図の妙をお楽しみください。舞妓さんの輪の中に入っている気分になります。

絵のある待合室374

川島理一郎 「カナル風景」 1925 12号

所蔵している「ナポリ・ポッツオリの岡」「ナポリ・公園前」と同じ1925年の新作画展覧会(東京美術倶楽部)に出品歴のある幻の滞欧作である。2017年2月に入手した。新発見である。川島の滞欧作の素晴らしさは絵好きなら一瞥でわかると思う。更なる再評価をしてほしい作家だ。

絵のある待合室375

二重作龍夫 「彩花」 50F 1983 仏国際展出品作

 朝霧高原からみた赤富士にコスモスであろうか。観ていて幸せになる絵だ。二重作の描く独自の境地からなる富士はいつみても素晴らしい。世界に通用する富士を描ける数少ない洋画家だ。ルーブル買い上げとなったのも富士であった。ちなみにルーブル買い上げとなった日本画家が3人しかいない。長谷川潔、藤田嗣治と二重作だ。世界が認めた二重作の富士を見て頂ければ幸いである。

絵のある待合室376

武者小路実篤 「絵筆を持つ自画像」 1929年9月45才 4F キャンバス油彩 磯谷額縁

過日、実篤が暮らしていた我孫子の業者から購入したこの自画像の調査目的で、平成29年5月7日、武者小路実篤記念館を初めて来館した。落ち着いた雰囲気で老舗の古美術店か画廊を思わせる佇まいは好ましい。早速、学芸員の福島さんに会って尋ねてみた。旧知の平塚市美術館の土方さんからは、同期生であり、優秀な方であると聞いていたので少し緊張していたがやさしい丁寧な対応でホッとした。
実篤は昭和2年に初めて油彩を描くようになるので、、この自画像は最初期に属する自画像になる。昭和4年~6年は時代の流れで執筆の依頼が激減し、失業時代と本人が揶揄するほど生活に困窮していたが、そのおかげで時間に幾分余裕ができ予てから興味のあった画家としての仕事ができる良い機会と捉えたのではないだろうか。その具体的な表れがこの年(昭和4年)の2月に初の個展(日本橋丸善)を開いたり、12月には個人経営の美術品販売や出版の店「日向堂」を開いたりしているからだ。執筆が減った逆行を絵筆に持ち替え、自らの可能性を開くチャンスに転じるのはさすが実篤である。一時でも画家になる意気込みを「絵筆を持つ自画像」として描き、自分を鼓舞したのだろう。眼光鋭い絵筆を持つ自画像の意味が分かったような気がした。覇気に満ちた目力はその決意の表れでもある。この時期の自画像は他にはなく、資料的にも貴重な作品であることが判明した。何かの機会にこの作品も実篤記念館に展示して頂ければ望外の喜びである。

絵のある待合室377

藤松 博 「 壜 」  1970 15M キャンバス 油彩

これで藤松の油彩作品は3点目となった。私は戦後美術の一断面を代表する作家が好きである。藤松はその中でもトップクラスに入る。世に知られている作品やその数は決して多くないが、名だたる美術評論家から高い評価を受け続けてきた実力はれっきとした事実である。作品を見て頂ければその質の高さは一目瞭然だ。更なる再評価を期待したい。

絵のある待合室378

笹村草家人 「裸者の首」 1950年 高さ31.8㎝ 院展出品作 作品集所載

作品集にはその制作過程について草家人が記述している・・・生きている姿の気味悪さである。軍艦大和の最後の試作に描かれている重油の流れる海上に首を出しているたくさんの顔のようなもの・・・死をバックにして生きてきた戦時の体験・・・メイラー「裸者と死者」も好まないので半分読んで捨てたが、そういう思念が潜在していたらしい・・・マスクにして翌年の院展に出したらやはり体験ははっきりしたものであることがわかった。この頃から某に木口に粘土をつけて圧してつける肉付けをやるようになった・・・
草家人の代表作が作品が市場にでてくるのは非常にまれである。これで「鈴木迪三」に次ぐ2点目の遭遇となった。

絵のある待合室379

寺田政明 「牛のモチフ」 1937 4号板 油彩 出品作

2017年3月に版画堂さんから入手した寺田の初期優品だ。この時期のシュール作品は貴重であるばかりでなく、絵好き垂涎の作品でもある。5月21日偶然、ご子息の寺田農さんに平塚市美術館でお会いし、この作品を見て頂く事が出来た。懐かしそうに見入っておられ、「著作権は僕にあるから写真とらせてね」ととても喜んでくれた。作品は遺族にとっては画家本人そのものの感覚があるのだとう。絵をみる眼差しはやさしく輝いていた。

絵のある待合室380

花田一男 作 木彫彩色 『宇牟須牟加留多』 昭和十七年 台座付
人形/奥行24~24.5cm 横54~58cm 高20~21cm 台座/幅36cm 横130cm

花田一男 (1904~1992)は福岡県豊前市生。十二歳のときに直方に移り、直方を故郷として育つ。
昭和14年(1939 35歳)に上京し、芸術院会員の「平櫛田中」氏に師事。その年すぐに院展に入選しその後は、その高い実力が認められ、日展会員になるなど活躍の幅を広げ、世間に広く知られる実力派の彫刻家として名をはせました。【受賞等】昭和14年院展初入選日彫受賞3回藍綬褒章受章・・・が略歴であるが正式な美術教育を受けておらず、しかも遅いデビューのため実力のわりには知名度が低く埋没作家の一人となっている感がある。そこで、花田の第二の故郷である直方市立直方市谷尾美術館の学芸員である市川さんに相談してみたところ以下の回答があった・・・
「花田一男」につきましては、当館の前任の学芸員も調べてはいたのですが、こちらの方でも資料が乏しく苦戦しているところです。とりわけ、10代をどのように直方で過ごされたか、原田人形屋でどのように力をつけてこられたか、という点が詳細にわかっておりません。平成9年5月1日発行の「郷土直方 第26号」内に記載されていたところとこれまでの情報から、原田人形屋の方は、福岡県福津市(旧津屋崎町と旧福間町の合併市)の方から直方市内に移ってきており、地元の宮地嶽神社(旧津屋崎町)にゆかりがあったことで、それを介して花田一男さんは直方市から旧福間町に移ったそうです。東京に出る前の3年半ほど旧福間町にいたそうです。)そして、宮司さんと懇意にされて7・8点ほど作品を奉納されたと記録があります。もしかすると、神社の周辺で何かしらの動きがあったのではないかと推測されるのですが、、、とりいそぎ、申し出のあった作品画像を送付します。現在の作品名、「農婦の像」です。制作された1940年当時は、「鍬」でしたが、、、(皇紀二千六百年奉祝美術展 入選作品)どうぞご査収ください。またあらためてわかりましたら、ご連絡差し上げたいと存じます。
花田は正式な美術教育は受けておらず直方の原田人形屋で修業見習いしていたようです。35歳になって上京し田中に弟子入りするまでの過程が興味のあるところです。いすれにしても平櫛田中に師事したその年に院展入選はその腕の確かさを示すものです。この作品は38歳の大作である。おそらく注文作ではないかと推測している。ウンスンカルタの伝統がのこるのは熊本人吉であり、そのカルタの伝来は伝統文化として保存研究対象となっている。今後の花田一男発掘顕彰の一助になればと思い、横浜の美術修復工房で修復してもらった。桃山時代の唐和髷をしたイケメン2人がカルタに興じる姿は、異文化を我が文化に融合させた日本人の豊かな感性が見て取れる。はるか遠き日本の懐の深さを彷彿させる作品である。

絵のある待合室381

宮崎 進 「踊るマレエの女」 1972~1974 80号 キャンバス 油彩

まさかの代表作である。1972~74までの2年間、パリのマレ地区の古アパートを拠点にターニングポイントになった数々の名品を描いた。そのひとつが本作だ!渡仏した理由が日展の審査員を断るためというから宮崎の人となりがわかるエピソードだ。陶酔して踊る女の姿はしがらみの日本画壇から離れ、フランスという異国の地で絵に没頭し、純粋に描くことに陶酔している宮崎自身の心境の表れかも知れない。シベリア抑留を経験し今も現役で描く巨匠は宮崎しかいない。ご長寿を心から祈っている。それにしても不思議で魅力的な作品だ。

絵のある待合室382

植木 茂  題不詳  60x50x30㎝

大黒屋美術画廊の小畑茂喜さんから無理を言って譲って頂いた植木の優品だ。小畑さんには3年前にも植木の代表作「合」を譲ってもらった経緯がある。この作品も1960年代の制作と思われる。来歴だが旧蔵者が梅田近代画廊から購入し小畑氏が3点買い取り自宅で大事に展示して楽しんでいたと言う。植木の盟友である山口薫の油彩とこの作品がコレボして写っている床の間の暑中見舞いを見て、すぐに連絡を取り翌日にはや強引に商談を成立したくらい感動的な出会いであった。それにしても小畑さんは価値ある良質の厳選された作品を美術館に収める目利きの画商として知られているが、私好みのちょっと渋い植木にも見識があるのは有難い。本作も「合」と同じく漢字一文字の題名が推察されるが現在調査中である。この時期の植木は感情の根源的な状態を造形化しようとしていたと考えれる(田中晴久)。また重要なことは毛利伊知郎氏も指摘しているように、初期作品には同時代ヨーロッパの動向にも関心がありアルプの影響を見ることもあれば、構成的にはピカソの彫刻との関連を見てとることもできる。しかし、木を彫り進むうちに、そうした海外作家のことは彼の眼中から消えて行き、一材から彫出された本作のような様々な姿のブロック状作品を見れば明らかだ。そこには誰もが考えなかった新しいフォルム探究の営みがある。植木は日本前近代の木彫に愛着を示しながらも、そうした世界を自由に飛び出して木による抽象作品という新局面を開拓したパイオニアであった。彼の作品には躍動する生命のかがやきが強く感じられる・・・・この作品に漢字一字の題名を付けるとしたら「 」。

絵のある待合室383

二見利節 「玉ねぎなど」 1934 15号 油彩 キャンバス 第2回東光会展出品入選作

この時期の二見作品が残っていたとは驚きだ。それも出品作である。数年後には坂本繁二郎や木村荘八から絶賛されることになる二見の色が見て取れる。23歳の青年画家の貴重な初期作が、生まれ故郷のふたみ記念館に展示されるのもわるくない。二見も喜んでくれるはずだ。

絵のある待合室384

伊藤久三郎 無題 1964 3F キャンバス 油彩  レゾネ№118

2017年11月、伊藤久三郎没後40年を記念しての展覧会が横須賀美術館で開催された。Qファンにとっては待望の展覧会である。Qの凄さは絵好きにとっては周知の通りであるが、その実力はそれほど世間には認識されていない。1930年の初期出品作を蔵しているが、この作品は1960年前半の作品であり肺病の手術をし回復期にあった頃のものだ。「茨の道も金の道に」という意志が感じ取れる普遍性のある深い作品と感じている。

絵のある待合室385

小山田二郎 「海の幸」 1984 SM 油彩 キャンバス

 戦後を代表する幻想の画家小山田二郎(1914~1991)の『海の幸』図額 油彩 キャンバス サムホール 1984年に「東邦画廊」で開かれた「新作油彩画個展」の出品作 である。個人的には青木繁「海の幸」のオマージュと感じている。当時小山田は愛人と駆け落ち失踪 失踪中にも関わらず連絡を絶たなかった特定の画廊(フマギャラリーや東邦画廊など)でのみ作品の発表を行っていた。当時、小山田の所在は画廊主にも知らされず、作品の搬入も秘密裡に行われたと言う。
 昭和22年、自由美術家協会に入会 同27年、瀧口修造の推薦を受けてタケミヤ画廊で個展を開催、同年共に画家活動をしていたチカエと結婚 同34年、協会の方針に疑問を感じて退会 同46年、57歳の時に突如失踪、愛人(小堀鞆音の孫)のもとに奔る 以後の活動は特定の画廊(フマギャラリー・東邦画廊)でのみ行い、世間との関わりを断つ。
 若くしてシュルレアリスムに傾倒、瀧口修造の推薦を得、世間の注目を浴び、社会諷刺や攻撃的なまでの人間洞察を含むその絵画は画壇に鮮烈な印象を与え、その衝撃的な境遇と生き様、そして後に遺された作品群は今なお独自の光彩を放つ。

絵のある待合室386

伊藤久三郎 「森の路A」 1970 4号 キャンバス 油彩

名古屋画廊での個展出品作である。見ていて飽きないQの不思議な世界が広がっている。見た夢を描くQの作品には、この世のものでない妙な現実感がある。あなたはどんな夢を描けるだろうか?

絵のある待合室387

小寺健吉 「五月の巴里郊外」 1928頃 15号 キャンバス 油彩

佐分真が頼りにしていた先輩画家である。この時期はお互いに滞欧していた。香り立つ深い緑が美しい。

絵のある待合室388

小杉小二郎 「ろうそくと木馬の静物」 1975 40F

ようやく待望の初期小杉作品が入手できた。銀婚式の記念としてT氏から廉価で譲って頂いたものだ。初の作品集(講談社1982年)にも掲載されている代表作である。一見して感じたのは、フレッシュな色合いとコンポジションは様々な過程を経て独自の画風に消化したばかりの新鮮さから感じられる印象なのだろう。小杉の評論は田中正史氏(日光市小杉放菴記念美術館)のものが優れており是非読んでほしい。それにしても初期小杉の優品は所在不明が多いという。次の出会いはいつになるだろうか?

絵のある待合室389

山内滋夫 「撫子」30P キャンバス 油彩

藤沢の片瀬山にアトリエをもつ地元湘南の重鎮画家である。祖父である里見勝蔵作品の調査で知り合い懇切丁寧な対応に山内さんの人柄が出ている。数年に一度お会いする程度だが、お付き合いは意外と長くなった。日本では他に類例のないビビッとな作風は素晴らしい。

絵のある待合室390

東郷青児 「静物」 大正初期 4号 板 油彩 東郷青児鑑定委員会

新発見である。一瞥するや表現主義時代のカンデンスキーを彷彿させる。当時、東郷は山田耕作の交響楽団の練習場をアトリエとしており、その際、ドイツ帰りの山田耕作が持ち帰ったドイツ表現主義の美術書を見たに違いない。この作品のすぐ後から東郷はキュビズムや未来派の影響を受けた作品を次々に発表し時代の旗手として画壇に躍り出ることになる。この作品はその原点になる貴重な作例だ。研究者の今後に期待したい。