平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第32室

 

絵のある待合室311


   森大造 「旅(芭蕉)」 1958 39x45x13㎝  作品集掲載

 
4年前に「李白酔歩」絵のある待合室30を入手して以来、森大造作品との出会いを待っていた。森大造(1900~1988)は昭和44年69歳の時に平塚に接している大磯に離れの工房である無耳庵を建て、都会の喧騒から遁れて作品を作っていたのだ。大磯の「大内館」、鰻の名店「國よし」、今はなくなったが平塚の「大海老」で舌鼓を打っていたとのことである。湘南ゆかりの木彫家でもあるのだ。戦中は九元社を組織した異端児でもあり、研究者が注目している。
滋賀の醒井に森大造記念館があるが、現在は埋没忘却されているのは残念だ。昭和52年発刊の「無耳庵作品集」には350名からなる所蔵者の一覧が巻末に掲載されている。多くの支援者がいたのは幸運であったが、代替わりしたのだろうか?図録掲載の代表作4点が神奈川、群馬、兵庫とバラバラに時を同じくして出て来たのだ。どうにかこうにか4点とも入手できたのも何かのご縁であろう。これで5点の蒐集となった。今後の顕彰のお手伝いが出来れば幸いである。大切にしていきたい。

森大造曰く・・・長い歴史の流れの中に、名を残した人は強い個性をもっている。それを強い鑿跡で表現した  
         かった。
 

絵のある待合室312


   森大造 「小鍛冶」 1950~1960頃  42x14x16㎝ 共箱 作品集掲載

森大造の能彫は優品が多い。その中でもこの作品は素晴らしいと思う。
森大造曰く・・・静と動の厳しい美の連動に惹かれて~~~木彫の最高のモチーフだと思う。

 

絵のある待合室313


 森大造 「丑」 1973  42x25x15㎝  作品集掲載

森大造曰く・・・日本人の生活の中に今なお残る十二支の哀歓を毎年刻んで十二年。気持ちよく出来た年、難行  
         した年、健康だった年、私の生活の記録となった。

 

絵のある待合室314


  森大造 「萬古胸中」 1939 66x30x18㎝  共箱  作品集掲載

量感の中に動きのある優品である。明治生まれの木彫家に共通するのは、その基礎力の分厚さである。

1939(昭和14年)・・・第3回文展無鑑査出品。宝来大人像、萬古胸中、先陣などを制作。第5回九元社展銀座資
             生堂ギャラリーで開く。

 

絵のある待合室315

   井上三綱 「冬」 1930年頃 35x65㎝ キャンバス 油彩

旧知の画廊から譲ってもらった。この時期の三綱作品は非常に貴重である。坂本繁二郎唯一の正当な継承者とされている。戦後は東洋と西洋を融合させた三綱独自の作風を確立し、その作品はイサムノグチやオッペンハイマーなど世界的な芸術家や学者に愛された。1988年平塚市美術館で展覧会が開催されたが、そろそろやってほしいものだ。追記:2014年6月タバコの脂で汚れていた画面をクリーニングしたところ冬晴れの色が出てきた!素晴らしい。

絵のある待合室316


  本荘 赳 「はなつみ乙女」 22x60.5㎝  キャンバス 油彩 展覧会出品シールあり

ひさしぶりの本荘作品である。しかも比較的初期の本荘にしては珍しい人物画の優品である。旧蔵者は大学教授であるという。たしかにアトリエには理系、文系をとわず大学教授が訪れている。また春陽会展では坂本繁二郎が30分も本荘作品の前から動かなかったことが逸話となって残っている。画集には200人近い所蔵者リスト(氏名、住所、電話番号、職業、所蔵作品名)が掲載されており、寡作である本荘ならではの他の作家にはない驚くべき事だ。庶民、学者、巨匠と幅広い層から人物作品ともに愛され支持されていた証拠でもある。本荘作品の魅力は高潔で慈悲深くどこまでも静謐である。その魅力に取りつかれた絵好きたちは稀なその出会いを今も待っている。

 

絵のある待合室317


     三木宗策 「綾織」 1938 高さ50㎝ 第8回日本木彫会出品作  「三木宗策の木彫」掲載

旧帝展、文展審査員、正統木彫家協会々員三木宗策は、昭和20年11月28日疎開先の福島県郡山市で没した。享年54歳。明治24年福島県に生れ、16歳の時上京して山本瑞雲の門に入り、木彫を学んだ。大正5年第10回文展に「ながれ」を出品して入選したのをはじめ、文、帝展に出品し、同14年第6回帝展出品の「不動」は特選となり、昭和2年帝展委員に選ばれ、同7年帝展審査員、同13年新文展審査員に挙げられた。この間、昭和6年内藤伸、沢田晴広等と目本木彫会を結成して毎年東京および大阪で展覧会を開催したが、同15年日本木彫会から分離して正統木彫家協会を起し、毎年展覧会を開いた。伝統的な木彫に写実的手法を加え、新作風を企てつつあつたが、中途に倒れたことは惜しまれる。夭折し、現存作品も多くない作家だが幸運にも代表作が入手できた。さて、この作品の対で出品された「呉織」はどこにあるのだろうか?
 

 

絵のある待合室318



初代 中村 實  「龍文飾鉢」 45x8㎝ 戦前作 「信州神川日本農美生産組合」シール


1894年  明治27年長野県神川村(現上田市)に生まれる
       弟は彫刻家、画家の中村直人

1919年  大正8年12月8日、第1回農民美術講習会に参加。
       農民美術を生業として活動に入る
       制作活動の傍ら、山本鼎の一番弟子として
       日本中に農民美術を普及させるべく
       講師として全国を駆け回る。

1962年  5年の歳月をかけ自ら山本鼎ゆかりの人物を訪ねて回り、
       日本中より寄付を集め
       昭和37年、上田城跡公園内に山本鼎記念館開館。
       初代館長となる。

       2年後の昭和39年、昭和天皇、皇后視察の際、館長として館内を案内する。

1977年  昭和52年、83歳にて死去

長野県農民美術連合会会長をはじめ、農民美術の第一人者として農民美術の普及発展に一生を捧げた
各賞多数受賞

 

絵のある待合室319



            三國慶一 (花影) 「明けがたの海」 1916 63㎝ 第十回文展初入選作

 14歳で上京し、わずか17歳で文展に初入選した伝説の作品が残っていた!当時の最年少記録であり今も破られていないであろうか。「明けがたの海」はツバ広の麦藁帽子をかぶった漁師が、黎明の海辺に立ち空と海を望んでいる像である。漁師が眺めている海は、まさしく故郷、日本海の津軽の海であり、吹いてくる風もまぎれくもなく北国の海風であることを感じさせる。そういった風土色を踏まえたうえで17歳の少年が普遍的な漁師の生活実感を的確に把握しているのだ「明けがたの海」という題名そのものが、ぴたりと作者のモチーフを言い表している・・・・三國慶一の生涯「木の造形」新潮出版
 三國慶一の花影という号は「六花会」時代に用いものであり、同会の会名に因んだものであろう。「六花会」とは大正期において東京の地で青森ルネサンスと呼ばれる先駆的な美術運動を展開した前田照雲率いる塾である。塾生は皆、青森出身の精鋭たちで構成されていた。この初入選してから5年後に、三國は照雲の勧めで東京美術学校に入学する。通常の逆パターンであるところが興味深い。
 

絵のある待合室320

                                       廣瀬操吉 「婦人像」大正15年 6F キャンバス 油彩  

明治28年兵庫県印南郡生 姫路師範学校を経て、関西美術院・本郷洋画研究所に学ぶ 岸田劉生・武者小路実篤・千家元麿に師事し、『白樺』周辺の芸術家として洋画と詩作に鑽し、後に抒情あふれる「雲雀」などの詩集数冊を発刊し、小熊秀雄や高村光太郎とも交流し高く評価されたが、ほどなく絵筆を折り後年は銀座に「三笠画廊」を経営、自宅に「日本初期洋画研究所」を設立し初期洋画の調査・蒐集を行い、幻と言われた明治美術一大コレクションを築きあげた。最大の仕事はヤンマーディーゼル創業者である山岡孫吉が求める明治美術の傑作コレクションに貢献したことである。廣瀬の詩人としての活躍と画商としての業績は分かっているが、画家としての活動には謎が多い。 洋画家時代の油彩作品は極めて稀である。今後の発掘が期待される。