平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第34室

 

絵のある待合室331

               
 
      普門 暁 「アンナ・パヴロヴァ(瀕死の白鳥印象)」1922 8F キャンバス油彩 自筆裏書
     

大正期新興美術史においての新発見である。まさしく発掘された作品であろう。この幸運に感謝したい。五十殿利治氏の「大正期新興美術運動の研究」は有名だが、未来派の普門暁に関しては(奈良県美と京都近美に1点ずつ)作品も少なく、断片的でまとまっ た資料もない。この作品は1922年にアンナ・パブロワの来日公演を見ての作品であり普門の感動が伝ってくる。資料的にも非常に貴重で興味深い内容の作品と思う。
 
専門家の意見・・・
①普門暁作品について、手元にある資料を調べましたが、出品歴については確認できませんでした。奈良県美での展覧会目録の年譜にある1923年春の京都での個展、その年秋の東京での個展の雑誌記事、新聞記事をさがす必要がありそうです。そのときの目録があるといいのですが、私は見たことがありません。これらの個展についてはま調べたことがないので、機会をみて、国会図書館などで調べてみます。
 ② 現存する20年代初期の普門の作品として貴重です。画題が、1922年に日本公演 を行なったパブロワというのも興味深いことです。しかも彼女のために振付けられた「瀕死の白鳥」を踊っている場面ということで二重に興味深い作品です様式的には、それ以前の作品より荒々しいタッチで描かれており、抽象的になってきているように思います。
 ③出品歴を確定するのはむずかしそうですね。パヴロヴァが来日したのが1922年の9月で、関西での公演は翌月のようです。そうすると彼はもう未来派美術協会からは離れてしまっているし、二科展や大阪美術協会展にもこの題名の作品は出ていないですね。普門については、1978年に奈良県立美術館で回顧展が開催されていて、薄いけれどもいちおうきちんとした図録が作られています。戦後の作品はけっこう奈良県美で持っているのですが、大正期のは平園さんがおっしゃるとおり、ほとんどないので貴重です。この目録の年譜のところを見ると、1923年の春に京都で個展を開いているので、このあたりが可能性としてはありそうですが、おそらく目録などは作っていないでしょうから、確実に同定することはきわめて難しいと思います。地元の新聞などで取り上げられていればいいのですが・・・
 
以上のように来歴を確定するには時間がかかりそうだ。

明治29年8月15日奈良市に生れた普門が生後間もなく東京に移り、青年期を迎えて画家を志望し、偶々1910年代イタリアのミラノに起った未来派の美術運動に刺激影響を受け、大正9年秋、みずから首唱者となって未来派美術協会を創立し、以来数年にわたってわが国における前衛美術運動の口火を切って活躍したことは、わが近代美術史上の特異な存在として銘記されているが、戦後の晩年は帰郷して殆んど中央での活動がなかったので、奈良で生れ、またその奈良で生涯の仕事をひっそりと終えた普門については、一般に知られるところが少なかった。昭和48年12月、地元の奈良県立美術館の努力によって開催された『未来派の先駆・普門暁回顧展』に当って作成された目録中の貴重な「略年譜」によって、その生涯の大方を再認識することが出来る。なお、その回顧展の骨子となった作品群は、このとき、普門家の遺族関係者から同家に伝存する限りの遺作品が奈良県立美術館へ寄贈されたのによったという。


略年譜
明治29年 8月15日、普門常次郎・よねの長男として生れる。本名常一。その後間もなく東京に移る。貴金属商を営んでいた叔父の仕事を手伝いながらデザインを勉強する。
大正4年 東京蔵前高工で建築意匠を学ぶ、また安田緑郎に師事しイタリア新興美術(未来派)等の表現技術を学ぶ。
大正5年 どうしても絵をやりたくて、蔵前高工を中退し、川端画学校に入る。日本画をも学ぶ。ここでも新傾向グループのリーダーになり、紅児会と名づける。この頃看板等にコルクの焼絵を試みる。第1回個展(上野山下・三橋亭)、石井柏亭に二科会への出品をすすめられる。
大正7年 春、太平洋画会展に未来派作品を数点出品。秋、二科会展に石井漠の踊りを描いた「フューモレスク」を出品。
大正8年 春、個展(日本橋・白木屋)。その後奈良に帰り制作、県立図書館で足立源一郎・浜田葆光・山下繁雄とあしび会というグループ展を開く。
大正9年 二科展に絵をやめて彫刻を出品するが落選。首唱者となり未来派美術協会を創立。第1回未来派展(9.16~25、銀座・玉木屋)、会員約10人のほか、木下秀一郎等の応募者がいた。絵画のほかに未来派彫刻2点も出品、日本で初めての未来派彫刻の発表として問題作となる。10月、パリモフ、ブルリュックらが来日し、ロシアの「未来派美術展」を開催するのを援助(東京と大阪で同展は開かれる)。第1回未来派大阪展開催後、反響もあり、大阪で新しい仕事を勧める人もあり、大阪に止まる。
大正10年 大阪市南区笠屋町に自由美術研究所が設立され、赤松麟作・斎藤与里と共に指導にあたる。第2回未来派展(10.15~28、上野・青陽楼)には、座骨神経痛で芦屋から動けず、代って中心になって木下秀一郎が動いた。その後、同大阪展を本町の商工会議所会館で開く。二科展に出品。
大正11年 大阪市美術展覧会創立委員となり、第1回展に出品。未来派美術協会の主催で、第3回未来派展を拡張して三科インデペント展が開かれるが、同協会の解散説を唱えて参加しなかった。二科展に出品。
大正12年 春個展(京都及び東京)。大阪に演劇映画研究所が開催され、演劇舞台美術を指導。
昭和2年 東京に産業美術研究所を設置、未来派技術と感覚をデザインに移入、生活美術としての新分野を開拓。身体障害者の社会復帰に寄与しようとするものでもあった。これらの製品(団扇・ネクタイ・切り絵等)は東宝劇場内の販布コーナーで市販した。
昭和5年 発病し静養。
昭和12年 日大美術科の講師となり、翌年、主任となる。
昭和18年 日大美術科主任を辞し、講師として出講。
昭和21年 G・H・Qの日本美術顧問となり、米軍だけでなく米国への日本美術紹介に骨を折る。アーニーパイル劇場に新設美術会場を開設。
昭和26年 肝臓を悪くして東京日赤に入院。
昭和27年 春、一時小康を得て東京綜合美術研究所を開き、洋画やデザインの指導にあたるが、健康はすぐれなかった。
昭和35年 かねてから塗料の開発に取り組んでいたが、ベンゾール中毒にかかり発病、奈良・大林家に寄寓し療養に専念する。
昭和39年 健康を取り戻し、手はじめに王寺工業高校の記念碑「希望の像」を翌年にかけて制作する。
昭和49年 秋、当麻寺奥院の大作「倶利迦羅龍幻想」の制作にかかる。翌年春完成。
昭和41年 同寺奥院のお茶所を改造してアトリエとして住む。この頃から、水墨の抽象画に打ちこむ。ニューヨークで個展を開くつもりで後期未来派作品の制作を始める。
昭和47年 2月、蜘蛛膜下出血で倒れ、大阪の暁明館病院に入院。9月28日没

 

絵のある待合室332

                            岩野勇三 「Dr.A」 1982 高さ54㎝ 第46回新制作出品作


私は日本の近代具象彫刻家として頂点にいる作家が岩野勇三と考えている。この意見に彫刻を知る人間なら賛成する人はいても反対する人はいないだろう。群を抜く技術とそれを突き抜けた感性がその魅力なのだ。彼の作品が市場に出てくることは希であるが、どうにかこれで3点の蒐集となった。この作品も 「造形の鬼」と言われた岩野勇三、全盛期の男性肖像である。非の打ちどころのない出来は、彫塑を勉強する学生には大いに役立つ事だろう。題名から医師がモデルである可能性がある。誰だろう。特定できれば幸いだが・・・ご存知の方はお知らせください。

絵のある待合室333


                                                                    峯 孝 仮題「男の首」1994 46㎝(内台座10㎝)

峯 孝 1913-2003 池袋モンパルナスを代表する彫刻家 
大正2年8月5日生まれ。昭和11年国画会展に出品。のち建畠大夢の直土会に出品。24年自由美術協会会員となる。55年武蔵野美大教授。肖像や人体像を得意とし,公共の記念像も制作。平成15年4月10日死去。89歳。京都出身。東京美術大学 (現東京芸大)中退。作品に「エドウィン・ダン銅像」など。
豊島区千早には2004年に開館した峯孝作品展示室があるが、震災の影響で現在休館中である。著名な作家にもかかわらず、作品集がないのが残念である。この首は晩年の作品であるが堂々とした立派な首である。作家の実力が窺い知れる。一刻も早い展示室の再開を待っている。

 

絵のある待合室334

      長谷川利行 「街行く女」 1937 14.5x18㎝ 厚紙 東京美術倶楽部鑑定(昭和55年三谷時代)

コレクション25点を処分し、その資金で買った待望の利行作品である。2014年11月~12月に羽黒洞とフクヤマ画廊で開催された「長谷川利行」展に出品された作品である。2000年の神奈川県立近代美術館以来の大きな展覧会となった。旧知の福山茂氏から譲って頂いたものだ。油彩の輝きと筆の走りが見事な作品であり小品だが利行作品のなかでも優品の一つと言ってもイイだろう。
 

絵のある待合室335


         佐藤 敬  無題 60号 1959 ボード ミクストメディア  旧ヴィンセント・プライスコレクション



日本では忘却されている感があるが、戦後の在外作家の代表格としてユニークな活躍と実績がある。この作品は著名なビンセントプライスコレクションであり、おそらくパリでの個展出品作のひとつであろう。抽象に移行している時期の作品で、鉄骨の柱の前にさまざまな大きさの壁がさまざまなマチエールで表現され継いである。佐藤の実験的な試みが見て取れる。

絵のある待合室336


         宮崎 進  「道」 25号 キャンバス 油彩 日本橋画廊シール、大阪フォルム画廊シール


1969年の日本橋画廊での個展出品作である。宮崎進は日本洋画壇の現役最長老の作家のひとりだ。
安井賞を取った時期の画風であり、この時期の具象作品は心惹かれるものがある。

絵のある待合室337



                 國方林三 「村の娘」 36㎝ 大正13年 ブロンズ 1973年回顧展出品作 共箱


1973年に香川県文化会館での回顧展に出品された作品そのものである。共箱には香川県文化会館の出品シールが貼られている。國方は、今ではほとんど忘れられている存在だが、明治~昭和にかけて官展で大活躍した実力者である。池田勇八、建畠大夢、北村西望と4人で組織した八手会は特筆されるべきだろう。

絵のある待合室338



                    松下春雄 「静物」  大正末  52x69㎝ 紙水彩 


大正~昭和初期の浪漫の芳しい香りを放つ松下水彩である。代表作といってもいいだろう。尊敬する故梅野隆館長が蒐集し世に再評価させた夭折の画家である。30歳という短い生涯の中で前半の5年は水彩画家として活躍した。ゆえに作品の数は少なく、このような大型の優品がまだ残っていたとは驚きだ。2016年の春に東御市立梅野記念絵画館で「松下春雄」展があるとの連絡を受けた。この作品も出品されることになるだろう。梅野さんが私を通じてこの作品を地の底から浮上させたのかもしれない。

絵のある待合室339


                     天岡均一  「裸婦」 高さ23㎝ 制作年不詳


天岡均一没後九十年回顧展 : 兵庫県三田市生まれの豪気な天才彫刻家 : 1875-1924が2013年に開催された。この作家は近代日本彫刻集成にも掲載されている重要な作家の一人だ。大正期に外遊しているのでその時に関連した作品ではないかと推測している。明治から大正の夭折作家の貴重な作品であろう。今後の進展を期待している。

絵のある待合室340


                         鈴木 実  「松尾芭蕉」 67.5㎝ 木彫


生没年  1930年 山形県生まれ、茨城県取手市在住 2002年没
現代具象木彫界の第1人者、鈴木は1930(昭和5)年、高畠町屋代に生まれ、戦禍を逃れ故郷に避難していた米沢出身の彫刻家桜井祐一の門に入り、彫刻家を目指した。日本美術院、S.A.S.、国画会に意欲的な作品を発表し、1978年、第7回平櫛田中賞、1985年に第16回中原悌二郎賞、そして2000年の第1回円空賞と数々の大きな賞を受賞している。鈴木の彫刻の多くは肖像彫刻であり、自己の存在とは何か、妻、家族、他者とは何かを問い続け、生きることの本質に迫ろうとする厳しい制作姿勢を貫いている。
       
具象彫刻家(木彫)としては最後の巨匠と言ってもいいだろう。この作家の彫る芭蕉像は有名であるが自画像の風が漂う。作家本人もそのような心持で制作していたと勝手に思っている。アトリエで没したがその傍らには彫りかけの芭蕉像があったという。

円空賞を受賞した折りの受賞理由がネットに出ていたので参考までに記載させて頂く。

鈴木実氏は、日本の伝統的な木彫技術を身につけ、確かな技術に裏付けされた独自の肖像彫刻の分野を開拓した。肖像彫刻は、鈴木氏の記憶を通して再現され、モデルの個別性と普遍的な人間像を合わせ持ち、空間的に圧倒的な緊張感を作り出している。鈴木氏の作品の根底に横たわるのは人間の持つ本質的な孤独と不安である。代表作「家族の肖像」では、互いに視線を合せることのない家族像でありながら、強い絆で結ばれているという奇妙さと悲しさを表現しているが、この作品に象徴されているとおり、鈴木氏は伝統的な技法でもって近代日本の空虚さを効果的に表現している。また、その作品には、単に外見から受ける印象にとどまらず、人間の隠れた内面も書き出し、見る者の心を癒してくれる点で、円空賞の受賞者としてふさわしい人物である。