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絵のある待合室1 ~100

「絵のある待合室」にようこそ!

力ある忘却・埋没作家の発掘顕彰を目的としたコレクションです。高名高額な作品はほとんどありませんが、日本美術史の隙間を埋めるお手伝いが出来れば幸いです。先入観なく肩の力を抜いてご鑑賞下さい。皆様の心の健康創りの一助になれば幸いです。

当クリニックでは、2つの待合室に常時30点の絵画、彫刻、書を展示し「癒しの空間」として患者様に好評を博しています。

*  現在所蔵していない作品も含まれていますのでご容赦ください。

絵のある待合室1

建畠大夢「井原氏の顔」1941 44cm   直土会第一回展出品作

平成22年4月2日午後9時葉山某所にて、「井原氏の顔」を受け取った。薄暗い交差点の隅っこで、ずっしりした古い箱を受け取り、おもむろに蓋を開け「首を確認してよろしいでしょうか?」「たしかに・・・」と、まるでドラマの1シーンのようだった。まだ肌寒い湘南の夜の出来事であった。今でも夢の中の話であったような気がしている。
この作品の旧蔵者は建畠覚造氏である。昭和46年に和歌山県美で開催された展覧会に出品された27点のうちの1点であり、図版解説にはこう記してある・・・
「大夢の塾展ともいうべき直土会第1回展に井原氏の体とともに出品された。いまその所在を確かめることができたのは、この首のみであるが晩年の傑作である。以前の作品にしばしばみられた文学的な寓意を排し、彫刻的な表現に徹しきることによって豊かな造型性を獲得している」・・・絶賛である。これで大夢の作品は2点目である。1点目は「ほたる」大正12年曠原社第1回出品作である。これも素晴らしい女性像である。
  この「井原氏の顔」を見た友人達は口を揃えて「これぞ彫刻だ!」「悌二郎の若きカフカス人を連想する」と叫ばれる。私の第一印象も若きカフカス人であった。言い換えれば、日本青年のナイーブな心理造型が見事に表現されている日本版の若きカフカス人がこの井原氏の顔とも言えよう。2つ並べても全く遜色のない出来である。大夢作品集の図版にはこの首の石膏像が載っているが、ブロンズはこの1点のみであり和歌山の展覧会から39年ぶりに再発見された訳である。本当に幸運であったと今更ながら美神に感謝している。彫刻好きにはたまらない、そして誤魔化しの一切効かない本当の人物造型彫刻である。大夢の底しれぬ実力が空恐ろしいくらいである。親友の西望曰く・・・「未曾有の大天才が天から降ってきた、彫塑界の驚異であり大先輩の大敵であった」この賛辞もうなづける。大夢の集大成ともいえる晩年の代表作と言っても過言ではない。是非実物を見て頂きたいと思う。

この取引は事前に何度もメールで打ち合わせし決して怪しいものではありません(笑)。心細い私に同伴してくれたのは9歳の次女(条件はファミレスのアイス)であり、本人も少しドキドキしたようだ。将来、彼女も美術品の取引なるものを経験する時には思い出すだろうか?

絵のある待合室2

北村四海(1871~1927):現在は忘却されているが大理石彫刻の第一人者である。滞欧中に結核を得、帰国後27年もの間、喀血しながら名品の数々を世に送り出した稀有の精神力の人でもある。この作品は大正7年の第6回国民美術協会展に無鑑査出品されたものである。タイトルは「妙音」。再評価が待たれる彫刻家である。

絵のある待合室3

川上邦世(1886~1925):院展木彫の鬼才であるこの夭折作家を知る人は少ない。現存確認されている作品は7点にすぎない。この作品は唯一の男性像であり、鬼気迫るオーラとユーモラスな両面を醸し出す邦世らしい優品である。背景の「魔駆」の刻字は印象的である。まさに魔を駆除しようとする正義の男が仁王立ちしているのだ。我が家では鉄人28号と呼んでいる。

絵のある待合室4

高村東雲「金剛夜叉明王」明治7年 木彫 高さ13.5cm(像高9cm)羽下修三旧蔵
関野聖雲箱書き 台裏共書き

高村東雲(初代1826~1879)の名を知る人はほとんどいないと言っていいだろう。その理由は彼が幕末明治の仏師であって作家ではないと認識されているからである。一方で、仏像研究者からは明治時代の作家的な傾向もあるとされ純粋な仏師としての研究があまりなされていないという。江戸と明治の狭間で彼の仕事を正当に研究評価する必要がありそうだ。いずれにしても近代木彫の夜明けは彼抜きには語れない。別の言い方をすれば彼がいなければ高村光雲は存在しなかったということだ。東雲は光雲の師匠であり、幕末から明治にかけて今にも消えんとする木彫の燈明を守り現代に繋いだ大功労者であったのだ。光雲が如何に東雲を尊敬していたかは高村光雲懐古談に詳しい。是非一読して頂きたい定番の名著である。先日、旧知の彫刻研究者に東雲について聞いてみたが、その研究はほとんどされてなく、その理由はやはり作家というよりは仏師のジャンルに分類されていることと、作品の所在が不明瞭でありサインがないものが多く本人作と断定できるものが少ない・・・との事であった。数少ない作品に西行像(平櫛田中美術館寄託)が知られているが、これだけではあまりに物足りない。仏像作品もしかりである。小品であれ、とにかく彼の真作があればその資料的価値は十分あると思われる。今後、この作品がキッカケとなり東雲研究が進むことを期待しているのは、私だけではないと信ずる。

絵のある待合室5

謎の肉筆浮世絵師 田村水鴎
「美人楼上観景図(部分)」30.4×49.0cm について

「絶海の孤島に独特な動植物が進化するに似て、鎖国下の江戸に花開いた浮世絵は、日本人の感性が産み出した至高の芸術です。江戸時代初期から明治時代まで、常に当世風俗への尽きない興味を表し、その親しみ易く享楽的な内容は庶民の指示を得続けてきました。文明開化の世となって瞬く間に洋才が移入する中、欧米にジャポニズムの旋風を巻き起し印象派の画家達にも多大な影響を与えたことは有名な史実です。これこそ世界の美術を変えた和魂のひとつでしょう・・・」と。日本洋画を語るには印象派の影響を避けることはできないし、その印象派に決定的な影響を与えた浮世絵を軽視して、また知らずしては日本洋画は語れない・・・と感じているのは私だけではないはずである。浮世絵と言えば、永谷園でお馴染の広重東海道53次や北斎の富獄36景などが有名だが、それらは絵師の元絵を彫師や摺師が分業で制作した多色摺りの版画である。一方、主に当時の富裕層から注文に応じて絵師が1点毎に丹念に制作した肉筆作品も存在する。流麗で繊細な墨線、艶やかで豪快な色彩感覚と自由な構図を特徴とする肉筆作品は絵師の感性と技量が新鮮に伝わり、版画とは別趣の魅力を放ちコレクターを釘付けにする。浮世絵と言えば美人画であり、3世紀の歴史の中での美人の変化を不変、微変と観るか多種多変と観るかは非常に興味深いところであるし、自分好みのマドンナはどの時代のどの絵師の作品かを探すのも楽しい。
さて、話を元に戻そう。田村水鴎という肉筆浮世絵師のことをご存知の方はかなりのツウであろう。浮世絵人名価格辞典(北辰堂)では{肉筆}450万生没年不詳、京都の人で作画期は元禄から享保?(延宝~元禄の説)。全て肉筆で菱川風。土佐派を思わせる技法も見られ遊里、遊女を描いた美人画が多い。一説には女流絵師ともいわれる・・・とある。世界浮世絵学会員のS氏も水鴎の名品を所蔵されているが、この絵師に関しては資料が乏しく謎が多いという。東博はもちろん有名美術館や国内外の1流コレクターには必ず水鴎作品は所蔵されている。たとえば熊本県美の今西コレクションは1級の浮世絵コレクションとして知られているが、浮世絵蒐集にその一生を捧げた今西氏が最後に蒐集した作家こそ田村水鴎であった事は興味深い。私の所蔵している少ない水鴎の資料に“季刊浮世絵”№7・1963があり、その中に水鴎論が特集されている。金子孚水氏と吉田瑛二氏が謎の絵師、水鴎への熱い思いが語れている興味深い内容である。両氏は、水鴎の作画期は天和期からで、師宣の後を追っている存在でなく師宣と併走した存在であり、むしろ師宣が水鴎の流れに育った絵師としていいのではないかとしている。その理由は肉筆として師宣以上に確かなものを持っていると見るからである。構図においても設色においても師宣よりもかっきりとした本格的なものを身につけているのが、その絵によって知ることができる。水鴎は師宣よりも何か1本の筋を持っているということである。このことは非常に重要である。菱川師宣は浮世絵の開祖と言われており定説となっているが、その師宣が影響を受けた可能性があるのが水鴎とすると、菱川派は田村水鴎の流れを汲むという大変な事になるからである。推論とは言え金子、吉田という浮世絵研究の世界的権威が文章として発表すること自体が、水鴎に対する正当な評価を促すきっかけとなればいいのだが仮説のまま、あれから40年の月日が経ってしまったようだ。さて、水鴎の作品について考えてみよう。これだけの腕を持ちながら、水鴎作品が話題に登らなかった理由は、①無落款のものが多い②師宣が強烈な存在③浮世絵商や収集家が版画専門の人ばかり・・と考えられている。実際、水鴎作品を扱っているのは、一流の骨董商でありその作品は常に表具が立派でありどれも昔から由緒が正しく、大切に伝来されたものが多く、版画が主な浮世絵商の手にはかかりにくかったようだ。このように浮世絵肉筆の大先輩であり、有名な研究家、収集家といえども水鴎の作品に接することがいかに少なかったかを知るのである。このことが水鴎を謎の絵師として埋没させてしまった遠因である。物故埋没洋画家・彫刻家と同じである。
今回、取り上げた「美人楼上観景図」30.4×49.0cm 紙本彩色を見てわかるように、いわば日本画の基礎といえる狩野派と土佐派の影響が見て取れる。菱川派に似ているが衣装の線を単純化し、独自の表現法で醸し出す画品とスケールは他の追随を許さない。美人を巨大に描いているのは村上華岳の美人画を彷彿とさせる。そしてシュールレアリズム的な不思議な構図も楽しめる。また水鴎作品のもうひとつの見所は立派な表具である。軸先は唐木千段巻撥。中廻しと一文字は辻が花(江戸前期)の初表装。この表具だけでも200万円かかるとは驚きである。我田引水であるが一度観たら感嘆の声を漏らす様な逸品であると思う。当時の官展アカデミズムとも言うべき狩野派と土佐派に庶民芸術である浮世絵モダニズムが見え隠れする、新しい日本画を予見する作品でもあろう。
今後、日本の絵画芸術が世界に広がるヒントが浮世絵にあるような気がしないでもない。鎖国という不自由な時代にもめげず心の自由を謳歌し産まれた、日本が誇る庶民芸術の粋が浮世絵であったのだ。現代はその反対である。便利になった分だけ、貪欲に心の自由を求める力が減退しているようだ。浮世絵の時代、好きな美人を風俗を勝手気ままに自分の個性と技量で描きまくった無名の絵師達に、遥かなる思いを乗せて指を置くこととする。乱筆乱文お許しあれ。

絵のある待合室6

伝説の木彫家 戸田海笛
戸田海笛「労働者」(仮題)1918頃 74x31x38cm

2008年2月10日~3月16日に米子市美術館で戸田海笛展(生誕120周年)が開催された。当に埋没している地元作家を世に問う地方美術館としての使命溢るる素晴らしい企画(担当は今香氏)であった。
さて、海笛とはどんな人物なのか?一般に知られているいくつかのプロフィールを載せてみる。A.戸田海笛(とだ・かいてき)  1888-1931年 享年42歳。米子市生まれ。少年時代から芸術の道を志したが、家人の反対にあい家出放浪を繰り返した。1909年、上京し、安来市出身の彫刻家、米原雲海の門をたたく。15年、文展に初入選以来、連続出品し、才能を認められた。性格は奔放大胆。作風はタッチ鋭く豪快。興に乗って描いた鯉、竜の墨絵は雄こんな筆致が見事。23年、パリへ単身留学して羽織、袴(はかま)の名物男として修業を続けたが、病を患い客死した。藤田嗣治は実家にその死を知らせるとともに、晩年について詳しく書き送った。現存する作品は極めて少ない。B.米子市両三柳生まれの彫刻家。1909年上京後、米原雲海・岡倉天心に師事し、天心より「海笛」の号を受けた。海笛の郷里が海に近いところから、死しても鳴るとの意味であるという。その後文展・帝展に入選し1923年パリへ単身留学、パリでは彫刻のほかに鯉などを描き、「ポワッソンの戸田」と呼ばれ、パリ現代美術館に作品を買い上げられるほどの評価を得た。米子が生んだ世界的な彫刻家である。C.本名久輝。1888年鳥取県会見郡両三柳村(現在の米子市両三柳)の旧家の農家に生まれる。芸術家になることを決心し、1909年に上京。彫刻家米原雲海に師事し、東京美術学校の聴講生や、岡倉天心のもとで指導を受けた時期もあった。1915年の第9回文展に木彫《サロメ》が初入選、以降文展に4回、帝展に2回入選を重ねる。その後フランスに留学し、彫刻のほかに魚を描いた絵が評判となり「ポワッソンのトダ」(ポワッソン・・・フランス語で「魚」)と呼ばれたが、渡仏後8年目の1931年、帰国前に病に倒れ死去した・・・以上が主なものである。
  この作品の情報を旧知の画商から聞いた時は、「本当だろうか?」との驚きと、あの「栄光と風評に包まれた悲運の鬼才」に思いを馳せた次第である。作品を実見した時の感動は今も鮮明である。本当に立っているのだ!また米子の戸田海笛展にも新発見(個人蔵)として出品された「曠野」大正7年作と同型同大の作品であったのだ。師米原雲海からの信頼も厚く、早くからその才能は開花していた。私の友人でもあり現代木彫の雄である吉田直氏(次代を担う逸材と目されている)にも見て頂いたが、この作品の卓越した技術を感嘆してくれた。仏師としての基礎訓練を積んだ彫刻家だけが辿り着く近代彫刻の頂は大正期にあると感じている。この作品はその良い例であろう。
戸田海笛については越河繁明氏の「戸田海笛」立花書院が最も優れた評伝であるとされているが入手は甚だ困難である(小生も探している!)。今でも海笛が活躍したフランスからもこの本の依頼があるが出版社でも在庫がなく困っいると言う。あとは断片的な記載が伝わっているだけである・・・その本はと言えば・・・「ねむれ巴里」金子光晴、「異邦人の生涯」近藤史人、辻潤全集3巻などであるが、基本的には藤田嗣治や薩摩治郎八関連の本には必ずと言っていいほど登場する人物であり、その特異な活躍は当時の邦人留学作家からもフランス人からも評価され、注目されていた存在であったことには間違いない。しかし、渡仏してからの活躍の中心は日本画(尾竹竹波門)であり、本来の彫刻ではなかった。しかしながら巴里で自立できた数少ない作家であったし、きっと近い将来、本来の目的である木彫でフランスに美術革命を起こすつもりであったろう・・・滞欧中弟子への手紙にこうある「西欧は絵も彫刻も全部行き詰ってますから、将来は木彫の世界です。今に見ていてくれ。木彫は形でなく、気持ちの表現で東洋的です」・・・と。そして42歳という若さで客死し、現在は忘却の彼方に追いやられてしまった。
海笛についての記述には多くの間違いや偏見があるようだ。尊敬する笹木繁男氏にもご尽力頂いたが当時の正確な資料は限られており、なかなか大変であるとのこと。この作品を含め現存確認されている海笛の作品は20点くらいとされている。いずれにせよ、「大正期に本気になって木彫で西欧に殴り込みをかけた彫刻家が存在した」という事実は、日本の彫刻史に記憶されていいと思う。

日本木彫界のドンキホーテに再評価を!

絵のある待合室7

宮本朝濤「木花之佐久夜毘賣」1940年    2012 群馬県立館林美術館「色めく彫刻」展出品

高貴な艶と緊張感あるフォルムは襟を正さずにはいられない。技術+α、このレベルの木彫は一瞥で判るものだ。宮本朝濤(みやもと・ちょうとう 福岡出身 1909~1944)を知る方はいるだろうか?山崎朝雲の朝の字を許された最後の愛弟子(10人目)である。20歳そこそこで日本美術協会展での受賞(3等銅牌)を皮切りに同14年まで8回の受賞を重ねる。11年文展で選奨を受け17年には無鑑査となり18年朝雲の紹介で山本五十六像制作のため海軍に入るが制作前に横須賀海軍病院で急逝。これからという時にである。夭折の作家の数少ない作品を入手するたびに私はその無念さを晴らそうと思うのがクセになっているようだ。
  高さ71cmの堂々たる名品である。私の所蔵する数ある木彫作品の中でも+αを持っている一つである。実物を見て頂ければ納得して頂けると思う。昭和15年に第1回福岡美術協会展に同じ題名の作品が出品されているが、この作品はそのバリエーションと考えられる。神話の世界では姉の岩永比売も有名であり、計らずも北村四海作の岩永比売を所蔵していたので、これで姉妹が揃ったわけだ。この姉妹には夫(天御子)の寿命(姉)と子孫の繁栄(妹)の意味が込められているので姉妹両方とも大事にしないと大変な事になります!ニニギノミコトのように容姿で選ぶという事は慎むべし慎むべしです。

後日、福岡県立美術館のU氏からこの作品についてのご報告を頂いので、参考までに補足させて頂きます。

平園賢一様

福岡県立美術館のUと申します。
宮本朝濤の作品写真お送りいただきありがとうございました。
確かにとても魅力的な作品と思います。すでに『福岡県の近代彫刻』図録をお持ちとのこと、それ以外の資料が何かあるか調べてみました。当時の絵はがき数枚のモノクロコピーがあり、図録125ページの図版のもとになった、1940年第1回福岡県美術協会展の出品作以外に、もう1点、ほぼ同形の作品がありました。細部があまり鮮明に出ていないモノクロコピーなので、正確ではないかもしれませんが、平園様の作品と見比べると、台座が円形であること、下半身に花柄が見える(上半身は白くとんで見えない)ことは共通しますが、
着衣よりも帯の方が濃い着色であること、顔立ちの印象がやや異なるように見えることから、おそらく別作品と考えられます。よって1940年出品作と御所蔵作、絵はがきの作品と、少なくとも3点、姉妹作が存在したと考えられます。当館でわかる情報は、これしかありません。残念ながら当館は朝濤の作品を所蔵しておりません。今回の情報は、作家ファイルに加えさせていただきます。また将来、ご所蔵作品を企画展等への出品をお願いすることがあるかもしれません。もし、そのような機会がありましたら、ご協力くださいますようお願いいたします。では、貴重な情報をお知らせいただき、重ねて感謝申し上げます。
福岡県立美術館  学芸課 Y・U

絵のある待合室8

菊池一雄「若い女B」1952 32cm

2011年8月、菊池一雄の代表作を入手できた。第16回新制作展の出品作であり唯一の鉛による銀渡金である。なぜ鉛なのか。それは鋳造後に手を加えるのが容易であるからだ。おそらく作家自身が鋳造し手を加えたのだろう。この作品に対する作家の特別な思いが感じられる。
さて、菊池は祖父に芳文、父に契月を持ち、東大文学部美術史学科に学ぶ傍ら、藤川勇造に師事、渡仏しロダンの高弟デスピオにつき、帰国後は京都市美の教授、東京芸大の教授を歴任した。その間第1回毎日美術賞、著書「ロダン」で毎日出版文化賞を受賞している。戦中は海岸防衛部隊の中隊長として決死の任にあたった偉丈夫でもあった。
20世紀日本彫刻物語によれば、日本の具象彫刻の芸術思想は昭和20年代の新制作協会が中心に展開したとある。その主なメンバーが菊池、柳原、本郷、佐藤などであった。特に、菊池の仕事は滞欧期1936~1939に築かれた肉付けのきめ細やかさと密度の濃さを存分に発揮していて高い評価を受けた。木内が古代ギリシアとすれば菊池が古代イタリアのエトルリア美術に感化されており、この二人がともに当代の美術を学びに滞欧し、古代美術の影響を戦後の日本彫刻界に持ち帰ったことは興味深い。

菊池をよく知る人物の菊池評・・・・・

井島氏・・・温雅な作風の中に滋味、繊細で典雅な感性をまとった深い叡知
故藤川勇造夫人・・・絶対の信頼感、あたたかな師弟愛
高田博厚・・・日本美術家に欠けている「感性を通しての知性」を持っている
堀内正和・・・菊池は眼がよかった
本郷 新・・・絵画的彫刻がはんらんしているが、菊池さんの作品はいつでも立体としての彫刻になっている。倶長抽象を問わず絵画的彫刻は愛想はいいが頼りない。彫刻は無愛想いいのだ。「立体としての彫刻」を日本近代彫刻史に据え置いた彼の力量は、世間の人のあまり気付かない立派な業績である。
船越保武・・・私が一つ考える間に彼は十、二十も考え予想し、計算し、それを熟考し制作する、恐ろしいひと。これほどの人を私は他に知らないほどです。
柳原義達・・・デスピオの名は、自然を探り、自然を愛し、それを音楽のように組み立てる造形家として最も新鮮な感動に満ちていた。菊池さんはどちらかというとデスピオに近い作家でしょう。
今泉篤男・・・日本で初めて彫刻家らしい彫刻家の作品に接した。私は菊池の作品のモドレ(肉付け)の美しさに驚嘆したのである・・・ロダンの言葉の中に「肉付けは彫刻家の心だ」というのがある・・・菊池の肉付けは愛情のこもった肉付であり、しかもその愛情は抑制された愛情である。
菊池一雄・・・自著「ロダン」あとがきより
        私は、新しい彫刻の前進の為に、もう一度私たちが近世以来見失ったものを探りたいと思った。然しルネサンス以前(ギリシアのタナグラ、エトルスのテラコッタ、ゴチックの木彫)はあまりに遠く、あまりにも単純素朴でつかみ難い。そこで私は彼らと私を結ぶ線の上にロダンを置いて、失ったものを見出す何かの手がかりにしたい・・・

菊池一雄の名は知っていても、その作品を積極的に入手しようとは思いもしなかった。しかし、この作品を一見し、名品の格が全身で感じられ頭が熱くなってきた。古代の芳香が鼻をついた。私の好きなデスピオの弟子である事も気をよくした。院展中心の発掘顕彰を軸にしつつ、他の作家も先入観なくイイものは蒐めて勉強し、審美眼を磨いて行きたい。

絵のある待合室9

木村荘八1917年頃「卓上の花」4号 油彩

早熟の異才、荘八の初期油彩である。日本人の薔薇は欧米人のそれと違い、「散ることを意識して描いている」とは識者の意見である。桜の文化が我々のDNAには組み込まれているようだ。この薔薇もまさにその薔薇である。

絵のある待合室10

砂澤ビッキ「木面」1975  52.5×20.5cm  メスがオスを抑え込んでいる。オスは割れ目のある撓んだ球形の中で串刺しにされ、その動きは極度に制限されている。しかしオスはそれに気づいていないのだ。 ビッキの木面シリーズはその造形の中に、生物学の根本原理<メスとオス><女と男>がシンボリックに表現されており非常に興味深い。 福岡伸一氏の問題作「できそこないの男たち」光文社は、刺激的な内容だ(抜粋)・・・生物の基本仕様は女であり、無理やり作り変えたものが男である。そこには作り変えにつきものの不整合や不具合がある。つまり、生物学的には、男は女のできそこないであるため、寿命が短く、病気にかりやすく、精神的にも弱い。しかし、できそこないでもよかったのである。所期の用途を果たす点においては。必要な時期に、縦糸で紡がれてきた女系の遺伝子を混合するための横糸。遺伝子の使い走りとしての用途のために女が産み出したのだ・・・一見、オスこそが世の中を支配しているように見えるのはなぜだろうか。それはメスが欲張りすぎたからだ。卵を産んだあとオスが子育ての役割を担う種は限られている。それは本来、オスがメスから作り出されたときに予定されていた役割ではない。おそらくメスがそのうち気づいたのだ。遺伝子を運び終わったオスにまだ使い道があることに。巣を作る。卵を守る。子供の孵化を待つ。そのための資材を運ぶ。食料を調達する。メスの代わりをして、メスに自由時間を与える・・・それは今日、女たちは男に、子育てのための家をつくらせ、家を暖めるための薪を運ばせ、食料を確保することは男の最重要の仕事となった・・・男たちは薪や食糧、珍しいもの、美しいもの、面白いものを求めて野外に出た。そしてそれらを持ち帰って女たちを喜ばせた。そして今度は男たちが気づいたのだ。薪も食料も珍しいもの美しいもの面白いものも、余分に得られた時にはこっそりどこか女たちが知らない場所に隠しておけばいいことを。余剰である。余剰は徐々蓄積され、交換され、貸し借りされ、それらを記録する方法が編み出され、時に余剰は略奪され、余剰をめぐって闘争が起きた。秩序を守るための取り決めと破った時の罰則が定められた。余剰を支配するものが世界を支配するものとなるのに時間はそれほど必要ではなかった・・・・ 初代の文化庁長官である今日出海は「余裕」が文化を産み出すと言った。余裕とは余剰である。精神的・物質的な余剰が文化を創るのは歴史の真実であろう。その余剰はメスの欲が産み出したのは皮肉なものだ。気の遠くなるような遺伝子の連鎖すなわち生存の連鎖には、<メスとオス><女と男>における本当の関係が潜んでいる!このビッキの木面はそのことを、<できそこないの男たち>に思い出せ!とばかりに窮屈にぶら下っている。 メスの使い走りとして、せめてもの代償としてオスが手に入れたのが余剰であり、そこからから蒐集という行為は生まれた。皮肉なものだが、それは当にオスの遺伝子の為せる業であったのだ・・・女性の皆様!どうかご寛容のほどを。

追記: 2012年12月、この作品は懇意にして頂いているY教授(美術史)の所にお嫁入りする事になった。ビッキ顕彰の役に立つ事だろう。

絵のある待合室11

新発見!千野茂の石膏彫刻 膝つける裸婦 1950年 石膏 90cm
千野茂という彫刻家をご存知であろうか。私としては、東京芸大の教授であり、温和で質素な裸婦像を得意としていた…くらいの認識でしかなかった。この作品は1950年の石膏像であり、高さ90cmと大型である。台座後部に昭和25年茂作と刻銘がある。1950年と言えば院展第1回大観賞を受賞した年の作品でもあり、同じモデルの立像が田中美術館に所蔵されている。千野の回想から推測して本人も残念がっていた行方不明の作品と考えている。 さて、千野茂の研究者である大垣女子短大の鈴木正道氏は、論文の中で次のように千野彫刻を分析している・・・千野彫刻の最大の特徴は触覚に優先性をおき、視覚的に見ないようにしている。その表現方法の最も適しているのが粘土でありマイヨールでいう石膏の直付けという材質である…千野本人も「朝鮮李朝古陶磁のような肌のものを裸婦の肌に織り込んで表現したい」と言っているのはブロンズより、むしろ触覚性に富む粘土や石膏という素材を重要視している点で興味深い…人間の感覚の中では視覚が他の感覚より強い。鑑賞者の第一印象としては、視覚的にとらえることだろう。千野は独自の理論(触覚的彫刻)で他の彫刻家と異なる日本の彫刻を裸婦というモチーフで追及した孤高の人でもあったのだ。彫刻のもつ本質を視覚的なものを一切取り去り、一見平凡に見えながら…千野作品は鑑賞者が視覚的に見ないように、むしろ誇張された表現、強い線や陰影を弱め、触覚的に鑑賞するように誘導しているようにさえ見える・・・  少々、小難しくなってしまったが、私たち鑑賞者から見れば、彫刻はブロンズが完成品であり、粘土や石膏はその前段階という認識でしかない。謂わばデッサンと本画の関係である。一般的には作家の理想や思いがダイレクトに表現されているのが粘土や石膏であることを私たち鑑賞者は気付いていなし、その段階での作品を観ることも触れることもないのが現状である。私たちは彫刻家が粘土から忠実に石膏で型を取り(1つしかできない)、それを原型にブロンズを抜く(複数できる)ことを知っている。そう考えると、オリジナル(理屈で言えば粘土が原型)は粘土を型に取った石膏作品にあるのであってブロンズはそのコピーである。もちろん、そのブロンズがいけないという問題ではないが、千野のようにブロンズ化しないで石膏のまま代表作を保存しているのには、それなりの理由があったのだ。私にとっては新鮮な驚きであった。ブロンズ化するにはお金が掛かるので、石膏とはブロンズという完成形の為のとりあえずの形として理解していた自分が恥ずかしい。考えようによっては、石膏こそが完成形であり、ブロンズはその保存形であるというのも正論である。知人の彫刻家も同じことを言っていた。 千野茂に関しては、千野茂彫刻展図録(1989)、千野茂作品集(1990)があり千野芸術が概観できる。特に作品集や展覧会図録のトップページや表紙が石膏作品であることに違和感があったが、ようやく理解できた気がする。また、1994年の鈴木論文「千野茂の彫刻」…千野茂彫刻における触覚性を中心として…もお薦めである。電子ライブラリーとしてネットで検索できるようになっている。 誇張を避けた彫刻は、千野の信条とは別に地味な作風として黙殺されて来た感があるといえばある。多くの芸術家が渡来の飛鳥仏や天平仏を仏像彫刻の最高峰としているが、日本の心は藤原仏にあると千野は考えており、そのような彫刻を理想とし裸婦に置き換えて一生涯制作してきたことを忘れてはならない。 この作品は若き時代のひとつの頂点となった代表作であるが、来歴ははっきりしない。立派な誂えの台に木彫りのプレートが付いているので、ロビーの脇にでも展示してあったのだろうか。1950年彫刻ではただ1人、記念すべき第1回院展大観賞を受賞した折、口下手な千野に対して「あなたは作品にものを言わせればよい」と大観が慈父のように千野をかばった逸話が残っている。舟越とともに芸大を退官(S55)した際に、学生から送られた卒業証書がある・・・貴殿は東京芸術大学美術学部彫刻科に於いて半世紀にわたり、文学青年らしく、きよく女子学生に愛され、男子学生にしたわれ、小さな体で大きな影響を与え続け、それは今日の芸大の小さな巨人でありました。又、その人柄は美校の温厚な教育者として知れわたっておりました。その光明としての存在を広くたたえ修了されたことを証明します。東京芸術大学美術学部 学生一同

絵のある待合室12

建畠大夢「ほたる」大正12年 1尺4分 曠原社第1回展出品作 ブロンズ 建畠覚造箱書き 建畠大夢作品集(昭和18年)NO14図録掲載
言わずと知れた「文展3羽がらす」の一人である。作品集の序文に、親友北村西望曰く「美校生の間では未曾有の大天才が天降ったとみんな云った。彫塑界全体の驚異であり、又多くの大先輩の大敵でもあった・・・終始一貫自分の道をかたく信じて疑わない、従って失敗もした事が無い、制作中に相談がましい事は間違っても云は無かった実に珍しい存在であったと思う・・・心中何時も何か画策していたらしいが側から一寸見たところでは悠然として遊んでいる時が多かった、この処が凡人と違うところでまことに天才に違いなかった。それにあの竹を割ったような性格も好きだった。真に作家らしい作家であった・・・これやこの櫻大樹かれて春さびし」。62歳でこの世を去った盟友を思う西望の心情が吐露されていると思う。 大正期の彫刻の魅力に取りつかれ、コツコツ蒐集している私であるが大夢作品は数も少なく半ばあきらめていた。大夢も創立会員である八つ手会メンバーである国方林三の作品が3点集まり、南紀美術会の保田龍門(石膏レリーフ)、川端龍子、下村観山作品を蔵している様子に気付きそろそろ大夢作品もこれら親しい仲間に呼ばれて出てくるのではないかとコレクターの予感が当たったわけである。 この作品は東美教授就任の3年後(43歳)に制作し、記念すべき曠原社第1回展に出品された代表作である。小品(オリジナル)だが大夢の制作における境地(思想)というものが伝わってくるようだ。とにかく大正という時代にしか作れない作品であることは間違いない。 ところで、 腕に止まった「ほたる」をそっと覆う仕草を現代人は出来るだろうか?

絵のある待合室13

荒井龍男「坐像」6F1952年キャンバス油彩

「荒井の赤」は美しい。朱色を基調として傑作を世に送り出していた頃の優品である。荒井の赤を基調にした裸婦像はこれ以外見たことがない。血の色、変化、卵子を象徴する赤、そして骨、普遍、精子を象徴する白・・・この裸婦像は「荒井の赤」と白が混じり合った名品と思っている。長谷川利行の裸婦に匹敵する生命の躍動を感じる。

絵のある待合室14

北村四海「イヴ」1915である。現存する四海のイヴ3点のうちの1点であり、2番目に大きい63cmとされる。大正期の大理石彫刻の頂点と評価されている作品の別バージョンであるが、その作域はオリジナルと遜色はない。宮大工の浮き彫り、木彫、牙彫から留学時代の徹底した解剖学研鑽、そしてアールヌーボーとロダニズムの影響下で制作された傑作である。明日をもしれぬ結核と闘いながら、日本人の四海でしか成し得ない普遍的でしかも無常観の漂うイヴである。日本大理石彫刻史に不滅の金字塔を立てた男を忘れてはならない。

絵のある待合室15

中村忠二「文字 RSALXME TOKIO」 104×70cm モノタイプ 1968 中村忠二(1898~1975)は故梅野隆さんから教えてもらった。梅野さんが発掘顕彰した画家は数多い。その中でも中村忠二は特別な存在である。梅野さんが愛した作品の中に忠二の「夜の沼」モノタイプ1967がある。私も好きな作品だ。忠二は1960年から一枚しか刷れないモノタイプ版画を制作、特に1960年代後半は抽象的モチーフとなり頂点となった。忠二が創り上げたモノタイプは日本絵画史に残るとされている重要な仕事である。梅野さんも「彼の抽象画、心象画に未だかつて日本人が描いたことのない秀れた芸術を見た」と結論づけている。梅野さんが所蔵し、現在東御市梅野記念絵画館が所蔵している忠二の傑作に「文字 東京暮雨」104×70cmモノタイプ1968がある。私が忠二と言えば思い出すのがこの東京暮雨であった。それくらい忠二芸術のひとつの到達点である作品であるのだ。この類似作品を長年探していたが巡り逢わなかった。唯一、1993年羽黒洞とギャラリー内村が開催した中村忠二展の中にRSALXME TOKIOが知られているだけであった。梅野さんが亡くなり3週間経った頃、ネットで渋沢和彦氏が「美の神を呼んだ男」として梅野さん追悼の記事を書いてくれた。そこには梅野隆が愛した中村忠二の作品と題して「夜の沼」が掲載してあった。その日の午後、旧知の画商からこのような連絡があった・・・7月に忠二のコレクターから約20点の優品を一括で購入した。すぐに別のコレクターが泣く泣く1点を残し全て購入した。その残った一枚が何とあのRSALXME TOKIOであったのだ!ああ梅野さんありがとう。思わず声が漏れた。東京暮雨が夕暮れの東京の雨とすれば、このRSALXME TOKIOは真夜中の東京の雨であるかもしれない。予備校時代、中野区新井の寮で1人路地裏の雨とその音に身を任せていた頃を思い出した。意味不明のRSALXMEが悩ましく心地よい。これで、ようやく晴間が見れそうだ。

絵のある待合室16

北村正信「若い女」1917年第11回文展入選作である。四海の嗣子であり、太平洋画会で師父である四海から一子相伝で彫刻の極意を学んだ。特に四海亡き後の大理石彫刻界では原野を一人行くが如くであった。その孤高は多くの芸術家から尊敬された。若き正信28歳のこの作品は、四海の正当な継承者としての証でもある。

絵のある待合室17

里見勝蔵は私の尊敬する画家の一人である。近代日本洋画界のために多くの若い画家たちを表舞台に引き上げた人材育成の大功労者でもあるからだ。また師であるブラマンクを生涯にわたって敬愛した報恩の人でもあった。この作品は初期滞欧作「シャポンバルの寺」1923頃である。ゴッホも描いたパリ郊外のシャポンバルには一度は行ってみたいと妻と話している。

絵のある待合室18

二重作龍夫「ベニスの英雄」1970年 100号
二重作龍夫は故義父の友人でもあった物故近代洋画家である。国内で数々の受賞歴を持ち、将来を約束された中堅実力作家だったが、日本画壇の封建的閉鎖的体質を良しとせず全盛期46歳の時に日展を脱会、裸一巻世界に打って出た。当時、その思い切った行動は内外に大きな波紋を投げかけた。50歳を過ぎ、仏語もわからぬまま渡仏を繰り返しながら、腕一本で本場フランス画壇に討ち入り、快進撃が始まった。ル・サロン金銀銅、仏芸術院賞、仏国際展大賞、コロー賞(日本人2人目)そしてルーブル美術館買上に至り、日本で忘却されようとしていた水戸っぽ洋画家は、日本画壇に凱旋帰国となった。日本人離れしている線と色彩感覚は世界の人々を魅了し、その写実では表しきれない大らかさと装飾的構成は桃山時代の狩野永徳すら彷彿させる。この作品は第4回滞欧時にサロンに出品し銀賞を受賞、絶賛を博した出世作である。栄光に輝く威風堂々たる騎乗のヒーローと逞しい筋骨をもつ馬との、まさに“鞍上なく鞍下馬なし”の見事な一体感が、それ自体魅力十分な名作である。雄健な筆力と雄渾な色のマチエールは異邦人とは言え、本場フランス画壇でも認めざるおえないほどの作品であったのだ。「背後にある麗しのベニスは私が守るのだ」との二重作の声が重なって聞こえてくるようだ。

絵のある待合室19

川島理一郎  「卍字楼」 1939年 12F キャンバス 油彩

川島従軍時代の名品であり、画集や美術雑誌などに紹介されている川島の代表作でもある。五彩の輝きは中国陶器のようである。幻と言われていた初期滞欧作を2点所蔵している私にとって、川島の全貌を知るにはその従軍時代の優品がどうしても必要であった。数多の洋画家がいる中で、ぐるりと回って元に戻ると、やはり「川島でしょう」という事になる。「東洋のマチス」「西洋の池大雅」の異名を持つ彼の油彩は、日本人でしか描けない世界に通用する特質を十二分に備えている。ただただ、画品高く颯爽と美しく大胆だが繊細、当に明治人+コスモポリタンの川島でしか描けない香り高い作品なのである。誰がこの作域に達する事が出来ようか!先入観なくゆっくりご覧下さい。どうか、皆さんも「やっぱり川島でしょう」という事になりますように。

絵のある待合室20

小泉清の「裸婦」1954~1956である。現在は伝説の画家の一人として君臨している。 小泉八雲の三男であり、学生時代には会津八一から天才と言われ、里見や梅原からその才能を絶賛、いわゆる文化人や玄人好みの異才であった。日曜美術館で放映され一般に知られるようになったが、寡作のため人目に触れることは少ない。溶岩よのうな底光りするマチエールとインパクトある構図は、その複雑な血脈がなす業であろう。小泉の裸婦はこれからも小泉の裸婦であり続ける。

絵のある待合室21

喜多武四郎  「憩ふ女」 1941 高さ44㎝

再興第28回院展出品作である。座台後面には昭和十六年六月造 寒泉道人と刻銘がある。武四郎43歳の優品だ。
喜多武四郎論は基俊太郎氏のものが知られており優れている。如何に武四郎がスゴイ彫刻家であるかは、ロダン、荻原守衛、戸張孤雁、石井鶴三の系譜を知らなければ理解できないようだ。基氏曰く・・・喜多武四郎の知名度は今の美術ジャーナルでは1パーセントあればいい方で、道具屋や市にまぎれ込む喜多のブロンズを掘り出す目利きとなるとそうざらにいない。これがプロフェッショナルを欠いた文化日本の情況である・・・と嘆き断じている。基氏はまた、「喜多彫刻」とは、ロダン以後の近代彫刻史の中にポスト・ロダンとして現れた新星であると論じている。そしてその影響力は現代に至るまで知らず知らずに近代日本彫刻の底流に今もなお力強く流れているのだ。「喜多彫刻」とは何か、極力簡単に言えば対象から余計なものを捨て去り残ったもの、おかずに頼った御馳走でないメシの味がする彫刻、何も足さない、何も引かないピュアな彫刻である。彫刻家たちは喜多の事を畏敬の念を込めて「稀有の人」と呼んでいた。自信の人、石井鶴三でさえも年下の喜多の作品を座右に置き皆に自慢げに見せていた、その小品を見たイサム・ノグチは絶賛したが、他の人は首をかしげていたと言う。ピュアな彫刻がわからないのだ。鶴三は粘土に生命を興へるのが喜多君で、木材に生命を興へるのが橋本君だと若き院展彫刻家に賛辞を送ったのは有名な逸話だ。会津八一も喜多を愛した1人であり、喜多の寒泉の号は昭和3年に八一から贈られた「寒泉石鼎」(貧乏に屈せず清らかに起居しなさいと言う意味)から取ったと推測されている。

ポスト・ロダンのピュアな彫刻・・・喜多彫刻が歴史に残ることは間違いない。

絵のある待合室22

中山巍の滞欧作である。私の大好きな画家である。中山が当時夢中であったエル・グレコの影響が見て取れる。目がパッチリなこの西欧婦人は私の妻に似ているだ!?
この作品は大先輩のS氏から受け継いだものだが、30点を超す中山コレクションの中でも愛すべき逸品である。更なる再評価・顕彰をしていきたいと決意している。

絵のある待合室23

木内克(1892~1977)と言えば、在野の巨匠として認識されている彫刻家である。特にテラコッタを初めて日本に広めた功績は重要だ。彼のテラコッタの代表作は何と言っても東近美所蔵の「女の顔」1929であろう。この作品はその4年前、つまり原勝郎から窯業家ラシュナルを紹介された年に作られた木内克テラコッタの原点でもあり、最初期の優品である。台座にはローマ字と漢字の2つのサインが刻銘されており、年記も1925と1926の2つが刻銘されている。そのフォルムとアルカイックスマイルはまさにギリシャ彫刻そのものである。若き日の古代への憧れが見て取れる貴重な作品である。

絵のある待合室24

小山田二郎「猫と少女」油彩 SM

小山田二郎(1914~1991)と言えば、全国にコアなファンがいる。好き嫌いがハッキリと別れる作家でもあるということだ。私もイイ作家であることは認めていたが、しばし、作品を手元に置くことには躊躇していた作家の一人であった。かつて先輩コレクターが「手ごわい絵」を手元において眺めてみなさいと言っていた。私にとっては小山田作品は手ごわくイイ作品であるようだ。小山田の生き様を詳しく知るにつれて、やはり作家の生き様と作品は別々にはできない。両者の距離は作家によってマチマチだが、小山田作品は間違いなく密接している。小山田作品と対話するにはこちらの生命力が充実していないと負けてしまう。手ごわい絵である。

絵のある待合室25

中村七十 幻の木彫

中村七十(本名永男1911~1941)は1933年に東京美術学校在学中に帝展に初入選したが、当時在学中の帝展出品はタブー視されていたため父七十郎の二文字を借りての出品であった。以後30歳で亡くなるまで七十を名乗ったのである。
明治44年年に長野県朝日村(現辰野町)に宮大工の家系に生まれ幼少から木彫に親しみ高等科卒業後、清水三重三に就き間もなく斉藤素巌の主宰する構造社に移ったのち昭和4年東京美術学校に入学した。専ら木彫が多かったが次第に塑造作品へと移り、8年「女の首」で帝展入選翌9年は頭部作品80点が搬入されたが入選は七十の「女の首」ただ1点だけであった。師素巌の帝展評に「七十は良い首、細かい神経もあって彫刻的骨組が蔵されていて、この調子で身体全体が出来る事を望む」とある。10年の第1回東邦彫塑院展で「女性像」特選。以後翌11年かから15年まで帝展・文展に毎回全身立像を出品。10年に卒業し11年まで研究生として美術学校に残り、建畠大夢に直接指導を受けた。建畠はのちに「君の芸術に対する態度は真摯にして其作品に至りては人格の反映に違わず高雅な気品を備えている」と推奨の言葉を寄せている。七十は8年の入選以来連続6回の官展入選を果たしているが特選・入賞は得ていない。そのことについて山本豊市は賞に入れない理由がわからない。ミューズの神の不在時代・・・」と大いに嘆いている。当時の新聞では「青年層に中村イズムを現出せる等異彩を発揮し・・・」とあり、美術学校では「七十旋風」を起しつつあったという。13年に結婚し16年には文展無鑑査となり江古田駅近くの豊玉にアトリエ建設するが文展会期中に急逝してしまう。享年30歳。
この作品は昭和11年、頒布会の為に作られた作品である。本当に貴重な作品であり、今となっては幻と言っていいと思う。まさに伝統と近代が融合したメリハリの利いた優品である。モチーフは達磨立像であろう。高さは32cmと小品であるが大きさを感じる。夭折の才能ある作家に共通しているのは若くして既に円熟老成の風格が備わっている事である。20代半ばの青年が彫る作品ではない。中村七十に詳しい友人に大竹永明氏(元松本市美術館学芸員)がいるが、彼も七十のブロンズを1点所蔵している。その彼でさえ七十の木彫を入手せんと辰野町や伊那谷の骨董屋を探し回ったが見つからなかったという。頒布会での木彫作品が辰野町美術館に所蔵されているようだ。このように一地方の埋没作家として不当な扱いを受けている彫刻家は全国にまだまだいるのである。名前のように七十才まで存命していればどうなっていたであろうか?しかし夭折の力も無視できない。コレクターはそんな残酷と惜愛のディスクレパンシイーを心に秘めつつ、発掘顕彰の旅を続けているのである。

絵のある待合室26

広幡 憲 「浮標」 1948 4F 油彩 キャンバス  第2回美術団体連合会展(1948)出品

静謐のモダニズム「広幡 憲」展(2002)出品

「浮標」について

広幡憲はこの絵を1948年に描き、その5カ月後に逝ってしまった。享年37歳。翌年の1949年に遺作展が日本橋・北荘画廊で開催され、そこの主であった菅貢氏がこの作品を買い取った。そして36年経った1985年にA氏が菅氏から譲り受け、2009年ついに私の所蔵となったのである。つまり、この60年間に3人の絵好きが「浮標」をバトンタッチしたわけである。
私が「浮標」の存在を知ったのは1996年の夏であったと記憶している。名著「わたし流美術館」の中で、著者であるA氏は「浮標」との運命的な出会いを見事に綴っていたのである。A氏は言わずと知れた日本屈指の発掘顕彰型コレクターである。ほぼ同時に窪島誠一郎氏の「わが愛する夭折画家たち」を読んだせいもあり、ますます広幡の存在が大きく身近なものになっていった。また「浮標」と広幡に特別の思いが湧いてくるのには別の理由がある。母の生まれ故郷(実家)が広幡と同じ秋田県仙北郡中仙町清水であり、まさにご近所さんであったのだ。私は物心ついてから中学まで毎年、母の故郷で2週間ほど釣り三昧の日々を過ごすのが常であった。今もその楽しかった思い出は広幡への思いとリンクするかのようだ。いつの日か「浮標」は自分の所に来るような気がしていた。幸運にも尊敬していたA氏とも知遇を得、13年間「手放す時には是非、声をかけて下さい」とお願いして来た。そしてついに、「君ならいいだろう」とお許しが出たのが2009年1月24日であった。A氏が断腸の思いで譲って下さった事には、ただただ感謝感謝である。作品を見て故郷の匂いがすると母も喜んでくれた。
人は広幡を「幻の抽象画家」と呼ぶ。窪島氏が言うように夭折6傑(村山槐多、関根正二、松本竣介、曖光、野田英夫、広幡憲)の1人であり、2002年現在で確認されている作品はわずか21点、うち本丸の抽象作品は7点しか残っていないのだ。この「浮標」は現存する広幡の抽象作品7点のうちの1点であり、広幡独自の純粋ともいえる有機的形態による抽象表現に到達した名品としても高い代表作である。戦後の日本抽象絵画史は空白であると言われ続けて久しいが、心ある学芸員諸氏のご尽力で、所々に光が射して来た感もあるが、まだまだその薄暗い原野は未踏のまま横たわっている。その中にあって、この作品の存在意義は今後ますます重要になってくるだろう。
この作品は左脳と右脳を切なく優しくスティミュレイトしてくれる。浮いている標とは、自らの画業を模索していた広幡の心境であったろう。擬人化しているような独自の有機的な形態は広幡の自画像にも見え、定まらない流動的な矢印もまた然りである。また、この作品から感じる不思議な感覚、窪島誠一郎氏の評論は素晴らしい。「薄鈍うすにび色のモダニズム」・・・薄鈍色とは雪に閉ざされた地方の人が、春が来るか来ないかのころに目にし、感じる色。その向こうには黎明感がある・・・何か切なくて苦しげなものを画肌の底に塗り込めたような薄鈍色の光が、広幡の絵の奥には隠されている。短命だったこともあり、現在の美術へ通じる大きな流れは作り出せなかったが、広幡は私にとっていつまでも忘れる事のできない不思議な魅力を持つ画家だ。残っている作品は極めて少ないが、今あらためて不十分なる十分な展覧会が開かれるべきと思う・・・2002年に秋田市立千秋美術館で回顧展が開催された。その時この回顧展を担当された加藤隆子学芸員(現在は秋田市教育委員会)より、メールを頂いた・・・


平園賢一 様

  実は、私は現在、千秋美術館から秋田市教育委員会に異動となり、平成19年度4月から勤務しております。
  お話では「浮標」を譲り受けられたとのこと。A様が太鼓判を押してくださった方なら、廣幡作品を所蔵するに足る方だとお察しいたします。私は廣幡研究の第一人者などとんでもなく、たまたま美術館にいた時、担当させてもらった、一学芸員という程度でしかありません。廣幡は若くして亡くなったと
いうことや、作品の大半が失われてしまったことなどで、展示を担当したものの、わからないことばかりだということがわかった、というような状況でした。その後の 引き続きの調査等もすすまぬまま、結局は学芸の現場を離れることとなってしまいました。A様もお元気なご様子で何よりと思っております。
メールを頂戴し、そういえば廣幡の息子さんはどうなさったのか、とかや廣幡のことでいろいろとお世話になった関係者の皆さん方々はどうなさっているのかと、思い起こしたりしております。 こちらに移り、いくらか事務局仕事になれてきたかなー、とも思っておりますので学芸の場を離れて好きな作家、好きな作品をマイペースで見ていければいいな、とも思っております。廣幡の再評価についてはまた、千秋美術館のほうでも考えていると思いますので、今後また平園様にはご協力いただくことになるかと思います。その際にはなにとぞよろしくお願い申しあげます。
  また、平園様のお母様は旧中仙町清水出身とのこと。もし、秋田にいらっしゃるようなことがありましたらばご連絡ください。学芸の現場を離れて、少し頭が鈍っている私でお話しができるものかとも思いますが・・・・。A様には異動のことなど、あわただしかったものでお伝えしないままでおりました。申し訳ございませんが、よろしくお伝え願えればありがたく存じます。廣幡も作品も、何よりも愛してくださる方が持っていてくださること、喜んでいると思います。今後の平園様のご活動が充実したものとなるようかげながらお祈りさせていただき ます。本当にご連絡、ありがとうございました。

旧友の荒井龍男が追悼文の中で・・・北荘で俺の個展の後に引き続き君の遺作展が催された、俺はこの会場で独り「生前にこの展覧会を開いて君に君の絵を一堂に並べて見せるべきだった」とつくづく残念でならなかった。自由展だって戦争の為に小山が弾丸になり、松本が逝きそして君だ。3人の選手を失ったことは、日本の損失だ。

そして、誰かが言った「広幡よ 幕は降りてしまった しかし
だが 安心しろ 拍手は続いている」と・・・

絵のある待合室27

松下春雄「花」1929 10号
サンサシオン第6回展出品作

余計な説明はいならいだろう。
この作家の画格は、松下春雄という人物がそうであったように「薫風薫る」というのが相応しいといつも感じている。尊敬する老舗N画廊のN氏も絶賛して下さった優品でである。

絵のある待合室28

堀田瑞松
 戦後の日本人が忘れた明治の先覚者
まさしく無名作家であり、忘却の作家である。幕末・明治というクレパスに落ちてしまった巨匠の一人なのである。しかしながら、その実力と数多の業績は目を見張る。今日まで伝わる作品は少ないが,その精緻な技巧の冴えは,代表作である「楼閣山水紫檀額」(東京国立博物館蔵)に窺い知ることができる。この度、入手できた作品が関羽像(高さ43cm)である。本当に貴重な遺作である。本作の圧倒的な存在感と重量感は、大正期以後の近代彫刻とは一線を画す。幕末・明治の木彫作品という未踏の分野がある事は間違いなさそうだ。工芸と彫刻との狭間でのこの分野の更なる研究調査が待たれる。

絵のある待合室29

2003年夏、東京の画廊で「吉岡憲の画業展」が遺族・関係者の執念で開催された。1956年40歳の若さで亡くなってから47年の歳月が経ってしまったわけである。「吉岡憲の持っていたその「時代性」、その淡色と濃色とが巧みに入り混じった底光りのする不思議な色彩と画肌、余人を寄せ付けないスピード感と対象把握に優れたデッサンには、あの時代性でなければ描けなかった懐かしい絵の匂いがある・・窪島誠一郎氏」。この作品は吉岡憲の数少ない作品の代表作(新発見)であり、モデルとなっている女性は菊夫人である。昭和31年の作であるから、当時の何気ない台所風景であるにもかかわらず、懐かしい匂いが立ち込めてくるのは何故であろうか。日本庶民の原風景がここに在るのである。「時流におもねず、自我をまげず、貧苦をいとわず、ただワキ目もふらず画布の上における孤独な自己表現を目指した「融通にのきかなさ」こそが、吉岡憲のような真の意味での「日本的洋画家」を生み出した源泉であったのではないかと・・窪島誠一郎氏」。この回顧展を病床で聞いた菊夫人は喜ばれ、会期中に永眠されたとのことです。聖俗を一瞬にして閉じ込めた追憶の彼方からの一枚。

絵のある待合室30

森 大造 「李白酔歩」 1958頃 高さ58㎝

森 大造という彫刻家がいた

滋賀県に醒井木彫美術館(森大造記念館)がある。昭和2年、東京美術学校を卒業し、昭和2、3、4、6、7、8、9年の帝展に入選(昭和9年は特選)、その後文展では無鑑査となり敗戦の暮れに郷里(滋賀)に引き揚げた。戦後は日展を離れて、昭和27年創型会を結成、昭和29年には第1回仏教美術展(三越)を開催し、没年まで出品した。昭和44年に個展「無耳庵展」を開催し、世間の喧騒を避け神奈川県大磯の工房「無耳庵」に通いながら制作を続けた。昭和63年、亡くなる1週間前まで制作しつつ88歳の天寿(1900~1988)を全うした。実績、実力は申し分ない。我が道を行くような仙人の風格、人からは木彫界の異端児と云われていたとう言う。しかし、森大造を知る人は少ない。平塚在住の私にとって地元湘南ゆかりの彫刻家は発掘顕彰の対象となる。“大磯の森”の存在は知ってはいたが、その作品が市場に出たことを見たことがなかった。今回、幸運にも森大造の作品を入手することができた。昭和33年頃の制作とされる「李白酔歩」58cmである(無耳庵作品集に同型の小品が掲載されている)。作風は細緻を極める仏像から鑿跡をくっきり残す人物まで自由自在である。この作品は「長い歴史の流れの中に、名を残した人は強い個性を持っている。それを強い鑿跡で表現したかった」と森が語っている作風であり、李白の超然純真な人となりが見て取れる。李白が森大造その人と重なり合う。森大造の作品の多くは縁の人達が手元に大事に所蔵していると言う。いつの日か、また彼の作品との出会いを待つ事にしよう。

力ある埋没作家はまだまだいるのだ!

絵のある待合室31

堀進二「老婆の肖像」大正4年作
第9回文展出品作

年譜にはこうある・・・第9回文展に「若き女の胸像」「老婆の肖像」「母と子」を出品し褒状を受ける(審査員は山崎朝雲、米原雲海、新海竹太郎、白井雨山、高村光雲)特に「老婆の肖像」は中原悌二郎によって「近代日本人によって作られた彫刻の中では傑作の中にかぞえられるべきものだ」と評されたとある。この作品の原型は友人の中村彜の所蔵となり後に平櫛田中コレクションに加えられた(現在は東京芸大蔵)。
展覧会の解説には・・・うつむいた表情で物思いに耽る老婆。顔面に反射する神秘的な雰囲気を醸し出している。堀の徹底した写実とそれに伴う適格な性格描写が示されており、この老婆の人生や心情を細やかに伝えてくれる。首を支える細い身体が不安定な姿勢を強調し、あたかも老いと向き合う人生のドラマを演出しているようだ・・・願わくばまた、青年期の堀進二の作品に出会いたいものだ。

絵のある待合室32

大野明山(1896~1981) 「古代ノ武士」 昭和18年作

島根の隠れた名匠である。島根には米原雲海と荒川嶺雲という二大巨匠がいた。明山は嶺雲の内弟子を経て、高村光雲の外弟子、吉田芳明の内弟子、藤井浩祐から彫塑を学び、吉田白嶺の勧めで院展に出品し快進撃が始まったが、昭和20年戦争の激化で帰郷した後は中央に戻ることなく地元出雲で孤高と引き換えに数々の名品を残した。平成5年に大野明山展を出雲文化伝承館で開催されたが、今度は島根県立美術館で回顧展をやってほしいものだ。一地方作家として扱うには、あまりにも惜しい。

絵のある待合室33

吉田白嶺「髭」1915 第二回再興院展出品作 高さ59㎝ 近代日本彫刻集成第2巻(大正期編)掲載

この作品は2010年に開催された「岡倉天心と日本彫刻会展」に出品され、一躍白嶺の代表作の仲間入りをしたラッキーボーイである。参勤交代で男が溢れていた大江戸で女の子にモテルには髭抜きでツルツルの卵肌にしなければならなかったのだ。当時の青年武士の婚活が微笑ましい。大正期の風俗人物彫刻の名品であるばかりでなく、誰からも好かれ愛されるモダンさも兼ね備えているのが興味深い。

絵のある待合室34

小室 達「夏」1938 第2回主線美術展出品作 68㎝

仙台の有名な伊達政宗を作った男である。1899~1953(享年53)の早世であるため忘却の作家となってしまっている。この作品は彼の日記からある子爵家に売却されたものである事が判った。きっと趣ある洋館の居間にでも置かれていたのであろうか。1999年北海道北見で発見された小惑星に小室達生誕100年を記念して発見者が「komurotoru」と命名したという。短命であった彼の命は夜空に繋がれた。

絵のある待合室35

澤田政廣「舞ひ」昭和2年

政廣の初期作である。寅の刻銘があるのが初々しい。今さら言うまでもない作家の一人であるが、やはりその偉業は尊敬に値する。政廣の生きた時代とその人脈は近代彫刻の高揚した黄金時代であったことは疑いないであろう。

絵のある待合室36

長谷川栄作「乙姫」大正9年
第4回栴檀社展出品作

不思議な作家である。彼の作る裸婦像は同年代の作家の裸婦像と比べ独自の風がある。何とも無国籍的なラインが美しいのである。知人である気鋭の学芸員がそろそろ調査研究するべき興味深い作家の筆頭であると言っていた。その通りである。ちなみに長谷川栄作の叔父は乃木希典である。

絵のある待合室37

二木一郎「ゆうまぐれ」1992 30号

作家からメールが届いた・・・・

はじめまして、二木一郎です。

「ゆうまぐれ」は90年代前半の一番の代表作と位置付けておりますので、新作を中心に掲載しているホームページにも、今後もずっと掲載しておきたいほど愛着のある作品です。
 
私は1987年に初めての海外旅行でイタリアを旅し、それ以来アッシジを中心とするイタリア中部の風景に心を奪われて度々訪れたものです。
アッシジのあるウンブリア州、フィレンツェやシエナのあるトスカーナ州が大好きです。
特にアッシジの街は近郊から産するピンク色の石灰岩でできており、そのままでも美しいものですが、雨に濡れたり夕日を浴びたりすると一層神秘的な輝きを増します。
 
「ゆうまぐれ」は、日没の直前、塔の頂上だけに西日を残すアッシジのサン・フランチェスコ聖堂を描いたものです。
上下二層からなる聖堂の上部聖堂だけをクローズアップしたものです。
塔の頂上だけが明るい様子は、一本のロウソクのように見えます。
この聖堂には人類の良心とも言える聖人フランチェスコが眠っています。
フランチェスコに捧げる一本のロウソク…そんな想いで「ゆうまぐれ」を描いたと記憶しています。
今見ると荒削りな部分の多い画面ですが、その時にしか描けなかったもの、あの頃の私の心模様が明確に出ているように感じます。
因みに水野美術館にある「洩れ日」は、同じ年に院展に出品したもので、同じくサン・フランチェスコ聖堂を描いたものです。
 
ご存知の通り、サン・フランチェスコ聖堂は聖人フランチェスコを祀るために建てられたものです。
イタリアン・ゴシック様式の代表的な建造物で、堂内は初期ルネサンスの画家ジョットの大壁画「フランチェスコの生涯」を始めとする数々の壁画で彩られています。
機会がありましたら是非一度アッシジを訪れていただきたいと思います。
どこをとっても、壁の石一つに至るまで素敵な街です。
 
「ゆうまぐれ」は私がイタリアを描き始めて間もない頃の作品で、あれからもう16年になります。
私の作風は近年急速に変化してきています。
しかし、意図的に変えようとはしていません。
常に、私の持っている味が自然に出てくるように努めています。
目新しいモチーフや華麗な技法で見る人を煙に巻くようなことをせずに「私の骨の髄から滲み出てきた画面」を創る。
これが私の目標でありスタンスです。
流行に左右されたり頭だけで作ったものはすぐに行き詰ってしまうので、厳に戒めています。
私は今年52歳ですが、学生時代から今日まで絵を描いてきて、今が一番楽しく感じています。
これから描きたいものも山ほどあって、どれを先に描くか悩むほどです。
4年ほど前までは風景一辺倒でしたが、花が加わり、人物が加わり、今後は静物にも挑戦してみたいと思っています。
私の師匠からも「50代が一番充実する」と言われていますので、私自身どんな作品が描けるのか楽しみです。
 
作品は私にとって子供のようなものです。
どの作品が誰の元にあるのか、特に古い作品は不明なものが多いのですが、今回「ゆうまぐれ」の所蔵先が判明して、とても嬉しく思っております。
ご連絡いただきまして、本当にありがとうございました。
どうぞ末永く「ゆうまぐれ」をご愛蔵いただけますようにお願い申し上げます。
 
━━━━━━━━━ Ichiro Futatsugi.■

絵のある待合室38

直球の画家  稲垣考二

稲垣考二「窓」1979 20F 油彩キャンバス

これで稲垣作品は2点目となる。最初の作品「ブリキ缶」20号水彩であった。あれから1年が経ち、今度はこの作品を入手した次第である。彼は講師をしている名古屋造形芸術大学で自身の本音を披瀝した・・・「ずっと直球を投げ続けてきた。年をとってきてだんだん直球が身にこたえるようになって来た。年をとる前に変化球をお憶えなくてはならないものだが、私は直球しか投げられない、投げられなくなってバタッと倒れるかも知れない」とつとつと語る口調は、稲垣さんの作品そのものだった・・・とある。抜群のデッサン力を持ちながら一般受けするような売り絵はほとんど描かない。ひたすら独自の風を貫く全力投球の画業は、特異な領域へと到達しつつある。その行方を今後も見守って行きたい。
  さて、この作品は1979年日動画廊主催の第2回「現代の裸婦展」で大賞を取った若き日の代表作である。今まで物故を中心に裸婦の優品をゲットしてきたが、このようなカッコのイイ、颯爽とした裸婦は記憶がない。是非入手して間近で見てみたい、そして他の裸婦と比較鑑賞してみたい衝動にかられた。実物を間近で凝視すると、まるで糸を紡ぐように無数の筆跡が交差しているのだった。この画家の特徴でもある「表層への執着」の奥義を見た思いがした。この作品について画家に手紙を出したところ、返事が来た・・・ご丁寧なお手紙を頂きありがとうございました。「窓」図版を見て懐かしく思います。大学の研究科を出た年に制作した作品で・・・この頃からひとつの画面に複数の図柄を重ね合わせる事を始めました。造形的なもの(形、色、マチエール)と意味(モチーフ、テーマ、コンセプト)を比べると造形的な面白さを優先させ描いています。意味合いとしては曇りガラスを拭いて外を眺めながら上空を鳥の群れが通過すのを見付けたところです。鳥は男性を表すものだとは後で聞きました・・・

作品を通じての作家との交流も楽しみのひとつである。

絵のある待合室39

下村観山「寿老」紙本墨画下図 145x50cm

下村観山と言えばどのような印象があるだろうか?横山大観の女房役のイメージが強いのではないだろうか。いやいやである。彼がいなければ再興院展は存在せず、画壇は混乱していたであろう。観山は画想の点では大観ほど豊かではないが、何と言っても技巧の点では群を抜いており、感もよく呑み込みも速かった。岡倉天心がちょっと示唆すればその意を誰よりも理解し、天心の構想をそのまま絵にしてしまう。天心は観山を重要視していたため、五浦時代の大観、春草は羨んで不満を漏らしたという。またいち早く朦朧体を示し、フェノロサに激賞されたのは観山であった。その後大観や春草が急進的に朦朧体を推し進めることになった。再興院展の若手の俊英たち、例えば安田靭彦、前田青邨、速水御舟らは観山にあこがれ観山を目指していたのである。それほど観山は多くの若手の目標であった。しかし、現在は大観や春草の影に隠れてしまい埋没してしまっているようだ。このデッサンを見てほしい。観山は線の研究者としても知られている・・・(1)潤滑自在の抑揚ある線(2)鉄線描のような強い線(3)抽象化されたシャープな線(4)掘りぬりにみるギザギザの線(5)なまみてなめらかな曲線(6)リズムを感じさせる達者な毛描き(7)点描の連続線(8)片ぼかし的な線(9)短く速く揮った線・・・それらの線はいかにもしっくりと力のバランスを得て調和しきっている。「大観や春草が近代日本画の夜明けに潮染んで進んだとすれば、観山は黒潮の底深い流れに似て、日本画近代化の底流をなしたといえよう。57歳で没した巨匠にさらに次期の転機を与えるべきであった…細野正信」
この作品は小生の父の誕生日プレゼントとした。長寿を祈って。

絵のある待合室40

桑山賀行「街ー標」1980年 112cm

藤沢市在住、日展評議員である桑山氏の若き日の作品である。氏は澤田政廣の内弟子として13年もの間修行し、20代半ばで連続特選、30代前半で最年少の審査員となった才気あふるる作家の一人である。気さくで温かな人格は皆から愛されているという。この作品の問い合わせをした際に氏は「まるで街中で小学校の同級生に偶然あった時のような驚きと嬉しさ」と表現された。こちらこそ未知の木彫家を紹介してくれた彼女(街ー標)に感謝している。

絵のある待合室41

隆中三顧図(絹本彩色 部分)
村田香谷(1831~1912 )

明治25年(1892年8月)に制作された、三国志の名場面を細部まで緻密に描きこんだ南画の名品である。香谷は幕末から明治にかけて活躍した福岡生まれの文人画家で、四条派で一家をなした父、東圃の子でもあり貫名海屋や鉄翁祖門に師事、日本各地や中国を3度歴遊し明治13年京都府画学校に出仕し、数々の著述や褒状を受けている。晩年は関西南画檀で重きをなした。
今回、私がこの作品を入手した訳は、三国志好きという単純なものからでもあるが、この香谷という人物のある一面に惹かれたからでもある。それは香谷の一生は、その殆どを蕭尺木の大平三山図録の探求とその入手に費やしたといっても過言ではないのである。初め長崎遊歴の途に博多を訪れた時、この図録の貴重にして南画の宝典たるを聞かされ、手に入れたならば得るところ大であると話されて以来、夢寐にも忘れず諸国を巡り、明治4年に京都の山口仁六氏所有たる確かめ万端を配して山口家を訪れ、憧れの図録を見ること叶ったが手に入れることは出来ず、香谷の執拗さに山口氏は出入りを禁止するに至った。そこで香谷は本国にその図録を求むべく、中国に3度渡り大家に師事しながら、探し回り終には金10両で求むとの印刷物を散布したが得られなかった。本国にも1本すらないと分かった香谷は、明治34年に30年ぶりに京都の山口氏を訪れたが、既に故郷の丸亀に移転した後であったので、暫らくして山口家を訪れた香谷は主人の死に驚き且つその臨終に図録を香谷に譲るべく遺言された事に感激して悲喜交々に至り、未亡人の話によって、昔木村兼霞堂の所有以来、所在不明だった図録は転々として、讃岐高松藩の太夫覚氏に在り、それより山口氏の義侠に対する謝恩の意味で山口氏の秘蔵する所となったという奇しき物語りを聞かされた。香谷が23歳の頃より志した蕭尺木大平三山図録は70歳の晩年に落手し、今更ながら感慨に耽ったという。この三顧図は図録入手約10年前の作品であるが、孔明を求める劉備は当に図録を求める香谷であるに違いない。コレクターの熱き思いにも通じる逸話である。

絵のある待合室42

菅野圭哉「静物」10F 油彩  菅野圭介展出品(2010 横須賀市美術館)

菅野の絵を何と観るか?!

平成17年7月23日から全国巡回の三岸節子展が平塚市美術館で始まった。長男の黄太郎氏の講演会で私はタブーとされていた質問をした・・・「菅野圭介を節子やあなたはどのように評価しているのか?」・・・黄太郎氏は次のように答えた「最初のうちは詩情のある良い絵を描いていたが、生活の破綻から絵は荒れ、彼の絵は未完成の絵、完成していない荒んだ絵になってしまった。可愛そうな男です。しかし母は菅野の影響を受けています。」・・・この意見は想像していた通りであった。三岸家からすれば菅野は乱入者であろうが、節子がその才能に惚れて別居結婚した事実は動かせない。黄太郎氏は次のような興味深い話もされた・・・「父好太郎は天才の名に恥じない仕事をしたと思います。母は努力の人です。デッサンを何枚も描いた後、キャンバスでは塗っては削り塗っては削りの繰り返しです、それはそれは時間と技術を十分使って描いた努力の人なのです、作品は努力の結晶なのです」・・・
そうなのです!菅野は三岸節子の反対なのです。菅野はデッサンをしない。一日中その景色の中に浸り頭の中でデッサンし、いきなりキャンバスに向かい独自のマチエール理論で一機に完成させる絵なのです。しかし、母節子の制作態度を真近に見ていた黄太郎氏からすればササーッと描く努力しない絵、つまり未完成の荒んだ絵であり菅野という人物そのものではないかとバッサリ切ったのです。さて、皆さん、菅野の絵はこういう絵なのです。だから面白いのです。だからスゴイのです。因みに、この絵は出品作であり別居結婚していた圭哉時代の代表作です。梅野館長も菅野を語るに必要不可欠な重要な作品と高い評価をして下さいました。皆さんの評価は?!

絵のある待合室43

「吉岡訓導殉職像」保田龍門 1937年
石膏彩色レリーフ

平成16年10月2日~11月28日まで平塚美術館で保田龍門・春彦展が開催された。このレリーフは龍門の代表作「吉岡訓導殉職像」ブロンズが戦時供出され現存しないため、その代役となり急きょ出品された稀少なレリーフである。吉岡訓導こと吉岡藤子先生は昭和9年9月21日の室戸台風の折、倒壊した校舎の下敷きとなりながら5人の児童を救い殉職(享年27歳)され、その行動は多くの感動を人々に与え、教師魂の権化として称賛されている。このレリーフの裏には龍門の直筆で題名と制作年が記されているため資料的価値も高いと考えられている。近年、各地を襲った数々の台風や水害、土砂崩れそして地震を身近に感じるにつけ、日頃からの危機管理の大切さを痛感している。このレリーフは過去の記念碑でなく現在・未来の危機管理の忠告碑として大切にしたいと思っている。合掌。

絵のある待合室44

伊藤研之「家」1930年 第5回1930年協会展出品作

中山真一氏(名古屋画廊)が熱く語る!!「明治生まれの郷土画家を推す」の内容は当に“我が意を得たり”である。一部抜粋させて頂くことにする・・・明治時代後半に生まれ、大正から昭和にかけて活躍する画家とはいったい何者と言えるであろうか。明治人の気質を幼少より教え込まれ、大正から昭和初期の青年期には文芸誌「白樺」などに象徴される教養主義的で自由な気風のなかで育った。そして戦中は家族をかかえて苦難の生活を強いられ、戦後の混乱期にはたえず自分とは何かを問いながら制作した人たちである。日本の美術史のなかでもルネサンス的な意義をもつ世代であろう。要するに、おおむねの世代の画家たちには「人生いかに生くべきか」という哲学がる。キャンバスという画面の中だけが問題ではない。そうした逆説がまたキャンバスに還る。私たちにとって学べども尽きぬ魅力があろう。少なくとも具象系洋画では、後の世代と制作を同一に論ずることができにくい所以である。したがって、そうした明治生まれの、特に知られざる偉大な画家たちは、一部の美術ファンばかりでなく、今後より広くその画業が知られるべきであろう・・・そもそも、郷土の物故画家は地元から推さねば推すひとはまずいない。郷土の偉大な先達を顕彰するのに理屈はいらいのだ・・・
  明治生まれの画家が描いた大正から昭和初期の作品群には独特の魅力を持つ優れたものが多い。日本にはまだまだ多くの力ある郷土画家が埋もれているはずである。その発掘顕彰こそ趣味的自己満足だけでなく、尊い知的な文化的行為でもあると信ずる。
さて、今回は福岡の郷土画家の代表格である伊藤研之(1907~1978)である。中山氏の言う明治後半生まれの洋画家であり、福岡という地方画壇と共に歩み、土着文化と共に歩んだ画家(第1回福岡市文化賞)であることはもちろん、一画家の範疇を超えた九州の文化人(第29回西日本文化賞)として認知されているが、その画業は全国的にはほとんど知られていない。この作品(図1)は伊藤研之の最初期入選作品(新発見)である可能性が高く、現在福岡県立美術館の協力を得て調査中である。当に郷土画家の埋もれていた初期作品を発掘調査しているわけである。この初期作についてご存じの方がおられれば是非、ご教示頂きたくお願い申し上げます。
作品の内容であるが、いかにも1930年協会時代の作品、すなわちフォーブ調、そして建物や電車が擬人化したようなややシュール感じもする作品である。1930年協会第4回展出品作である「黄色い建物」板橋区立美術館蔵(図2)と同じ構図であることから、作者も気に入っていた風景なのであろう。場所の特定ができれば尚いいのだが・・・この手の作品群が全盛期であった昭和初期はきっと知的で個性的な明治生まれの青年画家たちが、熱気ムンムンで作品を出し合い切磋琢磨していたことであろう。それにしても1930年協会という団体の凄さはいったい何であろうか。1990年に板橋区立美術館で開催された「ふたつのモンパルナス展」を担当した尾崎眞人氏曰く・・・1930年協会は<二科>から生まれ<独立美術>の母体になったといえるが、団体としての構成は<二科>とも<独立>とも全く異なっていた。むしろ1922年に結成された大正の新興美術<アクション>と近い性格を持っている・・・1930年協会展はフォービズム一色の展覧会だったようにいわれているが、様々な作家が色分けされない状態で出品している・・・1930年協会は昭和の美術表現の可能性を培養し追求した展覧会だったといえよう・・・1930年協会は1926年に結成され1930年で発展的解散となったが、5回の展覧会で出品した作家数は623名に及ぶ。この中にこそ発掘顕彰を待つ明治生まれのルネサンス的埋没郷土作家が眠っていると思われる。このメンバーの中からこれは!!と思う埋没作家に狙いをつけて発掘顕彰して頂ければ幸いである。

絵のある待合室45

中西利雄「H嬢」10号 1943

旧蔵者曰く・・・・生涯を水彩画の追究と向上に費やし、大正から昭和の画壇に新風を吹き込んだ中西利雄。 腕を重ねて肘をつき、物思いに耽る理知的な女性が、華やかな装いと気品に満ちた姿で描かれています。彼女の肌は透き通るように白く、グレーの陰影やピンクに染まった頬などに混色の部分があるものの、滑らかで張りのある触感は、揺るぎない美しさを見せています。鮮やかな原色が散りばめられた衣装もまた、華美な女らしさを演出すると共に、色彩の変化が素肌の清澄感を引き立てています。皮膚の彩色とは対照的に、表情には堅牢な筆致が施され、この女性の内面を示唆するような強いインパクトを与えています。また、鮮明な黄緑色のテーブルと、その上に置かれたレモンイエローのノートとのコントラストは、背後にダークブルーが一面に塗られることで際立ち、背景、人物、前景の三分割された構成に、明確な奥行きをもたらしています。このように安定した構図や、黒く明瞭にされた輪郭線によって、思索するモデルは知性あふれる雰囲気に感じられるのです。そして、透明度の高いガッシュの特性が巧妙に生かされている為、画面は多様な筆跡を残しながらも一貫した爽快感に包まれ、色調の統一感を印象付けます。水彩画を水絵と称し、油彩画にはない独特の色彩表現を実現し、修正の利かない即興性の美学を貫いた中西利雄の、様式を超越した芸術性が遺憾なく発揮された婦人画の傑作です。

絵のある待合室46

横山潤之助「裸婦素描」1929 44x27cm滞欧作
横山潤之助・・・大正期洋画界の若き天才、19歳で樗牛賞、アクションの結成、21歳で二科賞、26歳で渡欧、1945年5月25日夜半空襲にてアトリエとともに戦前の代表作を含む3000点焼失、時に42歳。画友中川紀元と力なく手を握り「戦災で絵も何もかも全部焼けた」と言い残し別れたのを最後に、消息生死不明となる。盟友神原泰、村山知義、岡本唐貴らも死んだと思っていたと言う。そんな潤之助が再び世間に知られるようになったのは1962年神奈川県美での「大正期の洋画展」に出品された「少女半裸像」と「友の像」からである。当時担当者であった朝日晃氏の尽力で、潤之助の所在が判り、盟友達は驚きと喜びの声を上げたと同時に戦争を憎んだという。時に59歳であった。翌年、個展計画が持ち上がったが病気に苦しむ。1970年芸術新潮に朝日晃氏「幻の画家横山潤之助」掲載1971年、個展作品制作中に心不全で死亡。享年67歳。
この滞欧デッサンは非常に貴重であり、内容も申し分のない横山潤之助の遺品でもある。ジュンノスケと地を走るような勢いのあるサインが印象的である。横山展を開催したことのある具眼の画廊主、川舩氏(ギャラリー川船)もこの作品の発見をとても喜んでくれた。戦前の作品はほとんどなく、滞欧デッサンに限っては後援会図録と川船図録に1~2点であり、この作品が3番目となろう。私見ではあるが、モデルはモンパルナスのキキと思っている。キキは「今日のモンパルナス」という小文を1929年に書いている・・・

絵のある待合室47

鈴木三郎(1904~1950)「金魚」1934 30号 第21回二科展出品作

多くの前衛画家を輩出した二科の九室会と言えば、今日では吉原治良をはじめ斉藤義重、桂ゆき、山口長男そして私の好きな広幡憲らの名前が直ちに浮かぶ。しかし、それだけではなく他にも多くの可能性を孕んだ才能が存在していたにもかかわらず、現在は埋没し忘れ去られてしまっている。そんな画家の中に鈴木三郎がいる。2009年秋、奇遇にも私が以前から何かとお世話になっていた大谷省吾氏(東京国立近代美術館)の小論文(現代の眼558)「吉原治良の新発見作品と鈴木三郎」の中にこの絵が紹介されていたのだ。この「金魚」という作品は現存しないとされていた彼の代表作のひとつである。遺族のもとに残されたハガキのみで知られていたにすぎない。大谷論文によれば・・・「鈴木は吉原と同じく関西学院に学び学院内の絵画サークル「弦月会」のメンバーであり、名コンビとして活動していた。吉原が1928年に退学して実家の仕事(後の吉原製油)に就き、鈴木は上京したため二人の交友はいったん途切れたが、1934年吉原の二科デビューと銀座紀伊国屋での個展を機に二人は東京で会い旧友を温めたであろう。同じ1934年に鈴木は二科展に出品した「金魚」他2点が初入選している。鈴木の作品はその後も二科の中では新傾向の作品がまとめられた第九室に展示されており、吉原とともに有望な新人として遇されていたことが判る。戦局の悪化により二科会は1943年を最後に解散し、鈴木は戦後しばらくして亡くなった。その早世と作品が現存しないことから彼はほとんど忘れられた存在となったが、もし病をえることがなければ、ユニークな仕事を展開していた可能性が高く、惜しまれてならない・・・今後、彼のような半ば埋もれた作家の調査と再発見の作業を吉原のような画家の顕彰とともに進めて行く必要があるだろう」と・・・このように1点も存在していないとされた鈴木の作品、しかも初入選の代表作が私の手元にあるとは私自身がビックリであった。そして、鈴木のご遺族が私の住む隣町に画家として在住していることを大谷氏から聞いて私も大谷氏もご遺族もなおビックリであった。過日、大谷氏はご遺族といっしょに拙宅に来て下さり感動的な有意義な時間を過ごさせて頂いたのである。「金魚」は先鋭的なシュール作品の代表格であることは間違いない。僅か1点とはいえ、この絵が残っていたお陰で鈴木三郎の発掘顕彰が少しでも前進すれば望外の喜びである。それにしても大谷さん本当にありがとうございました。

絵のある待合室48

藤井浩祐「舞子」大正11年 80cm

院展彫塑部の指導者であった藤井浩祐の大正期の作品は貴重である。資料には大正10年12月日仏交換展覧会のため「舞子」を日本美術院を経て出品するとある。おそらくこの作品と同型のものではないかと推測している。次女が日本舞踊をしている姿に酷似しているのは贔屓目であろうか。藤井にしては構造的なしっかりした人物像の部類に入る佳品である。将来は次女に持たせるつもりだ。最後に藤井浩祐の名著「彫刻を試みる人へ」大正13年初版はお薦めである。

絵のある待合室49

「竪琴美人」仮題 大正末頃 作者不詳

高さ125cmと大きな作品である。組作品の一部であろうか?当に和製サッフォーである。時代を経て来た木彫作品は独特の風格があって好きである。彫刻専門の学芸員諸氏に調べてもらったが未だ作者不詳である。

絵のある待合室50

土方久功 「まき毛」42x37x3cm 1953年 個展出品作

7年ぶりの再会で入手した土方作品である。某画廊で当時80万の高額で売りに出ており、しぶしぶ諦めたのを思い出す。それが昨年末に旧知の画廊に出現!30万になっていた。思い切って分割で購入を決めたのである。この女性はセベロングルと言いパラオ島の娘さんで土方を好いていた!のがわかっている。詩集「青蜥蜴の夢」にその件が出てくるので興味にある方はどうぞご覧下さい。1991年世田谷美術館で開催された土方久功展の担当者である清水久夫氏にこの作品および私が所蔵する1924年のブロンズ「マスク」についていろいろご教示頂いた。清水氏は土方研究の第一人者であるばかりでなく、土方久功日記を翻訳し世に送り出すという学芸員としてまた民族学者として非常に重要な仕事をされている。これこそ学芸員の鏡であると言ってよい。若き学芸員諸氏も展覧会だけで終わることなく、その奥にあるものまで触ってほしい、そして形あるものにしてほしい。これぞ我がライフワークであるという仕事をしてほしいと思う。
  さて出品目録によれば、1953年に日本橋丸善で行われた個展に出品された18点の内の1点であり(??12のシール)、仏陀を彷彿させる風貌はこのパラオの娘さんに対する土方の素直な思いの表れであろう。多くの女性像がある中で、このような作品は唯一この作品だけであるのが興味深い。

孤島でのラブロマンスは土方にとって如何なものであったのだろうか?

補足
土方の現存最初期のマスクは清水氏も絶賛された作品で、そのお手紙にはこう記されていました・・・ご所蔵のマスク、全く知りませんでした。実に貴重な作品で、もしわかっていたら世田谷美術館での展覧会に出品したかったです。敬子夫人も知らなかったはずです。南洋へ行くときに親しい人たちに作品を預けていたのですが、戦争があったこともあり殆ど残っていないと聞いていました。どうしてこの作品が残っていたのか不思議です。「土方久功日記」が刊行されれば、また久功を取り上げる著書、論文も刊行されるでしょう。再び、この作品にも光があてられることになるでしょう。

絵のある待合室51

再びの遠山五郎「臥位裸婦」40号パステル

「裸婦の遠山」と言わしめた夭折画家の面目躍如たる大型パステル作品である。新発見とも言える珍品名品でもある。遠山生地の地元有力者宅に長い間秘蔵されていた作品の1つであり、油彩(滞欧期代表作)は美術館に収蔵された。パステルの魅力は水彩の透明感と油彩の量感の両方を併せ持つ事だろう。そして淡く脆い印象を受けるマチエールは、この世のものとは思えない虚ろな裸婦像にはピッタリである。アクリルの上から手を翳すと、寝息と体温が現実のものとして感じられる。これで遠山作品は3点目の蒐集となった。

絵のある待合室52

中山巍 「老人像」 1927 30号 行方不明だった代表作

日本洋画の転換期に大きな役割を果たした団体がある。独立美術協会である。その創立会員の面々は誰もが個性的で魅力的だ。その中で埋もれていた一人が中山巍であり、私の大好きな作家でもある。人は中山を「沈黙の画家」と称していたが、沈黙などしていられない。私は中山巍の日本一のコレクターになることを決めた。やがて画商たちは「お前が中山の相場を作った」と言うまでになった。発掘顕彰者にとっては最高の賛辞である。今では中山の画業が俯瞰できるまでのコレクションとなった。そして、私を待っていたかのように2004年AJCに長い間行方不明であった滞欧期代表作「老人像」が出品された。さすがに驚いた。覚悟を決め胃の痛くなる思いで落札した。この作品を狙っていた吾人が私の話を画商から聞いて、手を引いてくれたことを後から聞いた。この作品こそ、戦前のどの図録にも掲載されているあの「老人像」そのものであったのだ。中山研究の第一人者である柳沢秀行氏も貴重な発見と喜んでくれた。滞欧時代の中山を佐伯は「今いる日本人画家で一番いいのは中山君だ」と絶賛しているし、伝説ともなっているズボロフスキー画廊での大成功(この老人像も出品されている)は世界に通用する中山の独自性を物語るものである。この1枚にその答えがある。

絵のある待合室53

本荘赳 仮題 「山羊小屋」 30M     洋画界の渡辺崋山

平成11年春、梅野隆初代館長にこの作品入手を手紙で報告したところ、その返事には「本荘 赳の名品思わずあっと声を立ててしまいました。私が今まで見た本荘作品の中で最も優れたものです…。心の震えのおもむくままにしたためました」。私以上に梅野館長も驚かれた御様子でした。本荘を知る者にとってこれ以上の驚きはそうざらにはない出来事でした。
 本荘は地元の小学校の教師をしながら絵を描き、春陽会会員になったのち50才で専業画家になったものの画商嫌いのため、その名はほとんど世に知られることなく、皮肉にもそのお陰で精神性の高い、画格無双の作品群を残せたわけです。本荘は三綱から図ではなく絵を教わり、鶴三から物の裏側を描く事を教わり、安田画伯の夢でもあった日本画を油彩で描くという難事を具現化したのであります。本荘作品の魅力は静隠な画面にひそむ深い観照性にあることは誰もが認めることでしょう。しかしその裏側には「画道はこれ丈夫の道」という命懸けの覚悟があることを忘れてはならないでしょう。いわゆるアーチストの氾濫する時代に、古武士のような一徹で硬骨な本荘のような画家はもう現れないかもしれません。洋画会の渡辺崋山がこの平塚から出たことは平塚市民として誇りに思っています。最後に、日本人が描く油彩画を高いレベルでひとつの形として完成させた功績は、洋画史上もっと評価されていいと思っています。

絵のある待合室54

二見利節 「作業S」通称傘屋 10号   画狂人の系譜

湘南とくに平塚ゆかりの画家を顕彰発掘することを主眼としている私にとって、二見利節の作品はなくてならない。その中でも二見の第1黄金期である昭和10年代の作品に巡り遭うことは容易くないである。そんな折、高木美術の故高木健雄氏が二見の人物画を入手したとの連絡があり、駆け付けてみると、そこにはあの「傘屋」10Fがあったのだ。この作品は昭和12年の春陽会に出品された「作業S」通称「傘屋」のバリエーションであり、資料としては残っているものの図録もなく関係者の間では幻の作品であった。当時、この作品を見て帰朝した青山義雄はなぜ賞がつかないのか不思議に思ったとの感想を残しており、また当時の二見のことを木村荘八は「若くして自得の風を持つということは作家の資質にかけて識者に迎えられる条件の一つ」と評し、坂本繁二郎は「色彩のスケールが豊かで表面より寧ろ底力がある。色彩も単なる色彩のためでなく実相追求になっている。それで良く見て居る方がだんだん良くなって来る」と評し、「明日の画壇の為に二見氏が 必要不可欠である」とまで絶賛している。原田 実氏(初代平塚美術館長)は二見の回顧展図録の終りにこう書いている。「実相追求の画家、二見利節は絵を描くことへの執念においては旧友長谷川利行と同じように、立派に画狂人・葛飾北斎の系譜につらなる存在であったといえるでしょう」と。

絵のある待合室55

川島理一郎  日本初のコスモポリタン画家

「ナポリ・ポッツオリの岡」1925 8号

川島は、日本人として初めて仏の官展に入選し、1920年代の邦人としては他の追随を許さない破格のコスモポリタン(日、米、仏を股にかけマチス・ピカソなどと交流)であり、日本の近代洋画界に多大な貢献をしてきたにもかかわらず、正当な評価が長い間なされなかった悲運の画家とされている。その理由は、滞欧期の代表作数百点が2度の災難(関東大震災と貨物船沈没)で失われたこと、そして日本の美術学校を出ていないことなどが遠因となっている。しかし、幸運にも2002年1月から5月にかけて、25年ぶりに川島画伯の回顧展が栃木県美と足利市美で行われ、この作品も新発見として出品され高い評価を受けることができた。川島芸術のささやかなリベンジとなった。数多の洋画家がいる中で、ぐるりと回って元に戻ると、やはり「川島でしょう」という事になる。「東洋のマチス」「西洋の池大雅」の異名を持つ彼の油彩は、日本人でしか描けない世界に通用する特質を十二分に備えている。ただただ、画品高く颯爽と美しく大胆だが繊細、当に明治人+コスモポリタンの川島でしか描けない香り高い作品なのである。誰がこの作域に達する事が出来ようか!先入観なくゆっくりご覧下さい。どうか、皆さんも「やっぱり川島でしょう」という事になりますように。

絵のある待合室56

武井直也  初めて買った彫刻

「女の首」1925年頃 ブロンズ(1969年鋳造)42x16x27cm

平成12年1月、絵の代金を払いにG画廊に行ったところ、素晴らしい婦人頭部のブロンズを見た。一目ぼれであった。院展彫刻の風雲児であり、東洋人として初めてブールデル教室の塾頭を務めた俊英である。師から学んだ簡明で堅固な構築性に、独自の研究で会得した古代ギリシア彫刻を融合させたロマン漂う作風は、当時から高い評価を受けた。今でもその魅力は色褪せない。帰国後、その作風の完成の矢先にチフスで夭折してしまった。享年47歳。この作品については、岡谷美術考古館に問い合わせたところ、昭和44年に岡谷市が夭折した武井作品を永久保存するためのブロンズ化した貴重な作品のひとつであることが判明した。私の好きなガンダーラ彫刻にも似ている引き締まった唇から漏れるアルカイックスマイルと大ぶりで気品溢れる柔らかさは、留学中の作品とは言え、武井独自の模索が見え隠れしている。美の源流であるギリシアと巨匠ブールデルの狭間で、武井は何を考え、何をなそうとしていたのだろうか。彼の声なき声を彼女は囁いてくれるだろうか。現在、武井作品は2点となった。

絵のある待合室57

遠山五郎  待ってました!五郎さん

「赤いシャンタユ」1920 20号  遠山五郎画集№24掲載 ソシエテ・ナショナル出品入選作

まさかの遠山五郎滞欧作、それも代表作として知られている名品を入手してしまった。遠山は印象派で出発したが次第に脱皮して独自の芸術観によって新しい画境を切り開き、穏やかな人柄で芯が強く、その鋭い感性からは明るく高雅な作品が生まれた・・・新豊前人物評伝(中村十生著)には長命ならば文化勲章も間違いない画家であったと絶賛されている。誤魔化しハッタリのない欧米仕込みの画力に加えセザンヌ・ゲランを独自に消化した深みのある優品である。現存作品も少なく、市場にもほとんど出てこなく、特に滞欧時代の出品作は幻と言われている。日本洋画の歴史においても貴重かつ重要な作品である。師のゲランも日本人画家の中では最もその実力を認め、他の邦人大家に自慢していたという。病床の中村彝像を描いたため結核が感染し、体力が落ちている時に虫垂炎を併発し急逝(享年40歳)したのである。危険を顧みず親友彝を命がけで描いた信義の人でもあった。五郎の面目躍如たる一面だが、その代償はあまりに大きかった。このように「一将功成りて万骨枯る」の喩え通り、彝の周辺には力のある仲間の存在は周知の通りだが、それらの全貌を明らかにするのは困難を極める。しかしこの1点で遠山五郎を偲ぶには十分な作品と思っている。同時期の彝の婦人像の画風がこの作品に酷似しているのも何かの偶然だろうか?日本洋画の福岡山脈の一峰を立派に形成している遠山五郎山は今もその輝きと威厳を失ってはいない。

絵のある待合室58

四谷十三雄の自画像

数年前、平塚市美術館で四谷展が開催された折、入口正面に展示された優品です。四谷作品にはサインがあるものは十数点しかありません。その中の一枚であり自画像にサインですから四谷自身も気に入っていたのでしょう。皆さんもよーくご存じの作家ですが、2013年の没後50周年に向けての更なる再評価にご協力お願い申し上げます。

四谷十三雄(1938~1963)享年25歳 横浜市出身

絵のある待合室59

大島哲以 「死せる小鳥のいづこにかサフラン色に咲き出づる」

何と美しい青だ!何とドラマチックな構図だ!

これは大島哲以の初期代表作(30号1962)である。大島は人人会の創立メンバーであり、日本幻想絵画の先駆けとして多くの知識人や数寄者に絶賛された鬼才でもある。

小鳥から咲き出づるサフラン・・・サフランの花言葉は「歓喜」とある。画家の目には、骸になったばかりの小鳥から生命の歓喜がサフラン色となって見えたのだ。まさに永遠の生命の存在があればこそ「生も歓喜・死も歓喜」となる。生命の永遠性こそが芸術の永遠性の根拠ともなろう。大島哲以は語る・・・ 「キリストは人類の為に全ての罪を背負って死んだと思われているが、彼は其の後、救い甲斐のない人間に愛想をつかし、十字架の釘から手足を引抜き、天なる神の元に帰った事を知る人は少ない。それ以来我々は自分の血で、涙で自らの罪を償わねばならなくなったのだ。画家はこの事を誰よりも先ず、身を以て体得しなければならない立場にあるのではなかろうか?・・・この宿命を背負った人間が生きている事に深く感動することが出来るひとに、私は、今後も語りかけて行きたいと思っている」と・・・

絵のある待合室60

藤崎孝敏Cauvineという画家

2009年12月にようやく入手できた藤崎孝敏の作品「眠る子供」25号である。10年前から注目していた作家だ。松永伍一氏が言うように、巴里の貧困街に住みつき最低線の暮らしの中で、見放された住民たちを刈り取るような慈しみで描くその孤高の画風は別格である。まさにスーチンを彷彿させる。商業主義に毒された日本の美術の足腰の弱さを批判するようであり、命がけでない芸術創造などあってならないと訴えているようだ・・・この作品は藤崎には珍しい幼子の絵である。この貧しい幼子を闇から浸み出る光でドラマチックに描いている。希望はそこにある。

絵のある待合室61

11代長谷川喜十郎 「神農」51㎝ 大正~昭和

見事な彫りである。号は湛彩。天才宮大工仏師として名高い10代喜十郎(明治10年~昭和10年)の長男(11代長谷川宗一)の作品であることが滑川市博物館の白岩氏のご尽力で判明した。10代は猪首短身で荒削り、11代は長身立像繊細な彫りを特徴とすると言われている。この神農は11代の特徴をよく表している優品であるとされる。2014年には、出身地の富山県滑川市制60周年を記念して長谷川喜十郎展が開催されるという。喜十郎一門の調査研究が始まったばかりである。350年の伝統と格式を守る名門仏師・長谷川喜十郎(現13代)の作品群が一堂にみられることを期待したい。

絵のある待合室62

小穴隆一「糸糸」30号 大正末~昭和初期頃

芥川の晩年に強い影響を与えた画家、それが小穴隆一における一般的な評価でないでしょうか。太平洋画会研究所に学び、中村不折に師事した春陽会の小穴の作品は、ある一定のレベルには達していたことは想像に難くないでしょう。しかし、彼の画業も現在においては忘却された他の作家と同じような存在となっていますが、芥川との関係があるが故に他の忘却された作家とは一線を画しています。彼にとっては幸運なことと言えるでしょう。5~6年前、小穴作品(晩年の春陽会出品作など)がアトリエからまとめて出てきた事がありました(梅野記念絵画館所蔵のマンドリンを持つ女もこの時出てきたものです)。その中にこの婦人像30号があったのです。大きな作品が故に優れているにも拘わらず売れなかったのでしょう。忘却の物故作家では往々にして良くあることです。。当時、小穴をよく知らなかった私はこの画家に興味を覚え、資料を調べたりしていましたがいつしか歳月が経ってしまいました。1年経ったでしょうか。H堂に立ち寄った折、あの婦人像話をするとまだ残っていたのです。小穴の著作「白いたんぽぽ」の中に興味深いことが書かれています。抜粋:「大正12年の夏は右足をとられたあとの弱ったからだで、商売をやめてしまった平野屋の一つの座敷に、芥川龍之介と寝起きをともにしていた。まだ、死ぬ話をしようなどという芥川でなかったから、思い出すことがほのぼのとして明るい……芥川が一時東京に戻っている留守の間、私が一人で淋しがったりしないように、モデルになることを芥川さんにたのまれた……谷崎の初期の小説に度々書かれている女で、芥川が保証人になっていた活動女優、この女も芥川の話では谷崎にこしらえて貰った黄色の布の着物で、モデルになってくれていた……。」この絵の婦人がもしかするとこのモデルかもしれないと思い立ち、友人のSさんからの情報で芥川研究者のS氏(芥川記念館設立委員会代表)にお願いして、この絵のモデルと芥川の関係について調べてもらっています。小穴の全盛期の婦人像です。薄塗りの迷いのないタッチは心地よく、あの芥川肖像の傑作「白衣」に酷似しています。おそらくは大正末から昭和初期に描かれた出品作のひとつでしょう。芥川と何かしらの関係が見つかれば面白いのですが…。情報のある方、ご教示下されば幸いです。

絵のある待合室63

大正期・青森美術運動のリーダー 前田照雲

前田照雲「冬野」1915 29x36cm 

前田照雲(1879~1924)は、木彫界・忘却の巨匠の一人である。明治30年頃に青森から上京、高村光雲に師事した後、馬体彫刻で認められた。その後、たびたび明治天皇、大正天皇、宮家に買い上げられ、日本美術協会展、文展での受賞が続き、青森県内ではその名声が注目されるようになる。特に大正期の活躍は目覚ましく、東京在住の青森県津軽出身の芸術家集団「六花会」を創設、その他五星会、北冥会、白曜会などに関わり、青森県出身の在京美術団体の中心的存在であった。

 幸運にも近代日本彫刻集成第2巻に私の所蔵する「寿老人」が資料図版として掲載された。そんな縁もあって、彼の真骨頂である馬体彫刻の優品を探していたが、何とネットに出て来たのである。さすがに驚いた。意地で落札した。照雲の馬に対する造詣は深い。「美術之日本」大正5年の中で彼は、画家など芸術家の馬に対する表面的でいい加減な理解による制作態度を戒めている。おそらく当時としては彼が馬体彫刻家の頂点のひとりだったことは間違いない。皇室や宮家が彼の馬体彫刻を相次いで買い上げたり、献上されているのはその証左である。馬といえば池田雄八や伊藤國男が有名であるが、照雲の木彫は一味違うようだ。この作品は、大正期に輸入されたサラブレッドであると思う。冬野でのびのびと馬が喜んでいるのがよくわかる。同じ題名の「冬野」が東京勧業博覧会で二等賞を受賞しているが、この作品との関係は如何に。ちなみにこの作品は第3回芳流会の出品作であることがわかっている。

 現存確認されている作品が少なく調査研究が難しいが、大正期の青森の美術運動には欠かすことのできない最重要作家である。現在、照雲研究の第一人者である青森県郷土館の對馬美恵子氏にいろいろ調べて頂いている。本当にありがとうございます。

絵のある待合室64

木原千春 「カエル」 40号 紙・油彩

17歳の時、郷里の山口で描いた作品である。嫌がる彼女から奪い取った最初期の傑作である。

世界標準となる可能性があると目されている若手作家のひとり。

今後の進化が楽しみだ。

絵のある待合室65

都鳥英喜 「鎧村」 25号 1924

浅井忠の片腕として関西美術院の教授となり、安井や梅原など多くの人材を育てた近代日本洋画の大功労者である。しかし、現在は忘れ去られており残念。この作品は留学から戻ってすぐに描いた出品作である。「遅すぎた印象派」「風景に佇む画家」の異名を持つこの穏健質実の画家を忘却の彼方から呼び戻したいものである。

絵のある待合室66

河野扶  20号 1960 グループ人間展出品作

私の尊敬してやまない故梅野隆館長(美術研究藝林、東御市立梅野記念絵画館初代館長)が、その余生をかけて発掘顕彰したいと言わしめた作家である。梅野館長は河野扶を「日本人による日本の抽象」を初めて描いた偉大な作家と評価し、その作風を「哲学する絵」と謳った。彼は東大の数学科を出たのち高校の教師をしながら哲学する絵を描き、孤高の中にその生涯を閉じたとされる。2013年に東御市立梅野記念絵画館で回顧展が開催されるという。大いに期待したい。

絵のある待合室67

川上邦世 「春風駘蕩」 1916  71㎝ 第3回再興院展出品作

2010年群馬県立館林美術館に新発見として出品された幻の名品である。この作品は彼の代表作であるばかりでなく当時から賛否両論渦巻く問題作でもあった。酒豪で豪放磊落、高度な技量と東洋的作風は同じ天才肌であった佐藤朝山とも比べられた逸材でもあった。大正14年39歳で夭折したため現在まで11点が確認されているに過ぎない。今後、このユニークな天才彫刻家の展覧会が開催される日を夢見ている。

絵のある待合室68

鈴木保徳 「農人茶時」1933年 30号 独立展出品作

「孤高」「反骨」という言葉に値する画家の一人が鈴木保徳である。三彩№397の鈴木保徳論(竹田道太郎)は興味深い。抜粋してみよう・・・画家、鈴木保徳は生涯ジャーナリズムに背を向けて来た。そういう画家だった。自己宣伝は全くしない。自分の創作信念は堂々披歴するが、一歩も退かないから損をする。妥協を知らぬ。そんなことを意に介さない画家だった。・・・漸く絵画熱旺盛に向かいつつあった昭和7、8年頃当時の画壇を毒しつつあった画家の取り巻き連中にグサッと刺し込む鋭い批判を繰り返した。また、帝展を帝展祭と評し、下劣な評論家や興行師、そんな輩に迎合し観客の前で無意味な曲芸を売る作家の群を嘆いている・・・・竹田氏曰く「保徳芸術が辿った筆の跡は評判の高い他の独立作家の画績に比して劣らず、むしろ高い評価を受けるべきであり、再発見・再評価がふさわしい作家である」と。

この作品「農人茶時」について作家が自ら制作過程を解説している・・・「この二人は農人である。二人の男女を同じ向きに座らせた。その代わり男の顔を女の方に振り向けて同向の単を破った。この二人の組態を画面の右寄りにさせて二人の背後に空間を明けたかった。この画は幾度も描き変えた。最後に二人の前に土間用のテーブルを置いて漸く構図にも落着を得た。画面の縦乳白線は大分やかましい質問にも会ったが、結局は二人の人物等には全然かまわず、画面を軽い白と鈍重な赤褐色とにぶつ切て見たわけである」・・・

この作品がネットオークションに現れたとき、とてつもない懐かしさを感じた。独立美術8<鈴木保徳特集号>の巻頭カラーで掲載されている作品であったからだ。鈴木の初期独立の農人をモチーフにした作品群は当時、彼が嫌気のさした画壇(官展)に対するひとつの回答(真実の芸術精神)だと思っている。彼の画業の中において農人の初期作品群は、独立だけでなく日本洋画史にもユニークは画績として残るだけの価値があると思っている。いつの日か、鈴木保徳展が開催され、その全貌と再評価がなされる事を期待したい。

絵のある待合室69

津高和一 「無題」 1949 12号

津高が抽象に移行する時期の初期優品である。世界に通用する日本人の抽象絵画を確立したリーダーでもあった。阪神・淡路大震災で亡くなり残念でならない。この作品は先妻が他界した年に描いた作品である。画題は「二人」としても許されると思う。合掌。

絵のある待合室70

砂澤ビッキ 「樹鮭」 1970年代
言わずと知れたビッキの代表的モチーフである。
ビッキ文様で覆い尽くされた90㎝を超すサケの迫力は圧巻である。
ビッキ好きには堪らない逸品である。

絵のある待合室71

芥川麟太郎 「白火」 1973 20号 

芥川麟太郎は私にとって長い間、伝説の画家であった。四谷十三雄「自画像」と星野鐡之「ビンの静物」はすでに所蔵していたが、伝説の3人の中で、ただ一人芥川だけが空白であった。そしてようやく彼の作品に巡り会うことになった。この「白火」は初期代表作であったが詳細は不明である。今から6年前、土方明司氏から芥川氏の個展を是非見に行くように勧められた。芥川氏は桜木町の個展会場に悠然と座っておられた。そして1時間の懇談となった。四谷の話、絵画論、佐藤一英(義父)など・・・そして「白火」の話になった。この作品は自画像であること。執着した時間が長く、多くの絵画的実験が塗り込められていること。売れたことに驚いたこと。中心となっている人物の四方の空間、特に人物の後方の窓から見える雲が、実は人物の前に描いたことを一流の画廊主が気づいてくれたこと。ジャコメッティーの絵画理論に近いこと。当時は生活が苦しかったこと。そしてこの自画像である「白火」が今まで行方不明だったこと・・・33年前に描いたこの作品を写真すらないにもかかわらず、眼前にあるかのように話をしてくれたのには感動したものだ。白火は画家にとってまさに時空を超えた若き画家自身であったのだから忘れるはずもないのだ。これで、ようやく自分なりに幻の3人展が出来る。

絵のある待合室72

田中繁吉 「裸婦」 20P 1930頃

I画廊を訪れた平成11年夏のことです。20号の素晴らしい「裸婦」が私の眼に飛び込んできました。作品から滲み出る柔らかい品のある心地よい香りは一瞬にして私を虜にしたほどです。I氏によれば作者は田中繁吉、帰朝後数年経った1930年頃の作品ではないかとのことでした。田中は大正10年に東美(藤島教室)を卒業していますが、田中を加えた7名(田中、伊原、前田、中野、千久馬、亜夫、田口)は世にいう「花の大正10年組」と云われているほど逸材が多く出ました。このメンバーの中でも田中の裸婦や婦人像は優作として教室に掲げられ、当時「威圧される」と居並ぶ同期生を唸らせたと云います。滞欧してキスリングの影響を受けますが、帰国後数年した裸婦は古典派期のピカソやドラン、安井を連想させるような太めのたっぷりした裸体です。  しかし、その画風は田中独自の日本的美意識に支えられたものと化しており、この時代を象徴する特色ある日本の裸婦画となっていると思われます。高島野十郎の発掘でも知られている福岡県美の西本氏は、「この時代の田中作品は研究するに値するだけの才能の煌きがあり、この作品も田中最上質の裸婦画である」との評価を頂いています。昭和10年以降から甘美なフォーブ調の裸婦・婦人像になって行く傾向が強くなりますが、帰朝してから数年間に描いた裸婦はまさに田中にとって晴天の霹靂であったといえるでしょう。

絵のある待合室73

林 倭衛 「 巴里城壁」8号 1922~1923

伊藤順一氏旧蔵の作品で、著書「昭和遠望」に掲載されている作品でもある。林 倭衛の評伝は小崎軍司氏のものが定本となっており、林の娘さんは文壇バーで有名は「風紋」の聖子ママである。絵好きは皆、林の作品に心惹かれるものだ。特に滞欧作はその貴重さもあって巡り合いを待ち望んでいる。この作品との出会いは今から15年くらい前になる。G社でこの作品の写真を見せてもらい感動したが高価なため諦めた。そして15年後に再会となった。今度は頑張って我が物にした。波乱万丈な人生を歩んだ林だが、この時期の作品は密度があり精神的にも充実している。この作品も彼の代表作となる資格は十分にあろう。

絵のある待合室74

北村四海 「子供と蛙」 大正期 大理石

北村四海には珍しい作品である。おそらく依頼されてつくったものだろう。来歴は不明だが良家の応接間の片隅を飾っていたことだろう。

絵のある待合室75

青山熊治 「着物婦人像」 8号 1925~1929

この作品は1971年の青山熊治展(元町画廊)と1972年の没後40年記念展(兵庫県立近代)に出品されている。

青山熊治には識者のコアなファンが多い。「老坑夫」「アイヌ」「金仏」など圧倒的な画力で20代前半には画家としての地位を築いてしまった。しかしロシア、ヨーロッパ放浪の旅に出てからの10年間(1913~1923)で、(伝説ともなっている極貧の中での絵画修業)画壇から消滅したに等しい受難の時代があった。帰国後、1911年以来15年ぶりに満を持して発表した「高原」が1926年に帝国美術院賞となり、奇跡の復活を成し遂げ、九州大学の壁画完成直前に急逝してしまった。1931年没、享年46歳。

絵のある待合室76

笠置季男 「哺」 1951 30㎝

二科を代表する彫刻家、笠置の代表作である。10年以上前からこの作品を探していた。2011年2月にようやく見つかった。見ての通りその造形は優しく近代的である。笠置の中でも一番好きな作品だ。

絵のある待合室77

吉田芳明 「鍾馗」 33㎝

吉田白嶺の実弟であるが、兄の白嶺よりも早く彫刻では名を成した名手である。
量感を出して面で彫る伝統的な彫技は見事である。隠れファンも多い作家でもある。

絵のある待合室78

湘南の四傑  森田 勝(1904~1944)

「女と男」 滞欧作 SM 板油彩

世に言う湘南三傑とは萬、鳥海、原の3人だが、実は鳥海と原に大きな影響を与えた洋画家がいる。その人の名は森田勝である。森田勝は湘南洋画を語るには不可欠な存在であるにもかかわらず、眼に触れる作品は少ない(1932年のアトリエの焼失、41歳での夭折)

1922年藤沢中学に編入し、2年上の鳥海と同級の原とは兄弟のように親交がもたれた。翌年、20歳の時に原とともに萬に師事、1929年に渡仏し1935年まで滞欧した。その間、鳥海を呼び寄せアルジェ、スペインを旅行し鳥海の画風に強い影響を与えた。また、原は森田を実の兄のように慕っていたという。

1935年滞欧作で春陽会賞受賞し、同年9月資生堂画廊で滞欧作展開催。1937年昭和会奨励賞受賞したが、肺結核が進み、軽井沢に転地療養、1941年には鳥海夫人の末妹と結婚。1943年1時間だけ筆を持つことを許され制作を続け1944年永眠。

picture2この作品は現存する貴重な滞欧作であり、よく似た婦人像が平塚市美術館に収蔵されている。森田勝研究の第一人者である元平塚美の森田氏も貴重な内容のある滞欧作の発見を喜んでくれた。今後、森田が忘却されないためにもこの作品は大切にしなければならない。

絵のある待合室79

木内 克 「猫」 1965 テラコッタ 高さ45㎝

木内の猫、テラコッタである。木内の滞欧作1925(テラコッタ、一説には白色セメント)の裸婦を所蔵しており、今度は木内に切っても切り離せない猫、それもテラコッタとの出会いを待っていた。結婚18周年の夜、偶然に旧知の画廊で見てしまったのだ。妻に泣きつき入手となった。45cmの大きな猫である。木内は猫の姿態から裸婦を作ったという。ギャラリー無境の故塚田晴可氏曰く・・・「化粧土で仕上げたテラコッタの柔らかい肌。デフォルメされた背中に宿るしなやかな筋肉。ピンと立った耳は、どんな小さな物音さえ聞き逃さない。古代エジプトの猫を髣髴とさせる面差しも嬉しい・・・」。ファラオのように高貴で霊性宿る顔つきはこちらの背筋をシャンとさせる。

補足

1972.年 木内克をテーマにした映画「 土くれ」と「 木内克とその作品」が完成、これが文部省芸術祭の記録映画部門で最優秀賞に選ばれた。そのDVDを購入し鑑賞したが、木内のテラコッタをひねり出す無言の映像が17分間続く。不思議なドキュメンタリーであった。木内テラコッタのファンにはお薦めである。

絵のある待合室80

伝 長谷川利行 「秋」 20P

キャンバス裏には彩美堂のシール(シールは本物であると確認済み 70円也)が貼られている。「東京市下谷区上野谷中坂町二一」。これが彩美堂の住所である。上野桜木から根津へゆく坂道の大通りに店をかまえていた画材屋額縁屋で、上野での展覧会に応募出品する貧乏絵描きたちに額縁を貸して重宝がられていた。いつ頃からかしげしげとこの家に出入りするようになった利行がこの彩美堂をアトリエにして絵をかくようになったのを寺田政明は目撃しているし、この額縁屋をとおして自作の予約販売さえこころみている。また額縁を宣伝するための作品(額絵)も描いている。この作品も彩美堂額屋を通して予約販売した作品あるいは額絵ではないかと推測しているが、如何だろうか?追記:利行に詳しい研究者の話では、ゴッホ風の画力は素晴らしく、今後このような作品が利行研究の対象になってくるだろうとのこと。更なる研究と新発見資料に期待したい。

絵のある待合室81

福田新生 「静物」 20号 1940

福田新生を知ったのは、彼が同郷(福岡)の先輩である遠山五郎について語った記事を読んでからだ。彼には芸術的文才のきらめきがあり、著書も多い。19歳の初出品で光風会賞を受賞し一水会、日展と画壇の地位を築いていったが、私は彼の戦前作品を探していた。そんな時、出会ったのがこの作品である。古きよき時代の光風会、一水会の雰囲気が品よく爽やかに描かれている佳品である。今となっては描けそうで描けない静物画ではないだろうか。福田新生「美術と思想の話」昭和22年はおススメである。

絵のある待合室82

土方久功 「孤島」 1952 79x60x4㎝ 第2回丸善個展出品作(1953)

 この作品も前出の「巻き毛」と同じ第2回丸善個展に出品され、以後各展覧会に出品されて来た土方の代表作の1つである。後年、水彩画でも描いているし孤島という詩も作っている。土方の人生は実にドラマチックで、その幅広い交友関係も興味深い。画家、彫刻家、詩人としての業績はもちろん、南洋民族学者としての彼の仕事の内容は群を抜いており、学術的に見ても世界に誇れる偉業である。彼が残した芸術作品とともに更なる再評価が待たれる。しかしながら、不可思議で柔らかで忍耐強く強靭なこの作家の魅力は他の作家とは異なる次元であるとつくづく思う昨今である。

絵のある待合室83

燻し銀の画家 山下大五郎「栗と柿」 1963 10号

 山下大五郎と言えば晩年の安曇野風景を思い浮かべる方も多いであろう。しかし、私とって山下大五郎は平塚銘柄であり、萬鉄五郎の愛弟子4人(森田勝、原精一、鳥海青児)の内のひとりなのである。この静物画は、1963年日本橋三越での個展出品作である。東美卒業後の20代前半を平塚で過ごし、現秦野高校で図画教師をしている。師匠である萬に「色数を抑えて描くように」とアドバイスされ、その教えを生涯貫いた燻し銀の画家でもある。この作品は55歳の壮年期に試みた構成主義的な作風で数少ない静物画の優品である。湘南平塚最後の大物画家として是非、平塚市美術館で回顧展を開催してほしいものである。

絵のある待合室84

吉田白嶺 「芭蕉」 42㎝ 1931 第18回再興院展出品作

吉田白嶺ファンの私にとっては、嬉しい出会いだった。一目見て吉田白嶺の代表作であると分かった。それは遺作集「木心選集」に掲載されていたからだ。残念ながら共箱はなくなっていたが、保存は完璧であった。これで白嶺の代表作は5点となった。近い将来、「吉田白嶺展」はできないものだろうか?Y・Sさんお願いしますね。

絵のある待合室85

梅野隆が惜愛した孤愁の水彩画家

新発見 相田直彦「水郷」10M 1916年頃

ここに薄い1冊の画集がある。発行者は美術研究 藝林 梅野隆とある。

その初めには・・・「相田直彦1886~1946の数少ない遺作を公開いたします・・・そして本展示を機に、相田芸術の愛好家が増え、さらに相田作品の発掘が進み、逐次年を重ね、相田芸術の研究が進んで行くことを心より願ってやみません」と締めくくっている。この相田直彦顕彰展で公開された作品は7点に過ぎない。すべて昭和に入ってからのもので不透明水彩である。どれも優品であるが透明水彩の初期作品は梅野館長も巡り会っていないとある。この作品を見たときは、なんでこんな所に?そして梅野館長を思い出した。すぐに相田の郷里である福島県立美術館に問い合わせてみた。知人の学芸員を通じて増渕鏡子氏から次のような回答があった。「相田直彦の初期作、大変面白いものだと思いました。大正5年の第10回文展出品作が“潮来の村”で同じような絵であり、サイン、書き印も同じです・・・とは言っても行方不明の作品ですので日展史からの図版です。情報ありがとうございます。初期作は貴重です」と。相田の不透明水彩は時折見かけることがあったが、すぐに売れてしまい何回か機会を逃していた。しかし、今回はノーマークであった。隣市にある旧知の画廊にひっそり残っていたのだ。かなり以前の業者の交換会で入手したものだという。東京だったら売れていただろう。透明水彩のもつ柔らかで大ぶりな優しいタッチは、目から離して行くとだんだん絵から風景に変わって行く。まるでマジックだ。光と空気と湿気が表出できるのは明治~大正期の透明水彩の独壇場だ。梅野館長が生きていれば、この絵を見て何と言っただろうか?この絵を入手したのは1周忌の7月28日であった。

絵のある待合室86

土方久功 最初期のマスク 1924

今から10年前くらいになろうか。土方の最初期にマスクブロンズが旧知の画廊に置いてあった。とにかくイイのである。1924年の年記とともに力強く久功と刻銘してある。ほとんど記録に残っていない時期の作品である。最近、1991年世田谷美術館で開催された土方久功展の担当者である清水久夫氏と連絡が取れ、いろいろとご教示頂いた。清水氏は土方研究の第一人者であるばかりでなく、土方久功日記を翻訳し世に送り出すという学芸員としてまた民族学者として非常に重要な仕事をされている。これこそ学芸員の鏡であると言ってよい。若き学芸員諸氏も展覧会だけで終わることなく、その奥にあるものまで触ってほしいものである。さて、清水氏のお手紙にはこう記されていました・・・「ご所蔵のマスク、全く知りませんでした。実に貴重な作品で、もしわかっていたら世田谷美術館での展覧会に出品したかったです。敬子夫人も知らなかったはずです。南洋へ行くときに親しい人たちに作品を預けていたのですが、戦争があったこともあり殆ど残っていないと聞いていました。どうしてこの作品が残っていたのか不思議です。「土方久功日記」が刊行されれば、また久功を取り上げる著書、論文も刊行されるでしょう。再び、この作品にも光があてられることになるでしょう」・・・

絵のある待合室87

本荘 赳 「童女図」 3号 1940 板 油彩

本荘赳は平塚が生んだ洋画界の渡辺崋山である。その高邁な人格から描かれる作品には画格があり、絵好きにはたまらない。寡作であり隠れファンも多いため作品が市場に出ることはあまりない。この作品は旧知の画廊から分けてもらったが、裏書には、”第一回個展記念に勝三郎氏に贈る”とある。今後の本荘研究の資料となろう。

絵のある待合室88

中村直人(1905~1981)院展彫刻の重器から最後のエコール・ド・パリの画家に転身した稀有な鬼才である。画家志望から彫刻家に進路変更することは多々あるが、その逆は珍しいという。その理由は、2次元は3次元に勝てないからだと知人の彫刻家は笑っていた。3次元の彫刻の味を知ってしまうと2次元であるタブローは物足りないというのは、案外本当なのかもしれない。確かに、彫刻家のデッサンはイイものが多い。その理由は3次元を知っているからであろう。さて、今回は戦中作品2点である。いずれも優品である。直人の人物彫刻は小品とはいえ刀の切れ、造型ともに院展の良き伝統(仏師的、職人的、近代的)が見て取れる。今の彫刻家にはないモノがたくさんあるのだ。

  • 吉田松陰(昭和18年春作)23.5cm 共箱 2012年「中村直人彫刻の時代展」出品

志高き正義感強き松陰の人となりが見事に表現されている。図録に同時期の松陰の墨絵が掲載されていた。直人が好く彫った良寛、一茶、芭蕉とは趣の異なるこのような武士像は珍しいと思う。やはり、戦中ならではの作品であろう。

絵のある待合室89

張果老(昭和16年春作)41cm 共箱  2012年 「中村直人彫刻の時代展」出品

見ての通りの名品である。明治生まれの木彫家の多くが張果老の優品を彫っているが、この張果老もまたイイ。
台座と足の境目がルーペで見ても一本の線のようにキッチリ彫ってある。通常この部分は甘さが見られる所だ。彩色も見事である。岩のデコボコに墨で陰影を付けているのは心憎い。よくぞ出てきた!とこの作品との出会いに感謝している。

絵のある待合室90

林 重義 「紫衣の踊子」 SM 板 油彩

神戸出身の画家である林 重義は終戦直前の混乱期であった昭和19年に47歳の若さで生涯を閉じたため、その存在が忘れがちになっているが、独立美術協会の創立会員でもあった鬼才である。この作品は全盛期のルオー張りの優品である。小品だがその存在感は流石である。

絵のある待合室91

作者不詳 20号  滝の詩

滝の如く激しく 滝の如くたゆまず 滝の如く恐れず

滝の如く朗らかに 滝の如く堂々と

男は王者の風格を持て

絵のある待合室92

林 武 「幹子夫人像」1920年代 3号 ボード 油彩 レゾネ掲載作品

林武が巨匠となれたのは幹子夫人の存在が大きいことはよく知られている。画家の妻の鏡でもある。慈愛に満ちた夫人の瞳が印象的である。このボード裏には林の指跡がクッキリ残っている。貧乏時代の青年画家が、ボードを左手に持ちながら愛妻を真近で描いていた風景が浮かぶ。この作品にはサインがない。その代り幹子とあるのは、特別な作品であるからだろう。当にプライベート作品の傑作であると思っている。画家は妻の絵を描くことが多々ある。「画家の妻」展も面白いと思うが如何だろうか。

絵のある待合室93

川又常正 「伊勢物語 河内通い」 33.8×49.8cm  (生没年不詳:江戸時代中期の浮世絵師)

常正は、川又常行の門人。享保(1716年-1736年)-延享(1744年-1748年)期に、師・常行と同様の温雅な画風の肉筆美人画を数多く残している。釣雪斎と号したが、署名は「常正筆」でほぼ一貫している。代表作として、「浴室脇の男女図」、「桜下遊女と禿図」、「見立許由巣父図」、「婦女観花図」、「桜下詠歌美人図」(以上東京国立博物館所蔵)、「羽根つき美人図」、「見立紫式部図」(以上出光美術館所蔵)、「青楼遊客図」(板橋区立美術館所蔵)などが挙げられる。古典文学や故事を題材とした見立絵を得意とし、京都の人気絵師西川祐信の絵本から図様を拝借した。常正の描く美人は、その大半が少女のような愛くるしさを湛えており、その中性的な美人表現や風俗描写は鈴木春信と共通点が多い。現在確認されている作品数は50点前後。門人に、川又常辰がいる。埋没物故作家(洋画、彫刻など)の発掘顕彰をライフワークにしている私にとって、その過程でどうしても浮世絵(世界の近代洋画界を変えたのはまさしく鎖国が生んだ日本独自の庶民絵画芸術の頂点であるのが浮世絵である)を避けては通れない。その中で特に肉筆浮世絵の魅力は特別だ。この作品は川又常正のものであり、祐信から影響を受けつつも春信に多大な影響を与えた京の浮世絵師(生没年不詳)で、狩野派・土佐派と言った伝統絵画の技法も踏まえた上での肉筆浮世絵を描き、その女性像は中性的で可憐であるとされているが、常正に関する資料は少ない。

絵のある待合室94

水野 朝 「かお」 1970 10号

私は、水野 朝の20代の作品が好きだ。1枚ほしかったがこの1枚あれば満足である。1階の突き当りの壁に掛かっている我が家ではお馴染の婦人像だ。なんとなく妻に似ているらしい。

絵のある待合室95

木心舎 「兎」 1939 27㎝

切れ味のイイ兎である。共箱には舎主である吉田白嶺の監修印が押されている。資料的価値のある珍品である。

絵のある待合室96

鈴木正道 「夕暮れの村 アグラ インド」 SM キャンバス油彩

作者は横浜元町では有名な画廊、「爾麗美術」の主である。横浜洋画の正当な継承者として貴重な存在である。

絵のある待合室97

今西中通 「風倒木」 4号 ミクストメディア 梅野隆シール

今西を再発掘し、私財を投じて世に出したのは故梅野隆氏(東御市梅野記念絵画館初代館長)である。この絵の質の高さは尊敬するH学芸員のお墨付きであるが、梅野館長のシールがこの絵の価値を証明している。今西の抽象は今も新しい。

絵のある待合室98

中山巍 「猫を抱く少女」 1948 30号 第16回独立展出品作

この絵のモデルは中山の愛娘・玲子嬢である。中山は妻と娘をモデルに多くの代表作を描いている。画家が家族をモデルにすることはよく目にするが、どれも優品揃いだと感じている。

絵のある待合室99

神谷信子 「わかれ」 1952 SM ガラス絵

戦後を代表する女性前衛画家であり、広幡憲の愛人でもある。とても貴重な作品である。

絵のある待合室100

青山熊治 「風景」 SM 板油彩

青山熊治の風景の凄味と粘りには独自の風がある。露仏の9年に渡る極貧の放浪期に培ったものだろうか。この作品もその頃のものだろう。右下にK aのサインがある。梅野隆シール。