平園クリニック

平塚市岡崎の内科・婦人科・健診

 

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絵のある待合室 第3室

 

絵のある待合室21


喜多武四郎  「憩ふ女」 1941 高さ44㎝

再興第28回院展出品作である。座台後面には昭和十六年六月造 寒泉道人と刻銘がある。武四郎43歳の優品だ。
喜多武四郎論は基俊太郎氏のものが知られており優れている。如何に武四郎がスゴイ彫刻家であるかは、ロダン、荻原守衛、戸張孤雁、石井鶴三の系譜を知らなければ理解できないようだ。基氏曰く・・・喜多武四郎の知名度は今の美術ジャーナルでは1パーセントあればいい方で、道具屋や市にまぎれ込む喜多のブロンズを掘り出す目利きとなるとそうざらにいない。これがプロフェッショナルを欠いた文化日本の情況である・・・と嘆き断じている。基氏はまた、「喜多彫刻」とは、ロダン以後の近代彫刻史の中にポスト・ロダンとして現れた新星であると論じている。そしてその影響力は現代に至るまで知らず知らずに近代日本彫刻の底流に今もなお力強く流れているのだ。「喜多彫刻」とは何か、極力簡単に言えば対象から余計なものを捨て去り残ったもの、おかずに頼った御馳走でないメシの味がする彫刻、何も足さない、何も引かないピュアな彫刻である。彫刻家たちは喜多の事を畏敬の念を込めて「稀有の人」と呼んでいた。自信の人、石井鶴三でさえも年下の喜多の作品を座右に置き皆に自慢げに見せていた、その小品を見たイサム・ノグチは絶賛したが、他の人は首をかしげていたと言う。ピュアな彫刻がわからないのだ。鶴三は粘土に生命を興へるのが喜多君で、木材に生命を興へるのが橋本君だと若き院展彫刻家に賛辞を送ったのは有名な逸話だ。会津八一も喜多を愛した1人であり、喜多の寒泉の号は昭和3年に八一から贈られた「寒泉石鼎」(貧乏に屈せず清らかに起居しなさいと言う意味)から取ったと推測されている。

ポスト・ロダンのピュアな彫刻・・・喜多彫刻が歴史に残ることは間違いない。

 

絵のある待合室22


中山巍の滞欧作である。私の大好きな画家である。中山が当時夢中であったエル・グレコの影響が見て取れる。目がパッチリなこの西欧婦人は私の妻に似ているだ!?
この作品は大先輩のS氏から受け継いだものだが、30点を超す中山コレクションの中でも愛すべき逸品である。更なる再評価・顕彰をしていきたいと決意している。

 

絵のある待合室23


木内克(1892~1977)と言えば、在野の巨匠として認識されている彫刻家である。特にテラコッタを初めて日本に広めた功績は重要だ。彼のテラコッタの代表作は何と言っても東近美所蔵の「女の顔」1929であろう。この作品はその4年前、つまり原勝郎から窯業家ラシュナルを紹介された年に作られた木内克テラコッタの原点でもあり、最初期の優品である。台座にはローマ字と漢字の2つのサインが刻銘されており、年記も1925と1926の2つが刻銘されている。そのフォルムとアルカイックスマイルはまさにギリシャ彫刻そのものである。若き日の古代への憧れが見て取れる貴重な作品である。

 

絵のある待合室24


小山田二郎「猫と少女」油彩 SM

小山田二郎(1914~1991)と言えば、全国にコアなファンがいる。好き嫌いがハッキリと別れる作家でもあるということだ。私もイイ作家であることは認めていたが、しばし、作品を手元に置くことには躊躇していた作家の一人であった。かつて先輩コレクターが「手ごわい絵」を手元において眺めてみなさいと言っていた。私にとっては小山田作品は手ごわくイイ作品であるようだ。小山田の生き様を詳しく知るにつれて、やはり作家の生き様と作品は別々にはできない。両者の距離は作家によってマチマチだが、小山田作品は間違いなく密接している。小山田作品と対話するにはこちらの生命力が充実していないと負けてしまう。手ごわい絵である。

 

絵のある待合室25

中村七十 幻の木彫

中村七十(本名永男1911~1941)は1933年に東京美術学校在学中に帝展に初入選したが、当時在学中の帝展出品はタブー視されていたため父七十郎の二文字を借りての出品であった。以後30歳で亡くなるまで七十を名乗ったのである。
明治44年年に長野県朝日村(現辰野町)に宮大工の家系に生まれ幼少から木彫に親しみ高等科卒業後、清水三重三に就き間もなく斉藤素巌の主宰する構造社に移ったのち昭和4年東京美術学校に入学した。専ら木彫が多かったが次第に塑造作品へと移り、8年「女の首」で帝展入選翌9年は頭部作品80点が搬入されたが入選は七十の「女の首」ただ1点だけであった。師素巌の帝展評に「七十は良い首、細かい神経もあって彫刻的骨組が蔵されていて、この調子で身体全体が出来る事を望む」とある。10年の第1回東邦彫塑院展で「女性像」特選。以後翌11年かから15年まで帝展・文展に毎回全身立像を出品。10年に卒業し11年まで研究生として美術学校に残り、建畠大夢に直接指導を受けた。建畠はのちに「君の芸術に対する態度は真摯にして其作品に至りては人格の反映に違わず高雅な気品を備えている」と推奨の言葉を寄せている。七十は8年の入選以来連続6回の官展入選を果たしているが特選・入賞は得ていない。そのことについて山本豊市は賞に入れない理由がわからない。ミューズの神の不在時代・・・」と大いに嘆いている。当時の新聞では「青年層に中村イズムを現出せる等異彩を発揮し・・・」とあり、美術学校では「七十旋風」を起しつつあったという。13年に結婚し16年には文展無鑑査となり江古田駅近くの豊玉にアトリエ建設するが文展会期中に急逝してしまう。享年30歳。
この作品は昭和11年、頒布会の為に作られた作品である。本当に貴重な作品であり、今となっては幻と言っていいと思う。まさに伝統と近代が融合したメリハリの利いた優品である。モチーフは達磨立像であろう。高さは32cmと小品であるが大きさを感じる。夭折の才能ある作家に共通しているのは若くして既に円熟老成の風格が備わっている事である。20代半ばの青年が彫る作品ではない。中村七十に詳しい友人に大竹永明氏(元松本市美術館学芸員)がいるが、彼も七十のブロンズを1点所蔵している。その彼でさえ七十の木彫を入手せんと辰野町や伊那谷の骨董屋を探し回ったが見つからなかったという。頒布会での木彫作品が辰野町美術館に所蔵されているようだ。このように一地方の埋没作家として不当な扱いを受けている彫刻家は全国にまだまだいるのである。名前のように七十才まで存命していればどうなっていたであろうか?しかし夭折の力も無視できない。コレクターはそんな残酷と惜愛のディスクレパンシイーを心に秘めつつ、発掘顕彰の旅を続けているのである。

 

絵のある待合室26


   広幡 憲 「浮標」 1948 4F 油彩 キャンバス  第2回美術団体連合会展(1948)出品

                                 静謐のモダニズム「広幡 憲」展(2002)出品
           


「浮標」について

広幡憲はこの絵を1948年に描き、その5カ月後に逝ってしまった。享年37歳。翌年の1949年に遺作展が日本橋・北荘画廊で開催され、そこの主であった菅貢氏がこの作品を買い取った。そして36年経った1985年にA氏が菅氏から譲り受け、2009年ついに私の所蔵となったのである。つまり、この60年間に3人の絵好きが「浮標」をバトンタッチしたわけである。
私が「浮標」の存在を知ったのは1996年の夏であったと記憶している。名著「わたし流美術館」の中で、著者であるA氏は「浮標」との運命的な出会いを見事に綴っていたのである。A氏は言わずと知れた日本屈指の発掘顕彰型コレクターである。ほぼ同時に窪島誠一郎氏の「わが愛する夭折画家たち」を読んだせいもあり、ますます広幡の存在が大きく身近なものになっていった。また「浮標」と広幡に特別の思いが湧いてくるのには別の理由がある。母の生まれ故郷(実家)が広幡と同じ秋田県仙北郡中仙町清水であり、まさにご近所さんであったのだ。私は物心ついてから中学まで毎年、母の故郷で2週間ほど釣り三昧の日々を過ごすのが常であった。今もその楽しかった思い出は広幡への思いとリンクするかのようだ。いつの日か「浮標」は自分の所に来るような気がしていた。幸運にも尊敬していたA氏とも知遇を得、13年間「手放す時には是非、声をかけて下さい」とお願いして来た。そしてついに、「君ならいいだろう」とお許しが出たのが2009年1月24日であった。A氏が断腸の思いで譲って下さった事には、ただただ感謝感謝である。作品を見て故郷の匂いがすると母も喜んでくれた。
人は広幡を「幻の抽象画家」と呼ぶ。窪島氏が言うように夭折6傑(村山槐多、関根正二、松本竣介、曖光、野田英夫、広幡憲)の1人であり、2002年現在で確認されている作品はわずか21点、うち本丸の抽象作品は7点しか残っていないのだ。この「浮標」は現存する広幡の抽象作品7点のうちの1点であり、広幡独自の純粋ともいえる有機的形態による抽象表現に到達した名品としても高い代表作である。戦後の日本抽象絵画史は空白であると言われ続けて久しいが、心ある学芸員諸氏のご尽力で、所々に光が射して来た感もあるが、まだまだその薄暗い原野は未踏のまま横たわっている。その中にあって、この作品の存在意義は今後ますます重要になってくるだろう。
この作品は左脳と右脳を切なく優しくスティミュレイトしてくれる。浮いている標とは、自らの画業を模索していた広幡の心境であったろう。擬人化しているような独自の有機的な形態は広幡の自画像にも見え、定まらない流動的な矢印もまた然りである。また、この作品から感じる不思議な感覚、窪島誠一郎氏の評論は素晴らしい。「薄鈍うすにび色のモダニズム」・・・薄鈍色とは雪に閉ざされた地方の人が、春が来るか来ないかのころに目にし、感じる色。その向こうには黎明感がある・・・何か切なくて苦しげなものを画肌の底に塗り込めたような薄鈍色の光が、広幡の絵の奥には隠されている。短命だったこともあり、現在の美術へ通じる大きな流れは作り出せなかったが、広幡は私にとっていつまでも忘れる事のできない不思議な魅力を持つ画家だ。残っている作品は極めて少ないが、今あらためて不十分なる十分な展覧会が開かれるべきと思う・・・2002年に秋田市立千秋美術館で回顧展が開催された。その時この回顧展を担当された加藤隆子学芸員(現在は秋田市教育委員会)より、メールを頂いた・・・


平園賢一 様

  実は、私は現在、千秋美術館から秋田市教育委員会に異動となり、平成19年度4月から勤務しております。
  お話では「浮標」を譲り受けられたとのこと。A様が太鼓判を押してくださった方なら、廣幡作品を所蔵するに足る方だとお察しいたします。私は廣幡研究の第一人者などとんでもなく、たまたま美術館にいた時、担当させてもらった、一学芸員という程度でしかありません。廣幡は若くして亡くなったと
いうことや、作品の大半が失われてしまったことなどで、展示を担当したものの、わからないことばかりだということがわかった、というような状況でした。その後の 引き続きの調査等もすすまぬまま、結局は学芸の現場を離れることとなってしまいました。A様もお元気なご様子で何よりと思っております。
メールを頂戴し、そういえば廣幡の息子さんはどうなさったのか、とかや廣幡のことでいろいろとお世話になった関係者の皆さん方々はどうなさっているのかと、思い起こしたりしております。 こちらに移り、いくらか事務局仕事になれてきたかなー、とも思っておりますので学芸の場を離れて好きな作家、好きな作品をマイペースで見ていければいいな、とも思っております。廣幡の再評価についてはまた、千秋美術館のほうでも考えていると思いますので、今後また平園様にはご協力いただくことになるかと思います。その際にはなにとぞよろしくお願い申しあげます。
  また、平園様のお母様は旧中仙町清水出身とのこと。もし、秋田にいらっしゃるようなことがありましたらばご連絡ください。学芸の現場を離れて、少し頭が鈍っている私でお話しができるものかとも思いますが・・・・。A様には異動のことなど、あわただしかったものでお伝えしないままでおりました。申し訳ございませんが、よろしくお伝え願えればありがたく存じます。廣幡も作品も、何よりも愛してくださる方が持っていてくださること、喜んでいると思います。今後の平園様のご活動が充実したものとなるようかげながらお祈りさせていただき ます。本当にご連絡、ありがとうございました。

旧友の荒井龍男が追悼文の中で・・・北荘で俺の個展の後に引き続き君の遺作展が催された、俺はこの会場で独り「生前にこの展覧会を開いて君に君の絵を一堂に並べて見せるべきだった」とつくづく残念でならなかった。自由展だって戦争の為に小山が弾丸になり、松本が逝きそして君だ。3人の選手を失ったことは、日本の損失だ。

そして、誰かが言った「広幡よ 幕は降りてしまった しかし
だが 安心しろ 拍手は続いている」と・・・

 

絵のある待合室27


松下春雄「花」1929 10号 
サンサシオン第6回展出品作

余計な説明はいならいだろう。
この作家の画格は、松下春雄という人物がそうであったように「薫風薫る」というのが相応しいといつも感じている。尊敬する老舗N画廊のN氏も絶賛して下さった優品でである。

 

絵のある待合室28


堀田瑞松              
 戦後の日本人が忘れた明治の先覚者        
まさしく無名作家であり、忘却の作家である。幕末・明治というクレパスに落ちてしまった巨匠の一人なのである。しかしながら、その実力と数多の業績は目を見張る。今日まで伝わる作品は少ないが,その精緻な技巧の冴えは,代表作である「楼閣山水紫檀額」(東京国立博物館蔵)に窺い知ることができる。この度、入手できた作品が関羽像(高さ43cm)である。本当に貴重な遺作である。本作の圧倒的な存在感と重量感は、大正期以後の近代彫刻とは一線を画す。幕末・明治の木彫作品という未踏の分野がある事は間違いなさそうだ。工芸と彫刻との狭間でのこの分野の更なる研究調査が待たれる。

 

絵のある待合室29


                                                   吉岡 憲「煮もの」20号1951

2003年夏、東京の画廊で「吉岡憲の画業展」が遺族・関係者の執念で開催された。1956年40歳の若さで亡くなってから47年の歳月が経ってしまったわけである。「吉岡憲の持っていたその「時代性」、その淡色と濃色とが巧みに入り混じった底光りのする不思議な色彩と画肌、余人を寄せ付けないスピード感と対象把握に優れたデッサンには、あの時代性でなければ描けなかった懐かしい絵の匂いがある・・窪島誠一郎氏」。この作品は吉岡憲の数少ない作品の代表作(新発見)であり、モデルとなっている女性は菊夫人である。昭和31年の作であるから、当時の何気ない台所風景であるにもかかわらず、懐かしい匂いが立ち込めてくるのは何故であろうか。日本庶民の原風景がここに在るのである。「時流におもねず、自我をまげず、貧苦をいとわず、ただワキ目もふらず画布の上における孤独な自己表現を目指した「融通にのきかなさ」こそが、吉岡憲のような真の意味での「日本的洋画家」を生み出した源泉であったのではないかと・・窪島誠一郎氏」。この回顧展を病床で聞いた菊夫人は喜ばれ、会期中に永眠されたとのことです。聖俗を一瞬にして閉じ込めた追憶の彼方からの一枚。

 

絵のある待合室30


     森 大造 「李白酔歩」 1958頃 高さ58㎝


                                                      森 大造という彫刻家がいた

滋賀県に醒井木彫美術館(森大造記念館)がある。昭和2年、東京美術学校を卒業し、昭和2、3、4、6、7、8、9年の帝展に入選(昭和9年は特選)、その後文展では無鑑査となり敗戦の暮れに郷里(滋賀)に引き揚げた。戦後は日展を離れて、昭和27年創型会を結成、昭和29年には第1回仏教美術展(三越)を開催し、没年まで出品した。昭和44年に個展「無耳庵展」を開催し、世間の喧騒を避け神奈川県大磯の工房「無耳庵」に通いながら制作を続けた。昭和63年、亡くなる1週間前まで制作しつつ88歳の天寿(1900~1988)を全うした。実績、実力は申し分ない。我が道を行くような仙人の風格、人からは木彫界の異端児と云われていたとう言う。しかし、森大造を知る人は少ない。平塚在住の私にとって地元湘南ゆかりの彫刻家は発掘顕彰の対象となる。“大磯の森”の存在は知ってはいたが、その作品が市場に出たことを見たことがなかった。今回、幸運にも森大造の作品を入手することができた。昭和33年頃の制作とされる「李白酔歩」58cmである(無耳庵作品集に同型の小品が掲載されている)。作風は細緻を極める仏像から鑿跡をくっきり残す人物まで自由自在である。この作品は「長い歴史の流れの中に、名を残した人は強い個性を持っている。それを強い鑿跡で表現したかった」と森が語っている作風であり、李白の超然純真な人となりが見て取れる。李白が森大造その人と重なり合う。森大造の作品の多くは縁の人達が手元に大事に所蔵していると言う。いつの日か、また彼の作品との出会いを待つ事にしよう。

力ある埋没作家はまだまだいるのだ!