平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第24室

 

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  鬼頭甕二郎1899~1954 「早春小景」 1933 4号板

 
名古屋市生まれの洋画家。本名亀次郎。上京して本郷絵画研究所(1912年発足)で岡田三郎助に師事するかたわら、日本美術院洋画研究所(1914年発足)に学ぶ。《暮る々山》で第二回日本美術院展(1915年)に入選。第五回展(1918年)に《裾野》《河口湖》が入選し、院友に推挙される。第六回展(1919年)でも《志摩風景》2点が入選したが、第七回展(1920年)を最後に洋画部が解消したため、第八回二科展(1921年)に出品し入選した。1923年から1928年までフランスに滞在、サロン・ドートンヌなどに出品している。帰国後は院展洋画部同人が脱会後設立した春陽会に所属したが、1934年退会、以後は無所属で新文展などに出品している。甕二郎の院展および二科への初入選は、小出楢重のそれと時期を同じくしている。郷土作家では、院展で大沢鉦一郎、二科で横井礼市(礼以)がいる。それぞれの作風、歩み、評価の違いに思いを馳せるとなかなか興味深い。甕二郎は、フランス時代にセザンヌの影響を受けたことが良く知られている。当館の所蔵作品もセザンヌ風の田園風景を描いたものである。帰国後は日本画のような風景画や静物画を描くようになっている。院展洋画部は、洋画と日本画を区別しない新しい絵画を指向しており、その流れを汲む春陽会もまた、日本あるいは東洋の精神を反映する洋画を志す画家たちが集まっていた。日本で最も早くセザンヌを紹介した森田恒友が、院展洋画部の同人であったことも見逃せない。甕二郎は、先の大戦で手元に残していた作品を家もろともに焼失した。戦前の作品で現在も所在が明らかなものはほとんどない。視野に滞仏時代の作品とそれに前後する作品がともに入れば、日本人が描く油絵を地道に希求した画家の姿と目指すものが見えてくることだろう。この作品は同年春陽会展に出品した「国府海浜」の別バージョンと思われる。戦前の貴重な作品である。

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  上山二郎 「緑陰裸婦」 絵皿 神戸画廊の共箱

明治28年東京生まれ。大正3年川端画学校に入学し藤島武二に師事。日本創作版画協会展に出品入選。同11年ー13年渡仏。吉原治良らと親交同20年八王子で歿、享年50歳、平成6年「知られざる画家上山二郎とその周辺: 1920年代パリの日本人画家たち」 芦屋市立美術博物館で開催。知られざる画家の代名詞ともなった画家である。彼の滞欧作は美しい。幻であるが入手したいものである。
 

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   鈴木保徳 「果物」 1932 色紙


この時代の鈴木の特徴がよく出ている。自信漲る勢いある気持ちのイイ作品である。プラムとクルミだろうか?

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   阿部金剛 「海浜裸婦」 1930年頃  26x23cm 水彩 紙


「コレクション・日本シュールレアリスム 10 復刻 阿部金剛・イリュージョンの歩行者」にも同じシリーズの海浜裸婦の水彩が代表作として白黒で資料掲載されている。ただし現存しているかどうかは不明であるので、本作品が現存確認されている唯一の水彩作品である可能彩が高い。そういう意味でこの作品は貴重であり資料的価値もあると考えられる。

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 木村荘八 「新宿遠望A」 1958 6号板  絶筆 日光市小杉放菴美術館寄託

荘八が亡くなる年に描いた「新宿遠望」シリーズの最高峰である。全集にも掲載され、展覧会には必ず出品されて来た。自宅の2階に体を縛り付け遠くに見える新宿風景を描いたという。この作品は2004年3 月13日(土)放映された美の巨人たち 東京ノスタルジア木村荘八ああ新宿駅・・・の中でも紹介された荘八最晩年の代表作である。早熟の万能の鬼才の本性は油絵描きであったのだ。2013年の東京駅ステーションギャラリーでのリニューアルオープン展に生誕120年木村荘八展が開催される。この作品にも出品依頼があった。さあ20年ぶりの出番だ。
 

 

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 ジェレニフスキー 「婦人像」 1925  40x24㎝ 水彩デッサン

大正~昭和初期に二科展で活躍したポーランド生まれの放浪画家である。大正7年に来日し上野に居を構え石井柏亭らと交友した。翌年、ヨーロッパに戻ったが、作品を柏亭のもとに送り二科展に出品し続けた。昭和5年にはザッキンと共に二科会員に推挙されたが、同年ナポリで没した。享年42歳。昭和6年第18回二科展に遺作が出品された。この作家を知る人は少ないが、以前尊敬する星野画廊の星野桂三氏が図録で紹介してくれている。

 

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 河合新蔵 「湖畔」 明治末頃 25号 油彩

水彩画の隠れた巨匠の知られざる大型油彩名品である。新発見である。知る人ぞ知る作品であり、現在公立美術館に寄託している。こ朝靄の空気感と湿気感は、一流の水彩画家が得意とするところだ。油彩でも描けるところが日本人離れしている。古き時代のイイ作品である。

 

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  清水多嘉示 「果物篭の女」 1924  15号 サロン・ドートンヌ出品・入選作

日本を代表する彫刻家であるが、その画才はそれに匹敵している。彼が渡欧しブルデル作品との出会いをきっかけに画家から彫刻家に転向したことに対して、彼の並外れた画才を愛した仲間たちが落胆したという。柳亮曰く「ブルデル彫刻の理想の凱歌とともに、ブルデル門下有数の駿足として自他ともに許される輝かしい地位を築き上げた清水の立場や名声を思えば、彼が昔のような情熱を絵画にそそがないからといって責めるわけにはいかないが、そのために彼の絵画上の稀に見る才能までが眠らさせたままでいるのはいかにも残念だ・・・帰朝後は彫刻への重心がかかり、絵画からは遠ざかってしまったことで絵画の領域で清水がかつてフランスで見せた抜群の技量が、日本では周知される手だてを失ったまま今日に至っている・・・師ブルデルが彫刻と絵画両建てを実行したように、清水を絵画彫刻の両建ての世界に呼び戻してくれたらと私はいつもそんな希念を心の底にもしづづけているのである」。この作品は柳が滞欧作の中でも代表作と位置付けた名品のひとつである。初めて見てから10年、ようやく入手出来た感慨深い作品である。私にとって清水作品は彫刻でも絵画でも滞欧期のものが一番だと思っている。「作家は20代で決まる。あとはバリエーションが増えるだけ」の格言は無視できない。

 

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  土方久功 「小品 男の首」 1964 13㎝ 俳優座20周年記念

神田神保町の早池峰堂で購入した土方のブロンズである。土方の小品はウイットに富んでいて飽きない。机の脇の小棚に置いて楽しんでいる。 

 

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木内五郎 「牛」 不詳 40x20x13㎝ 

木内五郎は、明治31年東京向島に、木内半古の五男として生れた。祖父喜八は名人とうたわれた木工家で、特に木象嵌の技に秀れ、東京国立博物館所蔵の「円柏波千鳥蛇籠象嵌大火鉢」など多くの名作を残した。父半古は家業を承け、祖父同様木象嵌をもって一家をなした。明治37年より正倉院御物整理掛に出仕、御物の修理を手がけ細密な木画技術を能くするに至った。15最年長の次兄省古は祖父や父に木工を学び、父に随って正倉院御物整理に従事、以後天平の技法の復元を志した。その作品は、国内は言うに及ばず、海外にも高い評価を得、晩年は日本工芸会の理事として斯界に貢献した。長兄辰三郎は早稲田大学を卒業し外交官になったが、早稲田で会津八一と同級であった。明治37年ごろ、辰三郎の紹介で、八一は初めて向島梵雲庵に淡島寒月を訪れている。この頃から、八一と木内家との間には長く親交が、結ばれた。こうした環境にあって、五郎は早くから彫刻に興味を示し天賦の才を顕わした。明治45年早稲田中学へ進み、英語教師として教鞭を執っていた会津八一の教えを受ける。大正7年東京美術学校彫刻科へ入学、建畠大夢に師事し、本格的に彫刻の道を歩み始める。12年3月同校を卒業。当時、卒業制作の中から各科1,2名ずつ成績優秀な作品が買い上げられたが、五郎の卒業制作「若き女」も後進の模範とするべく母校に残された。

昭和7年1月、結婚を間近に控えた五郎のために、会津八一が発起人となって作品頒布会が催されたが、この時八一自らが筆を揮った「木内五郎君作品頒布会趣旨」が残されている。この書帖は、昭和56年に東洋美術陳列室の行った「會津八一博士生誕百年記念展示」に出陳されたこともあり、少年の頃からその成長を見守ってきた五郎への、八一の心情を窺うことができる。やや長くなるが、以下その全文を引く。


木内五郎君作品頒布会趣旨

名人喜八の翁の孫、半古翁の子なる木内五郎君は幼少より彫刻に本然の技能を示されしが、後東京美術学校に入り建畠大夢教授の指導を受くるに及び天賦の材いよいよ光趣を生じ、大正十二年のその卒業制作は永く同校に留めて学生の模楷とせらるゝに至れり。爾来毎年欠くことなく帝展に出陳を許されつゝあるは人の知るところなり。君資性温厚、父兄に仕えて孝悌、朋友に交りて忠信、平素黙々として芸術の研究に心を潜めて余念あるところなく、これ同人のひとしく推服するところなれば、其作品がつねに典雅浄潔を以て評壇に歓迎せられつゝあるも亦た所以あるといふへし。君また先年支那に游び東洋美術の精粋を観て帰へり、その作るところ別に一種の妙趣を出し来り。同人甚だ其将来に嘱目しつゝありしに、たまたま君は新たに好配を得て新家庭を営まんとせらる。同人乃ち君に勧めて作るところの品を頒たしめ、其生計の安定を授けて天賦の行くところを縦にせしめんとせり。大方博雅希くはこれを賛けたまはんことを。
昭和七年一月卅一日
以下、発起人として、会津八一、坪内逍遙、正木直彦、市島春城、平沼淑郎、建畠大夢、高田早苗、高村光雲等13名、賛助員として、北村西望、板谷波山、内藤伸、岡村千曳当12名が名を列ねている。
昭和18年、五郎は45歳で応召しハルマヘラ島へ出征した。21年後に復員後、22年度、23年度とつづけて文展委員をつとめ、23年からは日本学園中学・高校に教鞭を執る傍ら、肖像作品の他、戦前から手掛けていた能を題材とする木彫を多数制作した。母校芸大には「翁」の像1点が蔵せられている。昭和29年に病を得、享年56歳。